夜の中の君を追いかけ、夜明けとともに君を殺す
2025/05/04刊(以下)の再録です。 https://www.pixiv.net/artworks/129811202 無口で本当のことしか言わないペルヴェーレが、雄弁に情報を操りいくつもの顔を持つ情報官アルレッキーノになるまで、あるいは現召使が前任の轍を踏んでいることに気づくまで、あるいは自分の手で〝本当の家〟を実現させることを諦めるまで。 前提: 主に以下の捏造があります。 ・クリーヴの幻影は現召使が家を引き継いだ当初から現れ、召使は何度もその亡霊に会っていた ・淑女が召使の監視の任に就き、そのときの交流をきっかけに親しくなった 関連: 表紙ログ:https://privatter.me/page/6a232880bf0b2 後書き :https://privatter.me/page/6a2326f3e6361
夜を歩くとき、アルレッキーノはいつも夜闇に溶け込むかのような感覚に陥る。
夜は最もよく立つ戦場であり、最も身に馴染んだ領域。
夜の闇の中で我々は狩りをし、獲物を追い込む。
けれども夜はそれだけではない。夜に我々は眠り、夢を見る。ときに夜は自分だけでは抱えられない闇を共に抱えてくれ、ときに夜はただ穏やかな安息を与えてくれる。
その日の夜は後者だった。
何の特殊作戦も行われていない、壁炉の家の平穏な夜はただ明日に向かって更けていく。子供たちはとうに寝静まって夢を見ているのだろう、家は糸が張り詰めるかのような静けさで満ちていた。
その糸の上を、現「召使」アルレッキーノだけが歩いている。
何故なら、夜に我々が眠るのと同じように、夜に亡霊も夢を見るから。
執務室の扉を開けると、窓は既に開いており、室内に青白い月の光が差し込んでいた。
高天にかかる月は相変わらず冴え冴えと輝き、地上を見下ろしている。まるでこちらに何の関心も持たないかのように、その光はどこか冷たい。実際、あの月は天に映し出された虚像にすぎない——らしい。
けれどもかつて、私たちはあの月光の下で夜を共に過ごした。
あの高天にかかる月を心の支えとし、やがて訪れる太陽を恐れ、今をやりすごすために身を寄せ合った。
あの夜の中に永遠に留まりたいと、そう願っていた。
そして今、その青い月光に照らされて、存在するはずのない子供が佇んでいる。
アルレッキーノは内心嘆息した。湧き上がった過去への感傷を押しやり、目の前の現実を見据える。扉を静かに閉め、その小さな背中に呼びかけた。
「やあ、ここにいたんだね」
その赤い髪がこちらに気づいたように揺れ動き、やがて澄んだ青い瞳がこちらを映す。
「クリーヴ」
それはかつて、ペルヴェーレがこの手で殺したはずの者の名。
とっくにこの世を去っているはずの亡霊は、今なお壁炉の家の影を彷徨っている。
◯
「ペルヴィ! いたんだね」
その幼い声は喜色に弾んでいた。クリーヴはこちらに向かって駆け寄ろうとして、ふと困惑したように首を傾げた。
幻影のクリーヴは、いつもペルヴェーレと初めて出会った頃の姿をしている。その瞳にはまだ陰りは見受けられず、純粋無垢な希望の光で満ちている。何故ならば、まだ絶望に覆い尽くされる前の幻影だから。
「本当に久しぶり。ねえ、どこに行っていたの? それに、なんだか……大きくなったね?」
アルレッキーノは淡く微笑んだ。まだ彼女と相対することに慣れていなかった。
彼女は本当のクリーヴではない。それはかつてのクリーヴの残影にすぎない。まだこの先の希望を信じている、当時の少女のままの余燼にすぎない。
何故彼女がここに存在しているのだろうか? ——それは彼女と出会うたびに何度も繰り返された問いであり、もうほぼその答えは分かっていた。アルレッキーノの血筋は、特殊な呪いをこの身に宿しており、その呪いこそ幻影を生じさせてしまった原因なのだと。
呪いはアルレッキーノの炎に呑み込まれた者の〝残影〟を現世に残してしまう。それはときに声として残り、ときに色として残り、ときには幻影となって現れる。今までこの手で殺してきた同胞たちの残影が、まるで戯れているかのようにゆらゆらと彷徨っている様子を、アルレッキーノはずっと見てきていた。
それらは通常、明確な人の形を持たず、こちらに話しかけることもない。自身がペルヴェーレであった頃から、アルレッキーノはそういった幻影達と常に共にあり続けた。
けれどもある日現れた——目の前にいるような、明確な自我を持つ亡霊が。
彼女は本当のクリーヴではなく、ただの記憶の残響だ。けれどもそう頭で理解していても、その亡霊はあまりにも往時のクリーヴそのままだった。ここまで明確な形と自我を持った幻影は、クリーヴ以外目にしたことはなかった。
「久しぶり、クリーヴ。任務でね、少し遠くに行っていたんだ。……それから、」
アルレッキーノはどう告げようかと少し逡巡した。ごまかすことならばいくらでもできた。彼女は炎から生じた幻影に過ぎず、もうこの現実世界には存在しない。亡霊は亡霊であることを知らず、そのうちこの邂逅の記憶さえ失くしてしまう。だから現実を突きつけず、甘い嘘をつき、夢を見させることをずっと繰り返してもよい。
けれども、それを良しとしなかったのがかつてのクリーヴだった。
「……私が大きくなったのは、もう随分長い時間が経ったからだ。私が王になり、お母様を殺し、家は私が引き継いだ。クリーヴ、君はもう死んでいるんだよ」
だから毎度、その説明を紡ぐ。そのたびに、幻影の顔にじんわりと理解が染み込んでいく。
「……あ。……そっか。私、死んじゃったんだね」
アルレッキーノは頷いた。亡霊の理解は、最初と比べて少しずつ早くなってきているように思えた。もしかしたら彼女は記憶と言わずとも、過去の亡霊であったころの経験を実は引き継いでいるのかもしれないと考えかけて、その都合の良い幻想を追い払う。
「よかったらお茶でもしよう、クリーヴ。君がまだここにいたいのならば」
「……うん! ねえペルヴィ、たくさんお話を聞かせて」
実際に幻影がお茶を飲むことはできない。彼女はもう実体を持っていないからだ。
けれどもお茶を二人分入れてやれば、彼女は嬉しそうに笑った。それはかつて二人で夜にこっそりお茶会をした記憶の名残だったのかもしれないし、味覚が楽しかったときの感情や記憶と結びついているからかもしれない。
ソファに座ったクリーヴは、こちらをじっと見つめた。その無垢な瞳こそ、今のアルレッキーノが最も恐れてやまないものだった。
「ねえ、教えて。どうやってペルヴィが執行官になったの?」
「それは……」
その話は、数年ほど昔に遡る。
〝お母様〟——すなわちファデュイ執行官「召使」クルセビナを殺した後、ペルヴェーレはしばらくの間スネージナヤの監獄に投獄された。
監獄は凍えるように寒かった。日々は単調で、特に何もすることはなかった。さして食事がおいしいわけでもなく、職員たちの興味と恐れの混じる視線は鬱陶しかった。加えてペルヴェーレは拘束されていたから、大して身体を動かせたわけでもなかった。唯一の娯楽は、窓から見える空だけだった。
