そのはじまりは、

 そのはじまりは、音もなく降り注ぐ花びらの雨だった。

 ウィンターホリデー明け、アズール達3人は学校が再開するより少し早く、海の底からNRCに戻ってきていた。既に流氷が過ぎ去ったはずの故郷の海の温度は、それでも陸の温度と比べるまでもなく低い。陸から海に入るときの海のつめたさにはいまだにぞわりとするし、海から陸に上がるときの空気のあたたかさにはいまだに慣れない。
 さて、アズールと共に戻ったウツボの片方であるジェイドは、戻った次の日の朝にはいなかった。急ぎで確認したいことがあったから連絡を飛ばしたのに返事はなく、というより彼のスマホは部屋に置かれっぱなしだったから意味などなくて、思い当たるどこを探してもいない。ほうぼうを探し回って、山にでも行ったのかと苛立ちまじりに考えたところで、寝起きのフロイドは「あそこじゃね」と告げて――まさにその場所にジェイドはいて、アズールは眼前に現れた光景にはたと息を飲んだ。

 NRCの外れの、森に近い一画だった。
 浅瀬にいる珊瑚のような、薄紅色の花びらが視界一杯に舞っていた。
 その薄紅色の花が咲き誇る枝が空を覆い尽くしていて、その枝をどっしりと膨れ上がった大木の幹が支えていた。
 その大木の、蛸足のように地中へ足を伸ばした根がごつごつと盛り上がっている部分に、ジェイドは体をもたれかかせて、目を閉じて横たわっていた。まるで陸にひっそりと住まう魔物に抱えられているよう――そうアズールは錯覚した。
 珊瑚色の花びらが、その頬に落ちた。その目蓋がわずかに開いて、こちらを捉えた。
「……おや、アズール。どうしたんですか、こんなところまで」
「……こっちのセリフです。何してるんです、お前。この花は……」
「さくら、というんだそうですよ」
「さくら」
「この時期にちょうど開花を迎えるそうです。1週間ほどしか咲かないのだとか」
 すらすらとそう言いつつ、ジェイドの半ばまどろんだままの目は舞い降りる花弁に向いていた。陸の珊瑚礁の中で、くしゃりと体勢を崩したまま。うっとりと、その太い触手にもたれかかって。
やがてその上体が起き上がって、アズールの方に向き直される。色違いのまなこがこちらを向いて、にんまりと細められる。
「気に入りましたか?」
「……珊瑚礁の産卵のようですね」
「おや、この花も、種づけのころに花びらを落とすのだそうですよ」
 種づけ、という直截な物言いに心臓がざわりと沸き立った。
 珊瑚礁の産卵のころ。夏、海が一番温かいとき。海が一番浮かれ上がるとき。ひとりぼっち、あまりの疎外感におかしくなりそうだったとき。あのとき自分が愚かだと断じた熱を思い出して、かっと血が熱くなった。今はそんな時期ではないのに。陸はまだ春だというのに。いや、陸は春が夏なのだったか。
 はらはらと振る花びらは、ジェイドの髪に、胸に、靴先に降り注いで、そこがすごくおいしそうに見えた。
 ずっとそうではないと隠してきた感情があった、そんなはずがないと見ないふりをしていたものがあった、それを今――何故か今、ああ、もう、認めてしまおう、とアズールは思った。何かが胸の中で、すとんと落ちた。
 海の重力の中では言えないことがあった。
 陸の空の下でしか言えないことがあって、これはまさにそれだった。

「……僕、ずっとお前に言いたいことがあったんです」
「? ええ、なんでしょうか」
「好きです」
「……え、」
「ジェイドのことが、好きです。お前と恋人になりたい。……なってくれませんか」
 はく、とジェイドの唇が開かれて、また閉じて、開かれて。
「……アズール、ご存知ですか。この花の下では、人間はみな気が狂うのだそうですよ」
「…………そうかもしれませんね。気が変になったのかもしれません。それで、返事は」
 ねえ、今なら聞かなかったことにしてあげますよ、というジェイドの副音声を、アズールはまるっきり無視した。
「……え、……その、」
「……お前も好きだろ、僕のこと」
「…………人の感情を決めつけるのはどうかと思いますが」
 じっと覗き込んでやると、ふい、と視線を逸らして。
「どうして、」
 はたとこちらを見返して。
「どうして、分かったんでしょうか」
 あまりにも途方に暮れたように微笑むものだから。

