ペルヴェーレがお母様に頼まれてケーキを買いに行く話。飼い馴らされることについて。
※多くの公式情報との食い違いがあります
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ある日、お母様はペルヴェーレにこう頼んだ。
「ああ、ペルヴェーレ。ケーキを買ってきてくれないか?」
ペルヴェーレは虚をつかれた。お母様からそんな依頼は受けたことがなかった。
「細かいことは」彼女は傍に控えていた部下を示した、「それに聞いてくれ」
そこで、彼女は唇を歪めた。
「お前も買い物の仕方ぐらい知っているだろう?」
知らないのだとしたらそれはお母様のせいなのだが、ペルヴェーレは口答えをしなかった。ただ目を伏せ、肯定の返事をした。何かを買うことを知らないまま死んでいったたくさんの同胞の代わりに、ペルヴェーレはそれを知る機会を得た。
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『王』になったのはペルヴェーレだった。彼女以外、家には誰一人残らなかった。かつての家は、今やただのファデュイの拠点として使われていた。かつて子供たちが遊んだ場所は、ファデュイたちの溜まり場となっていた。
王となり、ペルヴェーレの境遇は変わった。ある程度の自由が与えられ、ある程度家の外に出ることを許された。長期間の潜伏任務のため、一般人の日々の過ごし方を学ぶこともあった。とはいえ結局はお母様の監視下にあった。
命令が与えられるとき以外、ペルヴェーレには特段やることはなかった。だから空いたときには鍛錬をしていた。剣を振るいながら、ペルヴェーレはその命令の背景について考えた。
普段なら、お母様はペルヴェーレにそんな命令をしなかっただろう。そういうことはペルヴェーレではなく、彼女の忠実な部下たちの仕事だった。たまたまこの日、何かあったのだ。部隊をほとんど動かさなければならないような何かが。どうしてもそのケーキが必要になる何かが。
確かにお母様の部下たちは忙しそうだった。ペルヴェーレは鍛錬場から、ファデュイの部隊が集まってはどこかへと散っていく様子を見た。それは甘い匂いにつられ、地べたを這い回るアリのようだった。それはこのまま進めば自分がなるであろう姿だった。
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翌朝のまだ暗いうちから、ペルヴェーレはお母様の部下に言われた通りにフォンテーヌ邸へと向かった。そのケーキは1日16個しか販売されず、場合によっては早々に売り切れてしまうらしいから、用心には用心を重ねるべきらしい。
フォンテーヌ邸に到着したころには、辺りは徐々に明るくなってきていた。だがまだ太陽は昇っていなかった。ホテル・ドゥボールの前には誰も並んでいなかったが、ペルヴェーレはそれでも用心することにして、その大きな建物の前に立って待つことにした。
立ったまま、ペルヴェーレは辺りを見回した。近くに新聞社の大きな看板が見えた。下の通りにはカフェがあり、商店があり、無数の家々が横たわっていた。そして、頭上には壮麗なパレ・メルモニアがそびえ立っていた。ペルヴェーレはそれらを幾分かの感嘆を持って見渡した。夜に任務でフォンテーヌ邸に来ることはあったが、明るいうちにここの景色を見たことはなかった。それはかつてなら目にすることさえ許されなかった世界だった。
やがて日が昇った。フォンテーヌ邸は陽光に照らし出されていった。路面が光を反射し、ガラス窓がきらきらと輝いた。その様は壮麗で美しく、けれどもどこか冷たかった。
かつて、家の子供たちの中でただ一人、クリーヴはこの景色を見たはずだった。
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ある日、クリーヴは家を抜け出した。幸か不幸か、脱走した先にはたまたま警察隊員がいた。その人は善良な隊員で、クリーヴをフォンテーヌ邸に連れていって保護した。