初めて見る冬国の空は美しかった。檻の中からたくさんの空模様を——白銀に輝く雪を、光り輝く青白い星を、極彩色に移り変わる光の幕を見た。ペルヴェーレはとりわけ、その光の幕に目を奪われた。かつて得た冬国の知識とかつてクリーヴが語っていた描写からして、それこそが〝オーロラ〟であると——クリーヴと共に見ることを約束していた光景であると気づいたとき、その胸いっぱいに興奮が広がり、同時に大きな寂寥に襲われた。この景色を一緒に見ようと約束した人は、もうどこにもいなかった。ペルヴェーレは孤独の中、それでも美しい景色をじっくりと心に刻みつけた。それは久方ぶりに訪れた安らかな平穏だった。
空以外、ペルヴェーレの心を動かすものはなかった。ずっとこのままなのかもしれない。そう思うこともあったが、それはどうでもよいことのように思えた。ペルヴェーレの人生はほぼ終わったようなものだった。それでもよいと思えた。あのときこの手でクリーヴを殺し、そして同じ手でお母様を殺したときから、既に終点は定まり、他に生きる理由はなかったのだった。
ときたま、自分でも正体不明の呪いだけが、ただ嘲笑うかのようにこの身を燃やした。ペルヴェーレは夢を見た。この呪いの炎が、やがて薪のように自身を燃やし尽くす未来の夢を。
この日々が永遠に続くかと思われたある日、ある高貴な氷片が監獄に舞い降りた。
その慈愛深い氷片はペルヴェーレに恩赦を与え、この身に巻かれた鎖を解き、監獄の外へと連れ出した。そうしてペルヴェーレは、お母様と同じコードネームとともに新たな名を賜り、生まれ変わった。お母様の駒の一つにすぎなかったペルヴェーレから、運命に抗う力を得た執行官「召使」アルレッキーノへと。
それは新生であり、別れでもあった。ペルヴェーレは就任式の直前、氷風の囁きとともに、楽しげな笑い声のような、別れを告げるかのような声を聞いた。風が通り過ぎていった方を振り返っても、そこにはもう何も残っていない。もしかすると幻聴だったのかもしれない。けれどもアルレッキーノは今でも、あの忘れられない囁き声を克明に覚えている。
確かにそれは永遠の別れだった。壁炉の家の子供の一人であったペルヴェーレはもういなくなった。あの家ももう焼き払われた。ペルヴェーレだけがかつての同胞の中で一人生き残り、執行官という新たな視座を得た。
アルレッキーノはその後、統括官「道化」から五つの回答とともに、各地に残る壁炉の家とそこにいる子供たちのことも伝えられた。「壁炉の家の新しい長とならないか?」とも。彼はその話がこちらに刺さることは分かっていたに違いない——そう思いながらも、アルレッキーノはそれを了承した。それは女皇の理想と共に彼女を現世に繋ぎ留める理由でもあり、このいつ反逆を起こすともしれない身に掛けられた新たな鎖でもあった。
◯
召使に案内されたばかりの部屋に、ノックの音が響いた。
召使に暫定的に割り当てられたのは、スネージナヤパレスの来客用の一室だった。その部屋は召使の目からすれば非常に煌びやかで、かつて任務で忍び込んだフォンテーヌ貴族の屋敷を彷彿とさせた。窓の外に降り積もる雪と合わせれば、まるで別世界に来たような素晴らしい景観が広がる。クリーヴがここにいたならば、きっと喜んだことだろう。
けれどもここは一時的な仮割り当てにすぎないらしい。聞かされた話によると、執行官はその果たすべき使命と引き換えに、大きな権限と財産、例えばその者が必要とするならば屋敷や領地までをも与えられるという。それは想像より遙かに強大な権限であった。召使は就任手続きが追いついていないことを案内人に詫びられたが、正直それはどうでもよく、どちらかというと境遇が変わりすぎたことについていけないほどだった。
「……どうぞ」
アルレッキーノは声をかけた。何か仕掛けられていないか、室内を検分している最中だった。
ドアを遠慮なく開けたのは、先ほどの就任式で知り合った執行官だった。
「あんたと一緒に任務を遂行せよって言われたから、挨拶に来たの。さっき紹介された通り、私は淑女。これからよろしく、召使?」
部屋に我が物顔で踏み入ってきて、開口一番に彼女はそう言った。
棚の前に立っていた召使は、彼女に敵意はないことを確認した。けれども決して警戒を解かなかった。かつて彼女が関わった執行官二人は、善良の対極にいる存在だった。それらは狂気的な目的のためにどんなことでも行い、ときには残虐で非道な手段をこそ好んだ。それらの戦闘能力がずば抜けて高いことも誰よりもよく知っていた。執行官という存在はかつてのペルヴェーレにとっての敵であり、自らが同じ立場に立ったところで、その印象はすぐさま拭い去れるものではなかった。
その警戒は淑女にも伝わったのだろう、彼女は面倒くさそうに眉間に皺を寄せた。
「任務とは?」
「道化から聞いてないの?」
彼女は呆れたように息を吐き、肩を竦めた。
「各地の壁炉の家を統率し、状況を報告せよ——ですって」
召使は無言で頷いた。まだ饒舌さを知らない頃だった。
「あんたの前任は壁炉の家という特殊な情報収集組織を統率していた。あんたもそこの出身なんでしょ? けれど、あんたが前任の執行官を殺したものだから、今ファデュイの情報部門の秩序は混乱しきっている。ま、順当に行けばあんたがその役目を継ぐんでしょうけど、」
そこで淑女は召使の手を見遣った。黒く焦げた薪のような手を。
「人を殺す力と人を統治する力はまた別物——上の連中は、あんたがこの役目に本当に適しているかどうか、ここで見定めるおつもりなんじゃないかしら」
「壁炉の家を継ぐかどうかを?」
それは継がない選択肢があるのかという拒否反応で発した言葉だったが、彼女はまた別に解釈したようだった。
「執行官には独立した権限が与えられる。もし継ぎたくないって言うんなら、それはそれで認められるでしょうね。女皇様は各執行官の自主性を重んじているの。その代わり、あんたには別の任務が与えられるでしょうけど」
「私は、継ぎたくないとは言っていない」
「あらそう。そう言うだろうって道化は話していたけど、その通りだったわね。つまらない」
〝家〟——それがかつてペルヴェーレがいたあの家ではないにせよ、似たような場所が似たような大人に食い物にされるのかと思うと強い抵抗を感じた。彼女の脳裏に、クリーヴ、そしてかつて命を散らしていった同胞たちがよぎった。それに自分が行くべき場所はもうどこにもなく、その他の任務というものにもさほど興味はなかった。であるならば、自分に唯一残った後悔——かつて共にいた人が思い描いていた〝本当の家〟の実現がしたかった。
「……概要は理解した。だが、あなたと?」
その問いかけは猜疑心たっぷりに聞こえたのだろうし、実際そうだった。目の前の淑女は眉を跳ね上げた。
「あら、そんなに気に入らない? まあ、私も嫌だけど——だってこんなにつまらない任務はないもの。実質あんたの監視役だものね」
淑女は刺々しく言い放った。
「あんたは今、新任の執行官でありながらも危険分子なの。女皇様はあんたと謁見してあんたの罪を許したけれど、まだそのことを受け入れていない連中もいる。あんたが壁炉の家を掌握することを不安がっている上の連中もいるわ。もしあんたが壁炉の家の勢力を全て掌握し、女皇様に刃を向けたら……なんて考える奴もいるのよ」