「ジェイド、僕はお前のことが好きです。お前も僕のことが好きなんでしょう? 好き同士なのだから、付き合ってみるのは自然なことだと思いませんか。新しい経験も、知見も得られます。何か違うと感じたら、あるいはこの関係に飽きたら、別れればいい、それだけです」
「……そうでしょうか」
「そうですよ」
「そんなにうまくいくでしょうか?」
「うまくいくもいかないも、やってみるだけです」
「……僕、すぐ飽きてしまうかもしれませんよ」
「お前を飽きさせない自信はありますよ」
「…………その自信はどこから来るのでしょう」
 それで、とアズールは続けた。ジェイドの反応を見るに、ほぼ駄目押しのようなものだった。
「それで、返事は?」
「……ええと、……本当に、よいのでしょうか」
「よいもなにもあるか。契約でも交わしますか?」
「いえ、さすがにそこまでは」
 ジェイドは早口でそう否定して、ふ、と切実な色をにじませてこちらを見た。何も隠し切れていない動揺と情欲のにじんだ目だった。
 しばらくお互いを凝視しあって――そしてふと、ふたりでに笑みがこぼれた。
「お前、どのくらいここにいたんだ。たくさんついてますよ」
 さらりと指通りのいい髪に触れて、ひとつひとつとってやる。髪の上なんてほぼ桜色なものだから、つい声を上げて笑ってしまった。そして、自分はこの男の頭に触れる、いやそれ以上の特権を得たのだと実感した。湧き上がったのはほの暗い独占欲だった。

 そのとき、桜の魔物のいたずらのように、はらりと花びらが舞い降りた。ジェイドの唇のすぐ上に。おいしそうなそこに。

 気が付けば、アズールはそこに舌で触れていた。
 その花びらを舐めとってやろうとしたのだと思う。
 舌先を這わせて、ちろりとくすぐって。はじめて触れたそこはやわらかかった。
 まんまるに見開かれたジェイドの眼差しのその奥底に、次第に熱が灯るのを見た。

 そうして我に返ってその舌先を離したとき、アズールの唾液が糸を引いた。
 結局舐めとりそこねた花弁がジェイドの唇に残ったままで、そのことがアズールを若干悔しい気持ちにさせて、

「ふ、ふふ。あついですね」

 ジェイドは舌を出して、それを舐めとった。
 アズールの唾液と桜の花弁を、ぱくりと食べた。

 それがひとつめのはじまりだった。

 

 

 

 

 そのはじまりは、音もなく振りかざされた一撃だった。

 小さな密室で行われた密会だった。己のなすべきことを終え、帰途につこうとしたジェイド・リーチは、その瞬間驚愕したように顔を上げて、――そこにいたアズールと視線が合った瞬間、魔法による攻撃を受けて、床に倒れ伏した。
 ……いや、それよりも前から、既にはじまっていたのだ。アズールが「リーチ崩し」の計画にかかわったときから。いや、それよりもずっと前、あのとき双子が海に帰っていくのを止めなかったときから。あのとき、一歩も足を踏み込めず、手を伸ばせなかったときから。すべてはあのときから。
 あれから何年経っただろう。あのときのアズール達は大人たちのゆりかごの中、子どもたちの小さな楽園の中にいた。その箱庭から出て、アズールは陸で経営者として成功しようと、ジェイドとフロイドは海で家を継ごうとした。そうして今、アズールはジェイドと敵対する組織に手を貸している。
 ジェイドが倒れたそこは、リーチ家と緊張関係にあった組織との停戦交渉の場だった。交渉もまとまり、契約も交わして、会がお開きというところで、その攻撃は放たれた。身を隠していたアズールの手から。単独襲撃ではない。単独でリーチ家に喧嘩を売るような愚かさは持ち合わせていない。計画の首謀者は別にいて、アズールはそれに乗っただけだ。実際その場には、ジェイドの敵しかいなかった。交渉相手も、仲介役も、ジェイドが連れてきた部下でさえも、すべてその首謀者とアズールの息がかかった者だった。
 この計画の首謀者の目的は、リーチ家内の自勢力の拡大と次期首領の首のすげ替えだ。あるいは別の関係者の目的は、リーチ家そのものの解体だ。目的の最低条件がジェイドの失脚だった人魚達は、ジェイド個人の処遇はアズールに委ねた――というより、そうなるように手を回した。対価をいくつも支払って。同じく彼の首を狙っていた相手に、にこりと取引を持ちかけて。
『個人的な恨みがあるんです』
『とてもじゃありませんが、普通に殺してやるだけでは満足できません』
 それ、NRCのときのか、と相手は笑って聞いた。ええ、とアズールも笑って返した。

