生者とゴースト

「……、あずー、る……」
ジェイドが薄らと目を開けた。
飛行術の授業で、箒から落ちた間抜けな男なのであった。
薬品の匂いがする学園の医務室は正直落ち着かなくて、早くこの男を連れて寮に帰りたかった。
「……海で、死にたいです。僕」
「はあ?」
この男が目を覚ましたことが本当に嬉しいのに、聞こえた内容が物騒すぎて、思わず声が裏返ってしまう。
ジェイドの手を握り込み、頭をベッドに押しつけているフロイドが、ピクリと震える気配がした。
「は、……何、馬鹿なことを言ってるんですか」
「海の……静かで冷たいところで、死にたいです……僕。これが、最期ならば」
「やめろ」
つい尖った声が出た。
「馬鹿なことを言わないでください。お前が今ここで死ぬわけがない」
そう強く言い切ってしまって、慌ててコホンと咳払いをした。現状が分かっていないからそんなことを言うのだ。事実をはっきり告げて、安心させてやった方がいいはずだ。
「よく聞きなさい。医療術士からは、容態が危ないだとか、死に至るような重篤な症状があるだとかは聞いていません。しばらく様子見とのことですが、順調に回復すれば問題なく日常生活に戻れるだろう、と言われています。なにより、僕達が病室から閉め出されていないということは、大したことではないってことでしょう?」
ジェイドのぼんやりした瞳が、落ち着かなさげに揺れる。
「だから、今はゆっくり休みなさい。お前のそれは、ただの気の迷いだ。……ふん、珍しいものを見ました、お前でも弱ることがあるんですねえ」
「……ふろいど、は」
「フロイドなら、お前の横にいますよ。ほら。お前の右手を握っているのがそれです」
「……ジェイド〜……」
「……ああ」
絞り出したような声が、シーツに押しつけたフロイドの口元からうめき漏れる。ジェイドは安堵したように息を漏らして、自身の手を握っているフロイドの手をきゅっと掴み返した。
その様子を見て、アズールは少し安心する。いつもと変わらない。以前同じようなことがあったときも、普段通りの日常に戻れたのだから。
「覚えていますか? お前、飛行術の授業で、高いところから落ちたんですよ。バルガス先生が魔法で受け止めてくれたので、骨折もしてはいないらしいですけど……だからお前は、ただ間抜けにも高いところから落ちただけで、……全く、本当に。ウツボの中では、高いところから落ちるのが流行っているんですか?」
「死んだと、おもいました」
「僕も肝が冷えました。でも、フロイドが塔の上から落ちたときも、……あのときも本当にぞっとしましたが、今は元気にあちこち飛び回っているでしょう? お前も、あのときと同じですよ。具合が悪いのも、気が弱っているのも今だけで、よくなりますから。だから今は、ゆっくり休みなさい」
「……そう、なんですね」
それだけ言って、ジェイドは瞼を伏せて、押し黙った。そのさまは、どこか苦痛に満ちていた。
沈黙が訪れる。もう変に思い悩むぐらいなら眠ってしまえと思ったところで、ぽつりとジェイドが話す。
「さっき、……海の底で、冷たくなっていく夢を見ました」
「……ただの気の迷いが見せた悪夢でしょう、そんなの。もう何も考えずに寝ろ」
「むずかしいことを、おっしゃる……」
「それに、海の底で死んでしまったら、もう陸には簡単に上がれませんよ。お前の大好きな山だって……」
「もう、アズールにも、会えない?」
「……ええ。そうですね。僕はもう滅多に海には帰りませんから。だから、海の底に還るなんて考えるな」
「…………」
ジェイドは瞳を揺らして、顔をくしゃりと歪めた。今にも泣いてしまいそう、と錯覚させる表情。あの、ジェイド・リーチが。ジェイド・リーチの剥き出しの表情なんて、滅多にお目にかかれない。
「ジェイド」
甘く柔らかなフロイドの声が響く。こういうとき、片割れは片割れに優しい。
「一緒に寝よ? 一緒に寝れば、悪夢なんて見ないでしょ」
「フロイド。ええ、あなたが一緒なら……」
ジェイドの声が丸みを帯びたものになって、アズールは内心ほっとした。徐々にその目が閉じていって、室内には再び沈黙が訪れる。ベッドに沈んだウツボ二人はそのまま動かない。
二人とも、眠ったのだろうか。アズールには分からない。二人の互い違いの呼吸音だけが微かに聞こえる。
「はあああ……」
深く大きなため息が、自然と漏れ出た。今日はどっと気疲れした。
窓の外はとっくに夕陽が沈み、夜の青に差しかかっていた。窓から差し込む薄青が、ウツボたちの後頭部を照らす。海の底みたいな色。
そういえば、いつ寮に戻るか全く決めていなかった。ジェイドがもう一度目を覚ましたら、フロイドを置いて退席しようか? いや、今もう退席してもよくないか?