召使は慎重に頷いた。
「ああ、そうなのだろう……一つ、質問をしてもいいか?」
目の前の女はこちらへの害意はなさそうだったが、この任務を面倒がっているのがありありと分かった。アルレッキーノの態度も悪かったのだろうが、それを気にするだけの余裕と取り繕うための弁舌は当時の彼女にはなかった。
「私の前任とは親しかったか?」
「あの女? 別に」
淑女は嘲るように鼻で笑った。
「与えられた権力をよく分からない目的のために行使し、人的資源を摩耗させた上にその子供に殺された、愚かなやつでしょ? 趣味も思想も合わないから、仲良くなる理由もなかったわ。あの女と仲の良かった執行官っていうなら、博士とか雄鶏とか——」
そこで召使の表情を見たのだろう、淑女は眉を下げて笑った。
「ああ、あいつらがあんたの就任式に呼ばれなかったのも納得ね。あんたにとっては殺してやりたいぐらい憎いものね? フフッ、あんたが警戒されているのもそれが理由よ。
私もあいつらは別に好きじゃないけど、執行官同士の争いはいい顔はされないわ。せいぜい私に関係のないところでやってちょうだい」
「……分かっている」
頷いた召使を見て、淑女も頷いた。そうして、部屋の外に踵を返そうとする。
「あんたに言っておきたかったのはそれだけ。出発はもう少し先になるだろうから、さっさと準備して」
「準備? 私はいつでも行けるが」
その声に淑女は振り返り、はあ? と言わんばかりに目を吊り上げた。
「馬鹿じゃないの、もっと他にあるのよ。前任の死亡とあんたの急な就任手続きで、中枢は今ごった返してるの。あんたの身分の準備とか、部下の再編成とかでね。あんたにもそのうち声がかかるでしょうから、忙しくなるわよ」
召使は内心首を傾けた。正直あまりイメージのつかない話だった。
「……分かった」
その様を見て、彼女は呆れたように天井を仰いだ。
「これだから、急に職階が上がったやつって面倒なのよね……」
「……確かに、この立場に就いたばかりで、まだよく分かっていないことがあるのだろう」
そう口にしながら、召使は考えた。それは多少なりとも自覚している懸念ではあった。
この雪が降りしきる国で、頼れる親しい者はいない。同階級ともなればなおさら。
「何か困り事が生じたら、あなたに連絡してもよいか?」
淑女はハイハイ、と言わんばかりに手を振った。
「はあ、分かったわ。私もしばらくスネージナヤパレスに滞在するの。場所は……誰かに聞けば分かるわよ。でも、しょうもないことで来ないこと」
「ああ、分かった。ありがとう、淑女」
淑女は返答の代わりにフンと鼻を鳴らし、もう振り返らずに去っていった。
◯
淑女の言った通り、しばらくして召使の下には部下が用意された。特に氷国出身だという事務官は、召使が片づけるべきあらゆる雑事に助言して回った。
召使はそこで、自身が随分と恐れられていることに気づいた。決して馴染みのない感覚ではなかった。お母様に目をかけられているペルヴェーレは子供たちの中で最も強く、対戦となればほぼ勝ち目のない相手だったからだ。けれどもあの家での恐れには、どこかしら羨望や嫉妬、憧れが混じっていたのに対し、ここでの恐れには嫌悪が混じっているようだった。
「あの執行官様が殺されたの? 遠くからしか拝見したことはなかったけれど、あのお優しそうな方を殺すなんて……」
「実の親ではないとはいえ、育ての恩人だろう? 血も涙もない恐ろしいやつにちがいない」
噂は真相からはかけ離れたものだった。前任のクルセビナは表面上、各地で孤児を引き取る慈善家として知られていたらしい。そのことを今さら知った召使は内心呆れ果て、嫌悪感を覚えた。そして真相がどうあれ、その〝慈愛深い〟前任を殺した現召使にいい噂は立たなかった。
「とはいえ、あの執行官様は忠実な駒を育てるために各地の孤児を引き取っていたって噂だろ。そこで何か恨みを買って、育てた子供に殺されたって訳だ」
「でもそれじゃあ、今の執行官様は女皇様にも良くない感情を持っているんじゃ……」
まだいくらか真実に近い噂もあったが、所詮それは憶測から生まれたものにすぎなかった。
とはいえそんなさえずりは、彼女が近くを通るとすぐさますぼみ、またけたたましくなる。
「しっ、静かに。もう執行官はあの方だ。不興を買うなよ」
「あれは、納得だな……血も涙もなさそうだ」
「……こ、怖かった……あの瞳って…………」
その後ろから聞こえる声を、召使は無視することにした。別に大したことではない。ただ噂好きの連中が、違う場所から来た者を見て好き勝手囁いているだけだ。
噂を訂正しようと思わなかったのは、〝前任を殺した〟ということは紛れもない事実だったのと——人が寄り付かず、向こうから怯えてくれるその噂は、かえって自分に好都合に思えたからだ。〝ペルヴェーレ〟は元より、積極的に人と関わるような性格ではなかった。加えて今は、人と関わり合いになりたい気分でもなかった。
◯
スネージナヤパレスに滞在している間、新任の召使の元には様々な客人や事務官が訪れた。
ある日訪れた、眼鏡をかけた黒髪の男は、自らを同じ執行官「富者」で銀行家だと名乗り、胡散臭い微笑みを浮かべながら膨大な資料に記入するよう召使に求めた。北国銀行絡みの各種手続きが必要だという。召使が資料を書き込む横で、その富者は朗々とたくさんの計画の話と、その計画への勧誘をしてきた。
そしてもう一人——その男のことは、遠くからでも判別できた。
死臭と狂気に満ちた、研究のためならば何でも躊躇なく遂行する執行官「博士」。
「やあ。君が新任の執行官『召使』だな? 私は『博士』、ファトゥス第二位だ。私のことは知っているかな? 君と取引がしたいと思っていてね。どうかね?」
その口元の歪みを見るだけで分かった、この男こそあの女と同種の人間であり、間違いなくろくでもない取引だと。
「私たちははじめましてではない。そして、私があなたと取引することなどない」
「つれないな。言葉を交わすのははじめてだろう?」
その男を睨みつけて足早に通り過ぎようとしたところを、掴んで引き留めたのは彼の方だった。
「……まだ何か?」
「まあ、そう焦らずとも良いではないか。壁炉の家は君が引き継ぐんだろう? 前任者の業務には私も協力していてね、どうだ、子供を……おっと」
召使はその凶月の瞳で、鋭く男を睨みつけた。それは牽制でしかなかった。今この立場で争うつもりはない。そもそも手を出してきたのは向こう側だ。
「私に」
その男は、仮面の下で笑う。
「勝てると?」
男はそこで声音を変えた。召使はそのまま睨みつけた。戦闘能力ならば、この研究者は召使に及ばないように思えた——けれども、その差は歴然だった。この男は何かを隠している。
「執行官同士で争うつもりはない。ただ、もう二度と私にその話を持ちかけるな。私は、あなたの言うところの実験品だったのだから」
「ああ、実験対象が言うことを聞かないのは世の常だな」
その男は笑った。
「お前のことはよく知っている。その炎は随分と興味深かったが、前任もお前のことは実験させてくれなかった。あの女の王候補だからと」