 そうしてジェイドは、あの場所で倒れた。
 周到な準備が必要だったわりには、あっけなくことは運んだ。

 そうしてアズールは、用意した密室のベッドで横向きに寝ているジェイドをじっと見ている。すべてが終わるまで誰も入ってこない手筈になっていて、ジェイドの片割れは先ほど部屋から出ていったところだった。気を失ったジェイドに頬をぺたりと合わせて、「じゃあ、よろしく。ありがとね、アズール」と殊勝にも言うものだから、「全部終わってからまた言ってください」と返して、――フロイドはにやりと笑って、「あは。頑張ってねぇ」とだけ言い残して出ていった。
 平素の物騒な様子が嘘のように、ベッドで微動だにしないジェイドは、けれども容態の急変も見られない。あまりにも静かだったけれど、呼吸をしていることだけは確かだった。薬も盛ったから、しばらく体を満足には動かせないはずだった――NRC時代には変身薬を一緒に作っていたから、彼の体質は熟知していた。寝ていると妙にあどけなく見えるところは変わっていないのだなと、妙な安堵を覚えた。
 それでもあまりにも静かなものだから、実はもう死んでいるんじゃないかと心配になって――実のことを言うならば、フロイドのように彼に触れたくなって、手を伸ばして、するりとその頬に触れて、顎をそっとなぞった。昔よりも肉が減ったかもしれない、とアズールは思う。耳の穴に触れる。耳元に馴染みの耳飾りはつけていない。フロイドが出奔してから、彼はピアスをつけなくなったと聞いた。それはもうフロイドとの関わりはないと示すということで、フロイドを守るためなのだということも、アズールは知っていた。
 生え際に手をやって、髪をそっとかき上げた。その目立たないところ――その昔、恋人同士だったときにさんざんなぞったところに一つ小さな傷跡があって、アズールは眉を寄せた。その小さな傷跡一つが、お互いの断絶を表していた。
 それでも、これはジェイドだ。ジェイドなのだ。
 またふと魔が差して、その目の上をそっとなでた。今はその目が見たかった。
 ――ああ、その目蓋が開いて、ヘテロクロミアの眼がアズールを捕らえた。

「……ふ、ふふ、ふ」
 その息でシーツが振動する。体全体を震わせて、その男は笑う。
「予想外です」
 とろけたその声は、飴玉のような甘さと熱を含んでいた。
「貴方がここで仕掛けてくるとは」
 その肌は、アズールの手にすり、と擦り寄った。
「そんなに僕、お邪魔でしたか?」
 その目は貪欲な感情を灯して、こちらを見据えた。
「えらくなったんですねえ、アズール」
 ――アズール。揶揄するように、あるいは心からの称賛のように。その唇から漏れ出た名前の響きは、アズールの心を震わせた。ああ、その響きが。その響きが、ずっと欲しかった。こういう形を欲したわけでは、なかったけれど。
 それでも、望んでいたものがこういう形ではなかったとしても、結局今がすべてなのだ。

 

 

「卒業後は、僕は海に帰ります」
 あのとき、あまりにもさらりとジェイドは告げたものだから、アズールの反応は遅れた。進路を決めなければならない時期だった――アズールの進路はとっくに決まっていて、双子もそこについてくるのだと、そう疑っていなかった時期だった。
「…………、そうですか。何故か、と聞いても?」
「僕達、家を継ぐことになったんです」
 貴方は、とジェイドは問うた。何かの茶番のように思えた。ジェイドはその答えをとうに知っているはずだった。
「……陸に残りますよ。モストロ・ラウンジの拡大のために。僕は陸で事業を成功させます。――海に帰る気は、ありません」
「……ふふ、貴方がやることですから、きっと成功するのでしょうね。楽しみです」
 お前はついてこないのか、という言葉は飲み込んだ。そう口に出してしまうことは、口に出して事実を確定させることは、自分のこの衝撃を形にしてしまうことは、あまりにも惨めだった。アズールが何も言わないのを見て、ジェイドは口を開いた。
「ですので、アズール。僕達の関係を解消しませんか」
 そうしてすべては終わりを告げた。