でも、まだ目を離したくないような、離してはいけないような気もする。
そんなことを考えていたところで、ふっと空気が動いた。

ジェイドの目が薄く開いている。暗闇でぼうっと光る黄金の輝きが、アズールを照らした。その瞳は、こちらを見ているようで見ていない。
「……あずーる」
「どうかしましたか? ジェイド」
「僕、……陸で、ゴーストになりたいです」
「は!?」
またとんでもないことを言い出したので、アズールは目を剥いた。
「ゴーストの方が、飛行術なんか使わなくたってあちこちに行けますし、他の人間から見えませんし、……こんな、自由に飛ぶこともできない体よりも、ゴーストの方がきっと使い勝手がいいでしょうに」
「は!? おい。馬鹿な考えはやめろ。ゴーストだなんて……、」
アズールは驚愕から持ち直し、ジェイドにガタッと近寄り、視線もおぼつかないくせにどこか頑なな両目を見た。本気だ。何をどうとち狂ったかよく分からないが、本気のようだ。これはしっかり引き戻さないと、本当にゴーストになりかねない。
「でも、アズール。ゴーストの方が、いろいろと商売展開もできるでしょうし……ゴーストデリバリーやゴーストレストランなんて、面白そうではありませんか?」
「……やめなさいって!」
うっかりその商売プランに魅力を感じてしまってから、アズールはぶんぶんと首を振った。
「お前はぜんっぜん分かっていません! ……そもそも、ゴーストより生きている人間の方が使い勝手がいいのが当たり前でしょう。確かにゴーストの方が便利なこともあるかもしれませんが、限定的なものにすぎませんよ。何をやるにも、生きている方が間違いなくお得なんです。生きていないと……、ほら、地上の不動産も買えませんし、身分証もつくれないでしょう。契約書をゴーストと交わしてくれるところなんて少ないですし……」
ジェイドは目を半分開けて、黙って話を聞いている。少し眉間に皺が寄っているような気がする。
アズールは続けた。
「特にお前には、取引先に同行してもらいたい場面は多いですし……視察も、メニュー開発だって手伝ってもらわないといけませんし」
ジェイドは悄然と目を伏せた。
「……そう、ですか?」
「そうですよ」
「貴方が言うなら、そうなんでしょうか」
「そうなんだよ」
半ばやけくそで言い放ち、それでもジェイドはぼんやりとした目のまま、まだ首を傾げている。
まだ説得が必要だろうか、とその様子を見て、追い打ちをかけてしまうことにした。
「どのみち、お前がゴーストになっても、僕には生身の人間は必要なんです。ジェイドは、僕が別の人間を横に置くようになってもいいんですか?」
「……いやです……」
「ほら! 嫌なんだろうが!」
「っふ、」
唐突にシーツが震え出した。ジェイドの身体に異変が、と慄いたところで、フロイドが笑っているのだと気づき、アズールは眉を逆立たせた。
「おい! 何笑ってるんだ! フロイド!」
「あ〜〜……面白れ! っふふ、ジェイドぉ。アズールはお前を逃がしてくれないんだってよ。だから諦めて、飛行術頑張ろ?」
後押しだか軽口だかを叩いたフロイドを睨み上げて、アズールはコホンと咳払いをした。
未だに困り眉をしているジェイドに向かって、コホンと咳払いをする。
「とにかく。お前に死なれては困るんですから。いいな、勝手にゴーストになるなよ! 僕のためというなら、さっさと回復してください!」
「……、はい……」
ジェイドはそれ以上何かを言うこともなく、悄然と微笑んで、またゆっくりと瞼を閉じてしまった。すう、すうと呼吸音が聞こえてくる。
二人の呼吸音が落ち着いたことを確認して、全身から力が抜けて、アズールはへなへなとその場に丸まる。
その「はい」に、どれだけこちらが安堵したのか、この男は知りもしないだろう、と思いながら。