「おや」
それだけを呟いて、僕の斜向かい、モストロ・ラウンジのソファ席に座っていたジェイドは体を傾がせた。ついつい視線を上げて、ぎょっとする。様子がおかしい。片腕をついてソファにもたれかかっているし、顔は赤く染まっていて、目線はふらついている。
あわてて僕は立ち上がり、その肩に手をかけた。
「おい⁉︎ どうしたんです」
「まちがえました……」
「は?」
「あなたの紅茶に、魔法薬を混ぜるつもりだったのですが。まちがえて、僕の分に、混ぜてしまったようで……」
「はあ?」
ちょっとでも心配した僕が馬鹿だった。
♡♡♡
「猫の言葉が話せるようになる薬だったんです」
自ら薬を飲んだ馬鹿な男が、馬鹿なことを言っている。
「この薬を飲んだ人間は、人間の姿のまま、にゃあにゃあと流暢に話すことができるそうですよ。僕は、貴方が動物言語をしゃべっている姿が好きなので……ぜひ、貴方がにゃあにゃあと話すところを、見たかったのですが……」
「分かりました。今後僕に入れた飲み物は、お前が先に口をつけなさい」
「おやひどい。たった一度の失敗で、僕にもう機会を与えてくださらないなんて……」
「失敗したお前の責任だし、そもそも僕に得体の知れない薬を盛ろうとするな」
「得体の知れない、ではありませんよ。正真正銘、172年前の魔導書に書かれていた、由緒正しい……」
「それを得体の知れないって言うんだ。そもそもどこから入手したんですか、そんな薬」
「僕が調合したんですよ」
ますますろくでもない。きつく眉をひそめた僕に何を思ったのか、ジェイドは体を崩したまま、こちらを見て微笑んだ。
「……ああ、アズール、安心してください。この薬を飲んだ者は、そのことを綺麗に忘れるそうですから……」
「余計にたちが悪いじゃないか……」
どこに安心できる要素があるのか。ああ言えばこう言う、こういうやつなのである。
「……それで? 見たところまだ人間の言葉を話せているようですが、それは本当に効果のある薬なんですか?」
「……ええ、アズール。確かに……僕は、さっきから……にゃあ」
「…………」
「にゃみーあ」
思わず笑いそうになってしまったが、すんでのところで表情を引き締める。この薬が僕に盛られて、僕がこの醜態を晒すことになっていたのかもしれないのだ。しかし。
しかし、目の前のこの状況は、端的に言ってしまえば愉快なものだった。ジェイドが、あのジェイドが、うっかり自ら盛った薬のせいで、猫のようにしゃべっている!
それにしても、薬の効果の限界なのか、随分と下手くそな鳴き方だ。猫に寄せた発音であることだけは分かるが、何を言っているのかはよく分からない。ルチウスさんあたりに鼻で笑われそうだ。
「にゃあ、みみーにゃあ」
そして、何を言っているのか分からないなりに、しょもしょもと悲哀を帯びた声で鳴かれて、ついに僕は吹き出した。
「……み……ひどいです。笑うなんて……」
「ふっ、……失礼しました。ああ、そのまま人間の言葉もしゃべれるんですね」
「話せるのですが、……少し、頭が、混乱しますね」
「猫の言葉に自動で変換される薬、といったところなんですか? ……は? おい」
何を思ったのか、ジェイドはいきなり肩口に頬を擦りつけてきた。そうして、にゃあ、と甘えたような声で鳴く。うっとりと細められた瞳に僕を映して――そこで度肝を抜かれて固まった僕を認めて、はっとしたように身をこわばらせて、すすっと身を引く。
「……にゃ……すみません。つい。この薬は、……話し言葉だけではなくて、身体言語、つまり仕草ですね……それも、猫のようになるのだとか……」
「……ふうん」
僕は適当に相槌を打った。それしか言葉が出なかった。正直なところ、かなりどきりとしたのだ。……かわいい。かもしれない。そもそもこの男は、僕に魔法薬を盛ろうとしたこの物騒な男は、一応僕の恋人なのだ。
なんというか、薬を飲んでからというもの、言動といい行動といい、普段のジェイドからは考えられないほどに素直すぎる。あからさますぎる、とも言える。何か企んでいるんじゃなかろうか、という疑念さえ頭をもたげてくるほどに。
「猫のお前は、やけに素直ですね」
「……」