「もう会うことはないかもしれませんね。……お元気で、アズール」
 最後に卒業式で告げられたその言葉は、アズールの胸を突き刺すのに十分だった。彼はもう、こちらを省みることもない。アズールよりも面白いものに惹かれて、そちらに進む。それが当然だという顔をアズールもしながら、じくじくと痛む傷に強引に蓋をして、前に進んだ。だから、いつか離れていくと言ったのに。いつかいなくなると言ったのに。どこかで信頼しきってしまっていたのだろう、彼が離れることはないと。結局、大きく入り込ませてしまって、気づいたときにはそこはからっぽだ。
 アズールは、からっぽになったそこに蓋をして、心をより頑丈な何かで固めた。もう誰も入り込ませないように。唯一想定外だったのは、フロイドは何故かちょくちょく遊びにきたということで――「だってつまんねえんだもん」と彼は言った――つまらないのに、そこにいるのはなぜです、と一度アズールは問うたことがある。「ジェイドがいるから」そして少し間を置いて、「ジェイドは、あそこにいなきゃいけないと思ってるんじゃないかなあ。オレわかんねえけど」
 それでも、その想定外も、ある日アズールの店がぐちゃぐちゃに荒らされてからなくなった。惨憺たるありさまの店の中で、「ごめんねえ、アズール」と寂しそうに微笑んだフロイドを覚えている。「迷惑かけるなって、ジェイドも言ってた。……じゃあね」そう告げて、ずっと一緒にいた二匹のウツボはもう姿を見せなくなった。
 そうしてアズールは、すべてをおぼろげに理解した。つまらないのに、そこにいる。あのジェイド・リーチが。そこにいなきゃいけないから。それは、つまり。
 「きっと成功するのでしょうね。楽しみです」。心にもない言葉だと思っていた、お前はついてこないんじゃないか、一度も姿を見せやしないじゃないか、それはつまり、僕よりも面白いものがあるんだろうと思っていた。そうではないと、あのとき全く響かなかったその言葉の意味を理解したのは、そのときだった。仕方のない外的要因が彼らを押し潰したのだと気づいたのはそのときだった。――双子の家は、厄介なのだ。

 

 陸の敏腕経営者たるアズールは、その経歴の物珍しさから社交パーティーに招かれることも多い。その一晩で他では得られない人や情報が出回ることもあって、アズールはそういう機会には積極的に出るようにしていた。それでも避けている種のものもある。ひとつ、人魚が多いもの。――かつての契約相手に会うことによる余計なトラブルは避けたかったし、何よりもう、海に戻るつもりはなかったアズールには必要のないつながりだった。ふたつ、ウツボたちが出席するもの。――双子の顔は見たくなかった。双子と会って、公の場で動揺を見せないだけの確信が、アズールにはなかった。
 そのパーティーは人魚が多く集まるもので、ウツボの片方――ジェイド・リーチが出席するらしいと聞いた。アズールは、自身の考えの答え合わせをしたくなって、招待状に参加の返信をした。もう自分は、ジェイドと会って平静でいられるかどうか。あるいは、ジェイドが自分に姿を見せない理由を知りに。

 見たことのないジェイド・リーチがそこにいた。
 奥底を見透かせないほど透明で美しくて、それでいてふと深淵をのぞきこませるかのような眼差し。物腰穏やかで柔らかく、それでいておそろしく冷たい響きを持つ声。本音などまるで見せない表情。……いや、彼がそういう仮面を持っていることは知っていた、それでもアズールに対しては、と考えたところで、アズールは彼の内底を覗くことをゆるされていたことに気づいた。そしてアズールは、ジェイドが今いるそこが、ジェイドにとっての外海であることを理解した。パーティーの主役はジェイドではないというのに、ジェイドに絡みつく触手のような視線の数々。それを涼しい顔をして仕分けながら立っているジェイド――深い深い海の底の闇の支配者となるもの、その半分。
 その支配者を、アズールは周囲から咎め立てられないぐらいにじっと観察していた。ふと彼が視線をグラスに落としたとき、その眼差しの中に黒いインクが垂らされたように、満ち満ちと満ちてこぼれそうな諦観がにじんだのを、アズールは見た。何故かあのときの、桜の下で途方に暮れたジェイドが重なった。
 そして、ジェイドが視線を上げたときにはもうそれは跡形もなくなっていた。
 その視線は、絶対にアズールと合うことはなかった。