燃やし尽くした過去を、一番嫌悪する男が知っている。その事実は認めがたいものだった。この男の階位が上でなければ、この男の実力が上でなければ、今この場で殺していたかもしれなかった。
「だが……フフ、予言しておこう。——君が私の手を取る日が必ずやってくるだろう」
そんなことは絶対に起こりえない。そう言い返すことはしなかったが、召使はその場を立ち去った。
◯
召使にとって最もどうでもよかった割に、最も時間をかけさせられたのは服の仕立てだった。ペルヴェーレだったころ、彼女は服にさしたる好みはなく、せいぜいクリーヴが着ていたようなひらひらした服は嫌だというぐらいだった。それにお母様はまだ小さな子供の頃こそ自由に服を選ばせてくれたが、長じるにつれて戦闘に適したシンプルな服だけが与えられ、疲弊した子供たちはそれに不満を持つ余裕さえなかった(不満を言うとしたら、それはあの境遇全般についてだった。度重なる決闘で疲弊しきったクリーヴはよくこう口にしたものだ——「ねえペルヴィ、あの鳥になって、自由に空を飛んで、あの夢にまで見た外の世界に行ければいいのに」と)。
今は執行官となった彼女にとってもそれは変わらず、動きやすければ服飾はどうでもよいものだったが、身分が高くなるとそう単純な話にはならないらしい。
そのスネージナヤパレス御用達だという仕立屋は微笑み、腰を折った。
「お初にお目にかかります、新任の『召使』様」
落ち着いた声だった。実用的ながらも細かい装飾の入った衣装はその者の腕を示しており、確かに仕立て屋の手際は良かった。テキパキと物事を進め、伺うべきところは物怖じしない。その平坦な対応は今の召使にとっても楽だった。
聞くに、ファトゥスの服はほとんどその仕立て屋の系譜が仕立てているという。
「執行官の方々は皆個性的ですが、その個性を服装で表すのが我々の仕事なのです」
平坦な声に熱が入った。終わらない作業にアルレッキーノが内心辟易としてきたころに、仕立て屋は一つ質問を投げかけた。
「そうだ、髪を切られる予定はありますか? 髪型によって雰囲気がまた変わりますので、考慮に入れておきたいんです。必要ならば、専門の職人を手配いたしますよ」
確かにこの髪は、投獄を経て随分と伸びていた。アルレッキーノは髪を触った。ずっと放置され、適当に後ろにまとめられた髪を。かつて自分と、クリーヴにも切ってもらっていた髪を。
けれどもその経緯はそのまま告げるには、いささか込み入った話だった。
「昔は、……自分で切っていた。ちょうど肩ぐらいに」
仕立て屋は頷いた。
「あなた様の身分なら、それもよいでしょう。触られるのを嫌がる方もいらっしゃいますから。
では、服のデザインは髪を短くする前提で考えさせていただいても?」
そうしてくれと返そうとして、クリーヴのことを思い出した。機動力に関わるのだから髪を切ればいいのにと言われても、ずっと切ろうとしなかった彼女のことを。
ペルヴェーレの髪はずっと短かったが、クリーヴの髪はずっと長いままだった。思うにそれは、彼女なりのあの〝家〟への反抗だった。
今のアルレッキーノの髪は昔よりは随分と伸びたけれど、まだクリーヴほどではない。
「いや……しばらくこのままにしようと思う」
アルレッキーノはそう言った自分に少し驚いた。自分がそのような判断をしたことが不思議だった。
この自分の髪を長く取っておいたからといって何になるわけでもない。ただ、あの少女が存在したという事実を、あの少女の髪は長かったという事実を、どこかに確かな記憶として持っておきたかっただけなのかもしれなかった。あるいはオーロラを初めて見た記憶の名残を、離したくなかっただけなのかもしれなかった。
「……あ! 本当だ。ペルヴィ、髪を伸ばしたの?」
「ああ」
「すごく似合ってる! かっこいいね」
そこでクリーヴは首を傾げた。
「でもなんで? ペルヴィ、髪を伸ばすのを嫌がっていたじゃない」
「……気が変わったんだよ、クリーヴ」
髪を伸ばした理由はまさしく彼女だったわけだが、そのことは話さなかった。話すのを躊躇った自身の心の動きを、アルレッキーノは観察した。おそらくそれは、言いたくないこと——不明確な理由で合理性を欠き、それを今なお捨て去れていない自分への呆れだった。
あれから結局髪を切る機会をなくしたまま、今に至る。アルレッキーノの髪は、かつてのクリーヴと同じぐらいの長さにまで伸びていた。一部の毛先はいつしか勝手に赤く染まっていた——それを召使は、鮮血に染まったようだと思った。かつてのクリーヴの暖かな赤とは似ても似つかないとも。
召使と亡霊は、過去の思い出話から今現在の状況までを随分と長く話し込み、ついに外が薄明るくなってきた。
そろそろ日が昇る。夜がいかに長かろうと全ての歳月を語りきれるほどの時間はなく、いつか月は沈み、夜は明け、日が昇ってしまう。
そして亡霊は、夜が朝になるほどの時間が経つとその場から消えてしまう。
「でも、よかった。家は、あなたのおかげで変わったのね……」
クリーヴは眠たそうに眼を落として、そうつぶやいた。その瞬間、日の光が黎明を告げた。開かれた窓から強烈な光が差し込み、光が当たったところからクリーヴの残影は消えてしまう。
残されたのは、ただ不自然に残された二人分のティーカップだけ。
月の光とは比べものにならないほど明るく陽光に照らされた部屋を見て、召使は息を吐いた。またクリーヴに付き合って夜更かしをしたというのもあるし、それに。
「……家は、変わったのかな」
また君に聞きそびれたよ、クリーヴ。
召使は嘆息とともに、目を閉じた。
短い仮眠を取るために。
[newpage]
これはまだ、〝家〟が楽園であった頃の記憶。
その楽園が崩れ、血と絶望で塗り固められ、そして焼き払われるまでの記憶。
彼女を初めて見たのは、お母様に連れてこられたときだった。
当時、お母様が子供たちを連れてくるのはよくあることだったが、そのときは少しばかり紹介の内容が違った。
「みんな、私の子のクリーヴだ。今日から君達と共に過ごすことになった。仲良くしてやってくれ」
「よ、よろしくお願いします!」
お母様の実の子供。その肩書きはクリーヴを少々特別な存在にした。確かにクリーヴはお母様によく似ていており、当時お母様のことが大好きだった子供たちは彼女の周りに集まった。……確かにお母様は自分の子供だからといって贔屓をせずに平等に扱っていたのだろうが、子供たちにとってはそうはいかなかった。
「お母様の子供って、ほんと!?」
「お母様って、本当の家ではどんな感じだったの?」
「えへへ……」
そんな注目を浴びた彼女に、ペルヴェーレから接近することはなかった。ペルヴェーレはペルヴェーレで、外向的な性格とは言いがたった。彼女の体内に宿る特殊な炎は注目を浴びたが、だからといって誰かと親しくなったわけではなかった。
とはいえ遠巻きにされているというほどではなかった。壁炉の家にいる子供は全員が家族のようなものだったから、必然的に子供たち全員の距離は近く、ペルヴェーレも関わるべきときがあれば他の子供と関わった。