クリーヴはそこで家のことを話した。強制された決闘のことを話した。家で行われた実験のことを話した。翌日、大勢の警察隊員が壁炉の家にやってきた。けれども証拠はどこにもなかった。
警官はお母様を問い詰めたが、お母様は善良なふりをし、代わりにクリーヴを指さした。
「その子には私も手を焼いているのです。けれども、私のかわいい娘です。私にそんな疑いをかけただけではなく、その娘を私から引き離すというのですか? 私の大切な実の娘だというのに」
お母様がそんなことを言うのは初めて聞いた。その白々しい答弁を、ペルヴェーレは物陰から聞いていた。
お母様と警察隊員はしばらくの間睨み合い、家は少々騒がしくなった。子供たちは内心何かが変わるのではないかと期待した。緊張状態は数日続き、けれどもクリーヴはある日突然戻ってきた。お母様がお偉方の伝手を使ったのだろうと察せられた。彼女はフォンテーヌの貴族や権力者に深く入り込んでいた。
「やれやれ、随分と面倒をかけさせてくれたね」
お母様はまた豹変した。それはよく知っているお母様の顔だった。
家の周囲の警戒は、しばらく厳しくなった。お母様の統制も厳しくなった。一部の子供たちは失望すると同時に、はっきりとは言わなかったが、家の秩序をより厳しくさせるクリーヴを遠巻きにした。
あとからお母様がクリーヴに告げたところによると、その善良な警官は不慮の事故で死んだらしい。それが真実であるかどうかは分からなかったが、彼女は明らかにクリーヴの目の前でそう話すことを楽しんでいた。そうしてクリーヴの瞳から、また輝きが消えていった。
後になって、クリーヴは一度だけそのときのことを話した。
「フォンテーヌ邸ですごした夜は……夢のようだった。窓からたくさんの家が見えたんだ。私、そのどこに住むかを想像したの。知らないご飯を食べて、この家とは違うベッドに寝て、ようやく何かが変わるんじゃないかって思えたの。でも……結局何も変わらなかった。それに……」
彼女は目を伏せた。しばらく沈黙が続いた。彼女が罪悪感を抱えていることは明らかだった。
「……フォンテーヌ邸はね、すごく綺麗で立派だったんだよ。でも、確かにあそこの窓から月は見えなかったの」
月が見えても見えなくても、あの結末は変わらなかっただろう。今でもペルヴェーレはそう思う。
それ以降、クリーヴは二度とその日のことについて語らず、やがて二人の日々は終わりを迎えた。
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クリーヴもこの朝の街並みを見ただろうか? この美しい朝の光景を、希望を持ってキラキラと見つめただろうか? ペルヴェーレはついそう考えた。
クリーヴの逃走がうまくいったのはあのときだけだった。あのとき、彼女だけでどこかに逃げてしまえばよかったのに。もしそうなっていたら。もしかしたら、今ここで再会できただろうか?
——いや。ペルヴェーレはきつく目を瞑った。お母様が裏切りを見逃すはずがなかった。苦く苦しい、痛切な悲哀が沸き上がった。もういない人の影を、ずっと探している。もう結末が確定した過去を変えられないかと、ずっと考えている。考えても何の意味もないのに。
しばらくして日は高く昇り、街は随分と騒がしくなってきた。その喧騒に、ペルヴェーレはじっと耳を傾けていた。柔らかで温かな日差しが彼女の頬を撫でた。それは久方ぶりに感じた温もりだった。家の影は、ここには存在しなかった。けれどもペルヴェーレの心臓に、その影はとうに染みついていた。
ケーキを買って、帰らなければならない。
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ケーキを買うのは、拍子抜けするほど簡単だった。
やがてホテル・ドゥボールは開店時間を迎えた。開店と同時にペルヴェーレはそこに足を踏み入れた。結局その日は、誰もペルヴェーレの後ろには並ばなかった。
華やかで品格のある内装だった。開店を待ち構えていた従業員は、半人前の子供に向かっても礼儀正しく腰を折った。
「……ドゥボール・ケーキを四つ、ください」
「かしこまりました」