そう恋人を甘やかす用の声で囁いてやると、ジェイドは先ほどまでの物騒さが嘘のように、気恥ずかしげな困り顔で、こちらをそろりと見やった。
「猫だから、なんでしょうね。……どうも、思考も猫に寄るようです。ですので比較的、口が滑りやすくなってしまうことが多いとか。魔導書にそう書いてありました」
「結構とんでもない効用だな……後で魔導書を教えてください」
もしかすると何かに使えそうだな、という思考が走る。まあ使えないかもしれないが、何事も知っておいて損はない。まあ、ジェイドの話が嘘でなければだが。
しかし、口が滑りやすいジェイドとは、なんともまあ珍しい。しかも、僕が仕掛けたわけでもなんでもなく、勝手にジェイド自身がこんな馬鹿げた状況に陥っているのだ。そう思うと、むくむくといたずらごころが湧いて出た。
当のジェイドは、先ほどのことを秒で忘れたのか、また僕の肩にもたれかかってきた。とろんとした目で、にゃあ、とまた小さく鳴く。かわいい。かわいい、のだが。
――悪い誘惑に駆られる。今ジェイドは内心を素直に出してしまいやすい状態らしい、ということ。どうやら服用中のことは忘れてしまうらしい、ということ。……ならば。普段なら聞けないジェイドのあれこれを、聞いてしまういい機会ではないか。
僕は慎重に、甘くゆっくりと囁いた。
「……ジェイド。僕に告白すべきことがあるでしょう?」
ない。というより、僕は知らない。単なる鎌かけだ。
「……ん、…………」
とろりと溶けた色違いの双眸がこちらをまっすぐに見つめる。にゃあ、とまたぐずるように鳴いて――思案。逡巡。やましさ。不安。普段ならほぼ読み取れないその感情が、分かりやすく表情に出る。その素直な挙動のせいか、それともこちらの背徳感のせいか、またどきどきと胸が高鳴る。
ジェイドが、口を開く。
「……アズール、……すみません。この前、ジャミルさんから茶葉をいただいたのですが、……それを、秘密にしていました。あと、……すみません。いいキノコが育ったので……、明日のまかないに入れようかと考えていました」
「は⁉︎」
「それから……それから、アズール、」
「うわ、まだあるんですか?」
明日のその計画は絶対に阻止しよう、と固く決意した僕に向かって、ジェイドはうわごとのように、アズール、と幾度も名前を繰り返す。そして。
「……アズール。僕、あなたがすきです。あいしています。ほんとうに。ねえ、ほんとうに、僕は、あなたが大好きなんですよ、……ほんとうに……」
ふにゃりと笑んで、ジェイドはそんなことを言った。眉だけが少し不安そうに下がっていた。
……それは。それだけは、完全に予想の斜め上、想定外の言葉だった。ジェイドに僕の内面を、出したこともないはずの不安を見透かされたような気さえした。
固まっている僕をよそに、ジェイドはまたにゃあと鳴く。……にゃあ? にゃあって。まさか。
「……お前、さっきから何をにゃあにゃあ鳴いているのかと思ったら、」
「……ふふ、……にゃあ、……んふふ。すきですよ、アズール。本当に」
ふと、ピースがかちりとはまった気がした。
何故ジェイドが、間違えて薬の入った紅茶を飲んだのか。だって本来なら間違えようもないはずなのだ、薬を入れた方を僕にサーブすればいいだけなのだから。
そして何故、ジェイドは僕と付き合っているのか。
「……お前、それ、これぜんぶ、僕にそれを言いたかっただけなんじゃ、」
「ふふ。ふふふ……どうでしょう……そうですねえ、貴方がにゃあにゃあと話す姿を見たいと思ったのも本当ですが、僕が貴方のことをとても大切に思っている、というのも本当のことですから……ふふふ…………」
ジェイドは好き勝手にそう告げて、ぐにゃりと溶けて僕の膝の上にぱたりと倒れ込んだ。そうしてまぶたがゆっくりと閉じられていく。好きなところで好きなように眠り出す性質は、そう、確かに猫っぽい。
「ジェイド? おい、ジェイド?」
ジェイドは目を瞑ったまま、小さな小さな声で、にゃあ、とまた鳴いた。
これを忘れるなんて嘘だろ、と僕は呟いた。返答はない。
残されたのは、飲みかけの紅茶とやりかけの仕事。そして、ここから立ち上がれない罠にはまってしまった僕だった。