そんなクリーヴとペルヴェーレの初めての接触は、後から聞いた話によると、お母様の計らいによるものだったらしい。
「ケーキを持ってきたよ。あの……いるかな!?」
「……ああ」
クリーヴとペルヴェーレは、不思議と相性が良かった。距離が縮まり、常に一緒にいる関係になるのにそう時間はかからなかった。
それはもしかしたら、お母様の目論見通りだったのかもしれない。ただ、お母様にとって誤算だったのは、クリーヴがお母様の忠実な信者にはならず——お母様に逆らう旗手となり、ペルヴェーレもそれに続いたことだろう。
けれどもそれは、もう少し後の話だ。
まだそのころは、多くの子供達にとってこの家は楽園であった。
子供達はここで果実を取り、魚を捕り、ケーキを食べ、お母様から絵本の読み聞かせを聞いた。
違和感に気づく子供は極少数だったし、それを直視する子供はさらに少なかった。
「お母様、そんなのはおかしくありませんか?」
その数少ない子供の一人はクリーヴだった。
それは彼女がお母様に表立って異議を唱えたときに誰の目にも明らかになったが、恐らく初めのうちは、お母様への異議申し立ては秘密裏に、クリーヴがお母様の元を訪ねる形で行われていた。それはクリーヴもお母様を敵と見なす前のこと、まだ話し合いで家を変えることができると信じていた頃のことだった。だから傍目には家に変化の波は立たず、ただある種の予兆だけが不気味にきらめいていた。
ある夜、怪我をしたクリーヴを目にしたことがある。
「どうしたの?」
そう聞くと、彼女は笑って答えた。
「お母様と喧嘩をしちゃった」
まだそのころのペルヴェーレは〝良い子〟で、折檻というものに無縁だったから、何も気づかないでいれたのだろう。そのころはただ、本当の親子という血のつながりがあるお母様とクリーヴを内心羨ましく思っていたし、そんなつながりのある親子でも喧嘩をするのだなと、不思議に思っただけだ。
いや、そのときから既に気づいていたのかもしれない。そのときから——あるいはお母様の裏の顔を感じたときから——ペルヴェーレは薄々予感していた。ここはお母様が言うような楽園ではなく、実際はもっと厳しい場所なのだと。お母様はたくさんの行き場のない孤児たちを引き取って、実子と分け隔てなく育てる善人ではなく、実際はもっと別の顔を持ち、その顔は想像もできないほどおぞましいものなのだと。
お母様は折に触れてこんなことを子供たちに言った。
「お前たちは一人ぼっち、誰にも望まれず生まれてきたんだ」
「お前たちが行くべき場所は、ここ以外にないんだよ」
「ああ、なんて私は優しいんだろう? お前たちは私に感謝して、私のために報いるべきだ」
その言葉は呪いのように皆の意識に刻まれた。ただ一人、クリーヴを除いて。
「……違う、そんなことはない。外の世界でだって、私達は居場所を探せる。
私は外の世界を見てみたい。
家は——檻であるべきじゃない」
彼女は生まれながらにして自由に憧れる鳥だった。
彼女は明らかに何らかの理想を抱いていた——けれどもそれが実際どんなものだったのか、今となっては推し量ることはとても難しい。
さわやかな海風が頬を撫でた。
召使は目を細めて、目の前に広がる景観を眺めた。
かつての〝家〟があった国、フォンテーヌ。隆起していく湖上にほとんどの国土が広がる、独特な地形を持つ国。水の国と呼ばれるだけあって、その国土の半分以上は海が占め、残りの陸地には山脈が背骨のように隆起している。
今になってスネージナヤと比較してみれば、ここは温暖でよほど過ごしやすい土地だというのに、あの家で過ごした日々は閉塞感に満ち、鳥籠の中に閉じ込められているようだった。
召使と淑女は部下を引き連れ、フォンテーヌに駐在するファデュイの部隊と合流した。そこには前任「召使」の部隊も含まれていた。前任「召使」の部下は緊張した面持ちで新任の「召使」を迎え、膝を折った。これがあの女の見ていた景色か、と冷めた心で召使は思った。
「家に案内してくれ」
「は。こちらです」
お母様が、あの実験用の家とは別にフォンテーヌに孤児院を建てたことは、かつてのペルヴェーレも知っていた。お母様がその存在に言及していたからだ。
クリーヴを殺し、同窓の子供たちの頂点に立ち、お母様の駒となるころには召使はまた別の危険な任務を割り当てられ、各地を転々としていた。だから新しい家と関わったことはなかったのだが、その新しい孤児院でまたしても孤児を受け入れていること、またしてもあのお母様は表向きは善人を演じ、子供たちを使い潰しているらしいことも知っていた。
かつてペルヴェーレが暮らしていた家の子供たちは、ほとんど生き残れなかった。辛うじて生き残った子供たちも、そのほとんどが博士の実験か危険な任務に使われ、悲惨な末路を遂げたことを知っていた。だからお母様は、また使える子供を集めるために、新しく孤児院を建てたのだろう。あの女のやりそうなことだ。
その新しい孤児院は、かつてアルレッキーノがいた家からはまた離れた場所にあり、やはり人目につかないような郊外に位置していた。外観は確かに立派でお母様好みだったが、中に入ってみれば、どことなく閉塞感と威圧感が漂っていた。召使はそこに懐かしい臭いを感じた。
新任の召使との顔合わせのために、孤児院に今在籍している子供たちは大きな部屋に集められていた。彼らは全員、緊張と怯えを隠せていなかった。
召使はその光景に懐かしさを感じると共に、子供とはこんなに小さなものだっただろうかとも思った。一番小さな子供の背丈は、もう召使の身長の半分もなかった。
「前任の『お母様』に代わって、私が君たちを育てることになった。
新任『召使』のアルレッキーノだ。よろしく。
……ああ、私のことは、これからお父様と呼ぶように」
その低く温度のない声に子供達は一層震え上がったようだが、召使は気に留めなかった。優しく接して後から手のひらを返す方が、よほど残酷だ。
「さて、では……順に自己紹介してくれないか? 君たちのことをより知っておきたい」
子供たちの目は丸く見開かれ、勇気ある年長者から順々に自己紹介が始まった。子供たちの挨拶と自己紹介を聞きながら、召使は彼らの様子を観察した。観察はかつてのペルヴェーレの得意なことだった。子供たちはさまざまな態度を見せた。怯えより好奇心が勝ち、こちらに質問までする者、こちらに気に入られようと自分を大きく見せる者、ひとまず傍観の立ち位置につき、あまり目立たないようにしている者、恐怖に支配されている者。
まるでかつての家に帰ってきたようだ——召使は一瞬だけ目を閉じ、もうここにはいない同胞たちに思いを馳せた。そしてその強烈な郷愁を押し込み、再び目を開いた。
あの歳月は遠くに過ぎ去った。子供たちは入れ替わり、召使自身の立ち位置も変化した——かつて家の隅で皆を観察するだけだった子供は、今や家の中心に立って場を支配している。
◯
一通り子供たちの紹介を聞いた後、召使はまだ物事を把握していそうな年長者に、ひとまずこれまで通りの家の維持を指示した。
「さて、では、当面の家の維持については君に任せれば大丈夫だろうか?」
「はい! お任せください」
「必要な物資や手配については、また後で話そう。ひとまず……誰か、私に前任の執務室を案内してくれないか」