そして従業員はペルヴェーレの姿を見て少し微笑み、こう尋ねた。
「おつかいでしょうか、お嬢様?」
「……はい」
ペルヴェーレはなんとか返事をした。お嬢様と呼ばれたのは初めてだった。
従業員は微笑んだ。慣れた手つきでケーキを箱に入れ、彼女に渡し、「当店をご贔屓にしていただき、ありがとうございますとお伝えください」と言った。
それだけだった。
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ケーキの箱を、ペルヴェーレは慎重に持ち運んだ。
帰り道で、たくさんの人と行き交った。商人は取引をし、新聞記者は脇を駆け抜けていき、高貴な身なりをした人たちは装飾品店の前で談笑していた。
ペルヴェーレは冷めた感情とともにそれらを見た。それは随分と遠くの世界の出来事、ペルヴェーレの反対側で切り離された世界の出来事だった。
警察隊員も辺りを巡回していた。隊員たちは、家ではほとんど見ることのない明瞭な意志と正義感に溢れた眼差しをしていた。ペルヴェーレはその横を通り過ぎた。こう話しているのが聞こえた。「困っている市民を見かけたら、必ず声をかけるのよ」
もちろんペルヴェーレは、警察隊に声をかけるようなことはしなかった。けれども考えはした。例えば今、警察隊に家の話をしたら。かつて行われた殺人と実験の話をしたら。結末は見えきっていた。その行為は惨事しか招かない。
ペルヴェーレは何の証拠も持ち合わせておらず、お母様は裏切りの対処に慣れていた。あの狡猾な人は法の目をかいくぐってうまくやる方法を随分と熟知していた。それに恐らく、ファデュイという外国の勢力への対処に、この国は慣れていなかった。
けれどももし、それでも告発すれば。ペルヴェーレはまた考えた。王といえど、お母様はペルヴェーレを罰するだろうか。もしかしたらペルヴェーレは裏切り者として殺され、お母様はあの狂った実験の成果物を自ら台無しにするだろうか。
その未来は少し見てみたいような気もしたが、思いつきの計画に身を委ねるのはやめた。代わりに、ペルヴェーレにはもっと見たいものがあった。
あの人たちが掲げる正義は。ペルヴェーレはパレ・メルモニアの前を通りかかった。私たちを照らさない。そうして通りすぎた。この国の正義は、あの家の闇には届かない。
パレ・メルモニアの職員であろう人物が、ペルヴェーレの反対側に向かって駆けていった。「ちょっと、困ります、そのやり方は——」あの人たちの公平は、家に視線を落とさない。「きちんと手続きを踏んでもらわないと——」あの人たちの秩序に、家は最悪の形で組み込まれている。
それはこの長い年月の中で理解させられ、刻まれたことだった。
——あるいはその思考こそが、お母様に飼い馴らされた結果だったのかもしれない。
そうしてペルヴェーレはフォンテーヌ邸を後にした。それはこの国の光から永遠に遠ざかっていく歩み、この国の秩序から完全に逸脱していく歩みだった。
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家はまだ騒がしかったが、お母様は執務室にいた。
「そうか」
任務完了の旨を報告すると、彼女はそう言った。忙しいらしく、手元の資料に顔を向けたまま目線だけが寄越された。特に感謝や労りの言葉はなかったが、もちろんそれはいつものことだった。彼女は資料に視線を戻し、ややあってから再度こちらを見やった。その口端が吊り上がった。
「戻ってきたね?」
どろどろとした不快感が底から湧き上がり、渦巻いた。ペルヴェーレはそれを押し込んだ。これは彼女の罠だったのかもしれなかった。あるいは単なる確認だったのかもしれない。もうペルヴェーレが逃げ出したり反抗したりしないことを確かめるための。
ペルヴェーレは目の前の女を見つめた。つい眉間に皺が寄った。ある意志がより強く固まるのを感じた。それはとうに決めたことだった。
ペルヴェーレには見たいものがあった。それはこの支配者が奈落へと落ちる瞬間、この秩序が崩れ落ち、書き換わる瞬間だった。
「……はい、お母様」
私はここに戻ってきた。
あなたを殺すために。