まず視界に入ったのは、鼻の先にある恋人の寝顔だった。
「……ジェイド」
いつのまに入り込んだのやら、とまず思った。警戒心が高いはずのウツボはアズールのベッドでふくふくと寝ていて、アズールが吐息でまつげを揺らしても起きる気配もない。滅多にお目にかかれない寝顔を観察し放題である。……それにしても、あまりにも近い。
何となく落ち着かなくなって身じろぎしたそのとき、このウツボと僕が、海藻のようにがっつりと絡み合ってしまっていることに気づいた。
僕の腕の上にジェイドの頭がある。僕の足の間にジェイドの足がある。僕の背中に、ジェイドの手のひらの温度がふたつ、感じられる。細かな身じろぎを重ねるごとに、それまで曖昧だったふたりの輪郭があらわになって、どれだけぴたりと体を添わせてしまっているかが明らかになっていく。お互いの体の接点の何と多いことだろう、そう認識していくたびに体の内側から熱が上がった。この状況は、恋人になりたての相手とこうも密着してベッドにいるという状況は、大変よろしくない。全く落ち着かない鼓動を少しでも落ち着かせるために、はああ、と深くため息を吐ききった。何がどうしてこうなった。
ジェイドの下に敷かれている腕を曲げてその後頭部に触れると、さらり、と手触りの良い髪が指先をなでた。そのまま手慰みに髪をすく。それでもまだ、ウツボは無防備にすうすうと寝ている。はあ、とまたため息を吐く。
体をまともに動かせないのだから時計もスマホも見れず、今何時なのかも分からなかったが、日の差し込み具合から察するにとっくに朝は訪れているようだった。だから目の前の相手を起こしてやってもよかったのだけれど、すやすやと眠る恋人の顔を見ていると、どうもそうするのも忍びなくなってくる。そして、気持ちよさそうに眠るその顔を見ると、どうも僕も眠くなってくる。まあいいか、とまた眠気に溺れかけた頭は思う。まあいいか。あとで聞けばいい。
体をもぞもぞさせるのをやめて、ふつりと力を抜く。僕の体をジェイドの体にぴたりと這わせる。そうしてまた、ふたりの境界線がどこだか分からなくなっていく。ふたつの体がひとつになっていく。意識も次第に沈んでいく、そんな中、言い訳のように思う。
僕の記憶が正しければ、今日は休日であるし、特に何も差し迫った予定はない。
好きな相手が腕の中にいる、という何故か降ってきた幸福を手放すほどのことは、何もない。
そうしてまた、まぶたが開く。
「おや……おはようございます、アズール。珍しいですね、貴方がこんな時間まで寝ているなんて」
耳元にひそやかに、穏やかな声が落とされる。意識が徐々に、徐々に浮き上がる。ぱちぱちと瞬きを繰り返して、視線の先のみどりいろに照準を合わせた。なぜかここにいたジェイドがまだそこにいる、認識できたのはそれだけだ。一度寝直したからか、頭にぼんやりとかかっている眠気がなかなか去ってくれない。好きな相手が腕の中の距離にいる、その幸福の温もりにまだたゆたっていたい。
「……おはよう、ございます……ジェイド、お前……なんでここにいるんだ……?」
「おや、……貴方が引きずり込んだんじゃありませんか」
「……は?」
「一緒に寝てくれって」
その幸福の中に爆弾が投げ込まれて、一気に目が覚めた。
なんだその、やけに思わせぶりな言い方は。なにがどこまで昨夜あった。絶望したいことに、全くなにも、これっぽっちも覚えていない。それに別に、体にはなんの違和感も見当たらない――ジェイドが僕の腕の中にいて、僕がジェイドの腕の中にいるという一点以外は。いや、その一点が重要なのかもしれなかったが。
動揺を取り繕えなかった僕に何を見たのだろう、ヘテロクロミアの瞳は腕の中でにんまりと笑った。「あ、今貴方が想像しているような、そういういやらしい意味ではなく」となんてこともないように告げる。それに何だかほっとするのと同時にどぎまぎして、そして大変腹が立った。
「おや、怒らせてしまいましたか?」
「分かっているくせによく言いますね」
「一緒に寝てしまったの、お嫌でしたか?」
「……いやだったとは言ってない」
「では、残念でしたか?」
「はあ? なにが、いや、なにも言ってないだろ」
ジェイドの言わんとするところを察してどうにも気恥ずかしくなり、やや強めにごまかしの言葉を吐いた。本当に好奇心旺盛なウツボである。
そのウツボは唇に笑みをかたどったまま、瞳孔をわずかに大きくした。その瞳に差した色に、あ、と嫌な予感がする。
「……っ!?」
ほんの一瞬。柔らかい何かが唇に触れた。
ジェイドの虹彩のきらめきが、やけに近くで見えた。
「…………な、」
「……アズール、僕、お腹が空きました。何か作りに行きましょう」
「お前、いま、」
何事もなかったかのようにつつっと視線を外して、何事もなかったかのように起き上がろうとする恋人の肩を思わず掴んだ。こちらを再び向いたジェイドの目元はうっすらと紅に染まっていて、口元は隠しきれていない弧を描いていた。
視線が合う。途端、破顔。
「っふふ、そんなに驚くことですか?」
恋人でしょう、僕たち、とみどりいろは大層おかしげに声を立てて笑った。