「は、はい! 私が!」
元気が良く、あまり物怖じせず話をしていた子供が声を上げた。
案内されたのは建物の奥にある一室だった。扉を開けた瞬間、召使は妙な既視感と苛立ちを覚えた。そこはお母様のやり方で整えられた部屋だった。
あのとき焼き払ったはずの家は、形を変えてここにも存在していたらしい。
「ここか」
「はい! ここが院長の執務室でした。あ……」
子供は言葉を詰まらせ、その先の光景を見た召使はその子供の前に出た。そこにはずっと姿が見えなかった壁炉の家の客人がいた。
「あなたはここにいたのか」
この家に入ってから見かけないと思っていた淑女とその部下達は、ここに残っている資料を上から下まで確認しているようだった。
「あら、ようやく来たの。ねえ、この家、守備が手薄すぎるんじゃない? 気をつけた方がいいわよ」
「そのようだ。……ほら、君はもう下がってよい」
もう下がるように視線で合図すると、案内人の子供は慌てて逃げるように駆けていった。淑女が呆れたように溜息をつく。
「礼儀作法も教え直したら?」
「そうしよう。それで、あなたは何故ここに?」
「見て分かるでしょう? 残っている情報がないか、探しているの」
淑女は手に取っていた資料をこちらに振ってみせた。
「それもあなたの任務の一部か?」
「いいえ? ただの私用よ」
彼女は手を払って手元の資料をめくった。
「元々あの女の情報には興味があったの。でも残念、あんまり大したものは残っていないみたい。報告にあったけど、あんたが全部焼き払ったのかしら?」
「ああ」
召使は短く頷いた。
「ここは新しく建てられた孤児院だ。古い家にあった情報はあなたの言う通り、私が前任と家とともに焼き払った」
もうペルヴェーレが過ごしたあの家のことを、あそこで行われた凄惨な戦いや実験のことを知る者はほとんどいない。ペルヴェーレは戦いの中、前任と共に家と残った資料を全て焼き払った。あの前任もまた、あの家での出来事は極秘実験として外部にほとんど漏らさなかったようだった。
「あら、そう。じゃあこんなところにもう用はないわね」
「淑女、子供たちが、君たちお客人のために食事を用意してくれるそうだ。あなたにも必要かな?」
「いらないわ。子供は好きじゃないの」
淑女は首を振った。彼女の物言いは全てが棘のようだった。
「私はしばらくフォンテーヌ邸に滞在するわ。この国に別の用事もあることだし。でも一部の部下はここに置いていくから、あんたが変な気を起こそうもんなら私に報告が来るってことは忘れないで」
「監視じゃなかったのか?」
「ずっとつきっきりでやるわけないじゃない。今のところ、あんたにそんな腹積もりも見受けられないし」
そう言って資料を机に置くと、彼女はこちらを見据え、口元を曲げた。
「ファデュイにとって、壁炉の家が集める各地の情報はとても重要だった。あんたの今後の働きに期待しているわね、新任?
今までこの家が果たしてきた役割は、この先あんたが担うことになる。破れた網目を繕い、張り替え、情報というモラにも匹敵する財産を陛下のために集めるの。これからは——」
そうして淑女は指差した。
「あんたが、その椅子に座ることになる」
かつて前任が座っていた椅子を。
院長が決して善良な人間ではないことは、少しでもこの孤児院に長くいる子供ならば全員知っていた。
彼女はあらゆる場所から孤児を受け入れ、表面上は善良な院長の顔を被っていたが、この孤児院はどこか普通ではなかった。命の危険を伴う任務が子供たちに命令され、怪しい大人たちが孤児院の周囲に滞在している。もし任務に失敗すれば、あるいは少しでも規則を破ることになれば恐ろしい罰を受けることになり、場合によってはその子供はもう帰ってこない。
「あんたたちは、この家のためなら命を捧げるべきだ。もうここ以外にあんたたちの行くべき場所はないんだからね」
院長にそう言われ、たくさんの子供たちが使い捨ての駒にされた。
フレミネができたのは、任務の空き時間に、海に潜って己の殻の中に閉じこもり、逃避することだけだった。
そんな閉塞感の漂う日々は、ある日突然終わりを告げた。
フレミネが任務から帰ってきたとき、孤児院の中は騒然と混乱しており、本来ならば中心に立ってその混乱を収めるはずの院長は見当たらなかった。
(どうしたんだろう?)
そう問いかけられる仲良しの子供がいるわけでもなく、そこに立ちすくむ。ただ途切れ途切れに聞こえたパニックの声を、フレミネの耳が拾った。
「院長が……」
「いなくなっちゃった、って」
「院長が?」
フレミネは思わずそう聞き返した。
「殺されたらしいぞ!」
興奮気味に別の男の子が大声で言い返し、それを巡って子供たちはまた騒ぎ立て始めた。
(……院長が、殺された?)
フレミネにとって、それは信じがたい話だった。彼を覆っていた秩序が全て崩れるかのような出来事なのだから。それは他の子供たちにとっても同じことであり、そうにちがいない、いやそんなはずはない、と真偽を巡って言い争いが始まった。
けれども確かにその日、いつまで経っても院長は帰ってこなかった。孤児院でよく見かけた大きな大人たちも姿を見せることはなかった。何かがあったのは確かだった。
代わりに翌日、同じ制服を着た新しい大人たちが姿を見せた。その人たちの盛んな噂によると、確かにあの院長は誰かに殺されたらしい。
それは院長に恨みを持った子供の一人であるという噂が立ったけれど、フレミネにはもちろん、他の子供たちにも該当人物への心当たりがないようだった。あのお母様を殺せる子供なんて、いたら知っているはずだ。もしかすると、それはかつてこの孤児院に在籍していた子供なのかもしれない。そんな噂も立った。
大人たちはその殺人犯を捕まえ、スネージナヤまで送ったのだという。
この家の裏の顔をまだよく知らなかった小さな子供たちは、お母様がいなくなったことを嘆き、寂しがり、悲しんだ。
この家の裏の顔をよく知っている子供たちは内心安堵し、しかし直後に訪れた混乱によりそれどころではなくなった。例え善人ではなかろうと、統治者のいない組織は一気に機能不全に陥ったのだ。
年長の子供たちとお母様の元部下、協力関係にあった周辺のファデュイが間を取り持ち、家は最低限の機能を維持したが、それでも混乱と不安は拭い去れないままだった。
「僕たち、これからどうなるんだろう」
子供達は不安から身を寄せ合い、ひそひそと話し合っていた。
あるとき、この家を脱走する子供も出た——その子供が結局どうなったのか、フレミネは知らない。唯一分かるのは、自分にはここ以外どこにも行くところがないということだけだ。
◯
ある日、家に新しい管理者——新任の「召使」様が就いた。
新しく執行官「召使」の座に着いた管理者が来ると伝達されたとき、子供たちは至極緊張していた。特に初見では、その執行官——「お父様」は院長より厳しく冷たそうに見えたものだから、子供たちは震え上がった。彼女の底知れない暗闇を宿した瞳に見つめられて、恐怖にすくまない者はいなかった。
けれどもお父様が取った家の方針はより優しく、自由のあるものだった。