 それがどうしても気になったから、アズールはタイミングを見計らって、ジェイドに声をかけた。会場の注目が、主催による唐突なサプライズ発表に移っているときだった。
『お久しぶりです、アズール。お元気そうですね、なによりです』
 彼は予想していたようにまばたき一つして――その瞬間だけ、ちいさな輝きがその目に差した。諦観で満ちた海の魔物がかつての宝物を見つけたかのような視線が、アズールを射抜いた。かつての。勝手に過去形にされたその結晶の形を、アズールは見た。
『……でも、僕に近づくのはもうやめてくださいね。聡明な貴方なら、これがどれほど危険なことか、お分かりでしょう?』
 ほんの数往復、あたりさわりのない会話をして。最後にそれだけを耳元に残して、ジェイドは離れていった。
 ジェイドはもう、アズールと関わる気はない。それだけがはっきりとしていた。

 あのときからずっと、ずっと、心に残っていた。どうして気づかなかったのだろう。どうして二人を海の中に置いていってしまったのだろう。あのときなら。卒業前のあのとき、彼らを引きずり上げていれば、まだ間に合っていたのだろうか? それとも、既に彼らの運命は定まってしまっていたのだろうか?
 だから、「リーチ崩し」の計画を聞いたとき、アズールはそれに進んで乗っかったのだ。

 

 

「……ジェイド。お前の身柄は僕預かりになりました」
 その声を震わせないよう、細心の注意を払いながらアズールは発話した。お互いの視線がぶつかり合った。
「っふふ、どういうふうに殺されてしまうんでしょうか、僕」
「……殺されること前提なんですね」
「おや、『普通に殺してやるだけじゃ満足できない』とおっしゃっていたのは貴方ですよ」
 アズールはひやりとしたものが背筋に走るのを感じた。そこまで知られていた。そこまで知っておきながら、アズールを泳がせていた。
「……そこまで知っておきながら、回避しようとは思わなかったんですか? お前ならできたはずです」
「ここで仕掛けてくるとは、さすがに思いませんでしたし……まあ、もう面倒になってしまって」
 やりとりの不穏さとは場違いにも、アズールの指はジェイドのこめかみにそのまま置かれていた。その指は無意識にするりと肌をなでて、それにジェイドは心地よさげに目を細めた。そのことにアズールは息を詰めた。まるで、あなたなら安心だ、とでも告げるかのような、変わらない信頼がそこにあった。あの短いひとときの思い出のジェイドがそこにいた。
「貴方なら、いいですよ、アズール。貴方が僕を殺してくれるのなら、僕は嬉しいです。……ああ、すみませんが、フロイドはお願いしますね」
 ぐわりと怒りが湧いて、アズールはジェイドを睨みつけた。
 アズールにそんなことを言う彼が、どうしようもなく癪にさわった。

 

 

 駆け引きの途中、こちらに寝返った――というより最初からそれを見込まれていたのだろうフロイドは、ある日言った。アズールが、「やけに計画がうまくいきすぎている」と呟いたときのこと。
「ジェイドね、アズールが噛んでるって知ってから、手ぇ抜いてんの」
「……は? 何故」
「まあそうするでしょ。オレだってそうしたし」
 ジェイドね、アズールのこと好きだよ。ずっと。ひとりごとのようにつぶやかれたそれに、何も返すことはできずに、じゃあ、なんで離れたんですか、と心の中でつぶやいた。

 

 