任務があることには変わりなかったが、お父様は子供たちの適性を見て任務を割り当てたため、前ほど無謀で危険な任務は行われなくなった。さらにお父様は子供たちの自主性を重んじ、任務の達成方法を各人に任せた。同時に子供たちにはある程度の自由が与えられ、大多数はそれらを歓迎した。
お父様は前院長のように、食後にくつろいでいるだけで不機嫌になり、厳しく叱責するようなことはなかった。前任を知る子供たちからすれば、彼女はときに恐ろしいほど優しい側面を見せ、家の生活水準は上がり、子供たちは家の中で息をつけるようになった。知り合いの子供が、いつのまにか泡沫のようにいなくなってしまうことも随分と減った。
とはいえもし叱責されるような失態を犯してしまった場合、お父様の瞳は前院長よりよほど怖くもあり、子供たちはそれを恐れて震え上がった。
「自分なりの判断ができるようになれ」お父様は常々そう言った。「君たちの命より大切なものはない。我々は君たちを育てるために多額の投資をしているのだから」とも。それは前任とは随分違う方針で、フレミネは未だにその実践に苦戦している。
壁炉の家の新たな秩序が構築されるとともに、お父様と子供たちは、端から見れば奇妙な共存関係を築いていった。
お父様とは、親しく会話をしたり冗談を言ったりするほど親しくはなかったが、とはいえ会話をするのも恐れ多いという関係でもなかった。前院長を見てきた子供たちは新任のお父様の方針に恩を感じていたから、多少なりとも親しくなりたいと考えていた。とはいえ、その態度の濃淡は人によりけりだった——恩を感じる者、もっとお父様のことを知りたいと好奇心を募らせる者、お父様を崇拝し命を賭す忠誠を誓っている者、あるいは新しい方針を内心受け入れられない者に、そもそもこの家の在り様に馴染めず忌避する者。
やがてお父様は、新しい子供たちを次々とこの家に迎えた。お父様はその子供たちを、フォンテーヌ各地で拾ってきたのだと話した(そう話すお父様の服が血に濡れていることもしばしばだった)。古くからいる子供たちと新しく入ってきた子供たちはしばしばぶつかり、新入りがこの家に馴染めないこともしばしば起こった——家の方針がかつてより自由になったとはいえ、壁炉の家がファデュイの情報機関であることには変わりないからだ。「普通の子供たち」には、それはしばしば受け入れがたい事実だった。
家の子供たちが増えるに伴ってしばらくして、お父様は家を隔絶された郊外からフォンテーヌ邸内に移した(お父様はその背景を、より任務を行いやすくするためだと説明した)。大多数の子供たちはそれを歓迎した。
フレミネにとっては家がどこに移ろうとも、自分の帰る場所がこの壁炉の家であることには変わりなかった。けれども家への感情には変化があった。親しい者はかつていなかったが、やがて新しい友人——リネとリネットができた。そしてある日、お父様に母親の遺品を渡され、自身がここに来ることになった真相を教えられた。
フレミネにとって前院長はただ恐ろしい絶対的支配者であったが、お父様は紛れもなくこの家の父親だった。
新任が治め始めたばかりの壁炉の家に処理すべき雑務は多く、降りかかる厄介事も多かった。
召使がまず着手したのは、家の地固めと関係の精算だった。前任の関係者を洗い出し、それが白か黒か、水の上に残すか水の下行きかを分別する。とはいえ情報は部分的にしか残されていなかったから、再度情報を集め、精査し直す必要もあった。召使自身があの最も闇深い家の情報は全て焼き払ってしまっていたし、新しい孤児院に残された情報も、その断片から推測するには限界があったからだ。
前任の部下も、そのほとんどを入れ替えた。召使の前任への不信は根深かった。前任の息がかかった者に信用が置けるはずもなかった。
やがてかつての壁炉の家の関係者は、そのほとんどが処分された。あの女の協力者。孤児を集め、見返りと引き換えにあの女に提供していた者。高利貸しの屑。子供たちがここの孤児院に来るきっかけになった、この国に巣くう悪党の数々。
それは召使にとって、新生した壁炉の家の動きを取りやすくするための地盤固めでもあり、かつてのペルヴェーレの復讐のようなものでもあった。腐りきった根は、切り落としてしまった方が早い。その手段に殺人を使ったのは、それが最も慣れ親しんだやり方であったからだ。
そして、そのやり方への警告は、予想外のところから訪れた。
◯
「あんた、それ以外にやり方を知らないの?」
コツコツと足音が響き、呆れたような声が屋敷内に反響した。召使はそちらを見て、眉をひそめた。彼女——淑女の姿を見るのは久しぶりだった。
惨劇がとある貴族の屋敷の中で繰り広げられていた。かつてこの屋敷を所有し、莫大な富と高い地位を有した老人は血溜まりの中に横たわり、凄惨な最期を遂げていた——武力の前に彼の権力は何の意味も持たなかった。その血を分厚いカーペットが吸い、豪奢な調度品の一部は襲撃で粉々に砕け散り、その破片が月光に照らされてきらきらと輝いていた。
「何か問題が?」
「ありすぎるわよ。派手に殺しちゃって、まあ……」
「もちろん、このあと綺麗に片付ける」
「そういうことを言いたかったんじゃない」
淑女は首を振った。
孤児たちをあの女に斡旋し、私腹を肥やしてきた老人が、そこに壮絶な姿で横たわっている。
「フォンテーヌ貴族のタレーラン・テルール。金儲けと権力拡大にしか興味のない、典型的なフォンテーヌ貴族の一人。……でもこの屑は、とある大物とつながっていたの。そこの太った魚を生かしたままにしておけば、より大きな獲物が釣れたかもしれないのに」
「…………」
召使は足下にあるものを蹴り飛ばし、淑女の方を見やった。
「それは、あなたが必要としていた情報か?」
「そうよ。でも、あんたが情報源を殺してしまったのよね」
「そうか。それはすまなかった」
淑女は大きな溜息をついて、散乱した調度品に構わず、きらびやかな椅子の一つに腰掛けた。この惨劇の中にあってその佇まいの彼女は、まるでこの屋敷の本当の主人のように見えた。
「まったく、何のために私がここまで来たと思っているの? やれやれ……あんたの前任は、あんたに一体何を見込んで、何を教えていたわけ?」
その言葉に召使は眉を跳ね上げた。その情報は開示されていないはずだった。
「……前任と私の話をしたことが?」
「別に親しくなくても、ちょっとした話を聞いたことぐらいならあるわよ。あんたに話すと面倒そうだから黙っていただけ」
淑女はハッと笑った。
「あんたのことは度々前任が話題にしていた。確か、随分とあの女の機嫌が良いときだったわ。あの実験は終わった、生き残りを王にさせるって。あんたがその王とやらだったんでしょう? ……でも残念、その王っていうのは、あの女自身の立場を指していたわけじゃないみたい」
淑女はこちらを鋭い眼光で射貫いた。
「役割が変わったことを自覚しなさい。深淵に戦いに赴くならともかく、情報戦で殺人は最後の手段の一つでしかない。壁炉の家のトップは情報官……でも、あんたは今、その椅子に適格じゃない。情報を収集するべき手が、情報を吐き出す口を閉ざさせてどうするの? 秘密裏に暗躍するべき組織が、注目を引きつけてどうするの?」