「……アズール?」
 アズールはジェイドを睨みつけたまま微動だにしなかった。ジェイドのこめかみにあてた指に力がこもった。どうしてお前はいつもそうなんだ、と胸中の思うがままを吐き出して、ぶつけてしまいたかった。
 それでも、今ここで、間違えてはいけない。
「……間違えるなよ。もうお前は僕のものなんです」
「ええ、ですからどうぞ、お好きなように。今さら命乞いもしませんよ」
「ええ。ええ、そうですね、お前には死んでもらいます――ジェイド・リーチには死んでもらう」
 ジェイドの瞳に映った――微かな生への諦観と、強烈な歓喜が。
 それがさらに気に食わなくて、ああもう、本当にこいつだけは、と腹立たしかったが、今は勘違いさせておくことに決める。
 アズールは一枚の契約書を魔法で引き寄せた。署名欄以外はすべて魔法で隠されている、趣味の悪い契約書。さすがのアズールもめったに使うことはない細工がされたそれを、ジェイドに突きつけた。
「ジェイド、これにサインを」
「……ふ、ふふ、すごく悪趣味ですね。書面を見せてはくれないのでしょうか?」
「安心しなさい、さしものお前も泣いて嫌がるようなことですから」
「おや、僕、どんなひどいことをされてしまうのでしょう!」
 なんでお前はそう嬉しげなんだ、とアズールはますます機嫌を悪くした。そう、まるで、――あなたがなさることなら、僕、なんでも受け入れますよ、とでも言うかのようで。
 ベッドに横になった不安定な体勢のくせに、ジェイドはさらさらと流麗に名前をつづった。契約書にはきちんとJade Leech、と収められて、瞬間、ぶわりと光が広がった。契約は成立した。――計画はうまくいった。
「書きましたね」
 ジェイドが顔を上げて、視線が噛み合った瞬間、その頭を引き寄せて、その唇にかじりついた。もう遠慮は必要なかった。その口も、肌も傷跡も、その呼吸でさえも、もう全部アズールのものだった。逃げようとする舌を絡めとって、吸い付いて、そのままウツボをむさぼる。反射的にだろう、弱々しく身をよじって逃げようとしたものだから、アズールはその顔をがつりと固定してやった。柔らかな粘膜が触れ合う間、ジェイドはこちらを傷つけないためにだろう、お行儀よく口を開けたまま、ずっとアズールを凝視して硬直していて――アズールも目を閉じてなどやらなかったから、至近距離でその視線はかち合ったままだった。
 何十秒経っただろう。
 ついに口を離してやったとき、は、という吐息のような驚愕と、細い糸が二人をつないだ。閉じることを忘れたジェイドの唇から唾液がこぼれた。ジェイドは動揺そのものの声を出した。
「なん、で――お情けですか?」
「お情け? まさか!」
 光の広がった黄金の契約書には、もう文字が展開されている。
 ――「お互いはお互いに終身の隷属を誓う」。ありきたりの文言と、物騒な文言が入り混じる文面。結婚誓約書に似た、しかしそれよりもはるかにお互いを縛るもの。
 それにさっと目を走らせて、ジェイドは先ほどまでの上機嫌が嘘のように、青白い顔でアズールを見た。
「……正気ですか」
 その声は震えていた。
「正気に決まっています」
 アズールは断言した。
「……僕を抱え込むなんて。ここまでのしあがってきた商売人の貴方らしくない。ええ、フロイドのことはお願いしました、貴方ならうまくやっていけそうだと判断した、でも、僕まで抱え込むことにどれほどのメリットがそこに、」
「うるさいな。もう一回その口閉じてやりましょうか」
「は、」
 扉の向こうから、「ねー、うまくいったあー?」とフロイドの声が聞こえた。ひどく上機嫌そうな声だ。うまくいったのだと絶対に確信している。

「だから手に入れたんです。金も。地位も。権力も。名声も。誰だって黙らせるために」

 

 

 優秀な頭を失った群れがどうなるのかなんて目に見えている。
 首謀人はただ目の上のたんこぶを潰したかったようだったが、きっともっとややこしいことになるかもしれなかった。ジェイドの代わりにと手を挙げていたその人魚は、ジェイドの代わりになるような人魚だとは到底思えなかった。その人魚の背後に、古く巨大な組織を食い荒らそうとする捕食者達の笑みが見えた。
 再編の嵐が吹き荒れる組織は、もしかしたら分裂して、もしかしたらその力を弱めて、あるいはよりどろどろとした抗争の沼に落ちていくかもしれないが、それでもきっと、すべてが流れを終えることはない。止まることのない海流が深い深い海の底に潜んでいるように、裏で闇の系譜は続いていく。
 でも知るものか。そんなことは、アズールの知ったことではなかった。アズールの標的はただこの男だけだった。この男を自分の側に取り戻したかっただけなのだ。細かいところまでよく目が届いて何でもそつなくこなせて、そのくせ自分は逃げ出すという発想がない、鈍感で臆病なウツボを。

 

 

「お前はもう、僕のものなんです」

 だから諦めろ、と、その愕然と見開かれた瞳に告げて、とどめにもう一度、深く口づけてやった。