計画が狂わされたことも背景にあるのだろう、淑女は明らかに苛立っていたが、その言葉は正鵠を射ていた。召使は少し目を身開き、ただ黙って続きを聞いた。
淑女は口端を上げる。その目は笑っていない。
「私は随分長く生きてきた。あんたのような人間はたくさん見てきたわ。——大願を果たした者は、大抵そのまま燃え尽きて、灰燼も残せず消えてしまう。
フフ、主を失ったアリは新たな主に導かれない限り、その群れごと瓦解するの——あんたはまだ、目の前のことしか考えられない駒のままでいるつもり?」
◯
壁炉の家はファデュイの情報機関であるらしい。各地の情報を収集し、情報官がそれを統括し、スネージナヤ本国の計画に影響を与えているらしい——らしいというのは、今代の召使にほとんどその認識がなかったからだ。その事実は、アルレッキーノにとって随分と希薄なものだった。
あの家ではお母様が支配者だった。誰が実験台となり、誰が危険な任務に赴かされ、誰が死ぬのか、全ては彼女の考えと気まぐれ一つで決まった。その命令がもたらす結果は明らかだったが、お母様はうまく残酷な真実を覆い隠し、子供たちをいいように操った。逆らえなかったとも言っていいだろう。
ペルヴェーレに割り当てられる任務は大抵生死の危険を伴うもので、けれども彼女はそれをこなしてみせた。任務を成功させるたび、お母様の中でペルヴェーレの評価は上がっていった。
けれども裏を返せば、ペルヴェーレはこの家の全貌を知らない。ペルヴェーレはお母様の忠実な駒として、ただ任務を遂行していただけだ。
(王……)
結局お母様の言う王とは何なのか、ペルヴェーレにはその真意は未だに分からなかった。
『他の兄弟たちに勝って、〝国王〟になるんだ』
王とは何だったのだろうか? 壁炉の家の後任を指していたのだろうか? けれどもお母様がその立場を譲る素振りは見受けられなかった。であるならば、ただの使い勝手のよい手駒を意味していたのだろうか? 目の前に立ち塞がる全てを滅ぼす運命を持つ者のことを? お母様はそれを自らの手で御せると本当に思っていたのだろうか?
最終的に自分が王となれていたのかさえも、アルレッキーノには分からなかった。とはいえ、例えお母様の言う王になれていたのだとして、その冠を戴きたくはなかった。ああはなるものかという暗い炎が彼女の中にずっとあることは確かだった。
お母様の築いた秩序はあの日終わりを迎えた。この家の規則を塗り替えるために、アルレッキーノは前任を殺した。だから、後任の自分がこの手で新たな秩序を作るべきだ。
(殺すだけが選択肢ではない)
その言葉についてアルレッキーノは考え込んだ。それはアルレッキーノにとってあまりなかった観点でもあった。
かつてペルヴェーレ達に立ち塞がっていた最も大きな障壁は、お母様——前任「召使」クルセビナだった。あのとき、家から抜け出す唯一かつ最も困難な方法は、お母様を殺すことだった。あのころのクリーヴの数々の失敗が物語る通り、殺人以外に革命を成し遂げる道は結局存在せず、ペルヴェーレはその殺人の実現に約十年の時間を費やした。
けれどもそれは、新生する壁炉の家の在り様にまで適用されるわけではない。
命のやりとりを代償に支払わずとも、目的を成し遂げ、成果を得る手段はある。例えば——アルレッキーノはクリーヴのことを思い出した。
理想を掲げ、その必死な訴えによって兄弟姉妹たちを説得し、バラバラな集団の統率につなげることは、クリーヴが得意とするところでもあった。彼女は見事に家の子供達を団結させ、家の支配に抗おうとした。その全ての反抗はお母様に打ち砕かれてしまい、最終的には成功しなかったが。
クリーヴは武力という手段は取らなかった。けれども子供達を扇動し、お母様の意表を突くことには成功した。ペルヴェーレは当時、結局本懐を成し遂げられなかったその反抗を失敗と見なした。けれどももし、その手段が今の立場では最も有効であるのならば。
クリーヴは言っていた、家はもっと自由であるべきだと。誰も犠牲になることのない、本当の家を作りたいと。
(本当の家……)
執行官となり、壁炉の家の立ち位置を知った今となっては、それは途方もない夢物語のように思えた。その立場から抜け出すのに、多大なる代償が必要であろうことも。だが恐ろしくはなかった。クルセビナを殺すということもまた途方もない夢物語だったが、実現されたのだから。
◯
あのころ、裏からの説得が通じなかったクリーヴは次第にお母様に表立って批判を始めた。けれどもお母様の語る甘美な幻想に浸っていた子供たちは、クリーヴの言うことを当初聞こうとはしなかった。
『どうしてそんなにお母様のことを悪く言うの?』
『お母様は素晴らしい方なんだよ! 僕たちを拾ってくれて、育ててくれたんだ。だから、その恩に報いなきゃいけないでしょ』
『僕が王になって、お母様に褒めてもらうんだ』
まだそれほど子供たちに危機が迫っていなかったから、という理由もあるだろう。厳しい戦闘訓練は始まり、一部の子供たちは実験にも使われていたけれど、それは今から振り返ればほんの始まりに過ぎなかった。
それはやはり夜だった。お母様のことが大好きな子供たちに散々言い返されて、クリーヴは疲れているようだった。彼女は窓辺でぼんやりと月を見ていた。
「……クリーヴ、どうしたの」
「ペルヴィ。ペルヴィは……」
その青い瞳が揺れた。クリーヴは少し逡巡したようだった。
「あなたは、私のことを信じてくれる? ……あなたは、私の味方になってくれる?」
「ああ、クリーヴ」
ペルヴェーレは頷いた。お母様が裏に何か良くないことを隠しているのは、ペルヴェーレの目からは明らかだった。あの絵本の結末は壮麗だったが、その裏に隠されたメッセージは明らかだった——最後に生き残った者以外、全員が死ぬ。
後になってアルレッキーノは考えた。生き残るのは自分だろうと、ペルヴェーレは当初から予見していた。だから初めはこの家の結末がどこに向かおうともよいと思っていたはずだ、なのにどうしてクリーヴに同調し、共同戦線を張ったのだろうと。どうしてあのときクリーヴに頷いたのだろうと。
「ペルヴィ、ありがとう! あなたはやっぱり、私の親友だね。私を一番分かってくれる人」
それはおそらく、この親友がいなくなる未来を見たくなかったからかもしれない。
そして、あの笑顔が曇るところも見たくなかったからかもしれない。
「ペルヴィ……本当の家って何だと思う?」
クリーヴは家の理不尽に直面するたび、度々ペルヴェーレにそう聞いた。
その問いに、当時のペルヴェーレはあまりきちんと答えを出せなかった。答えられるほど自分の中に何かの理想があったわけではなかったからだ。
ペルヴェーレはただクリーヴの傍らにいて、賛同の意を示しただけ。彼女が熱く語る理想というものを、自分も見てみたくなった——ただそれだけだ。
けれども今、その理想を見つけに行くべきなのかもしれない。クリーヴの求めた夢を追って。
◯
召使の監視役である淑女はしばらくフォンテーヌに滞在するとのことだったので、捕まえるのは比較的簡単だった。部下を通じて連絡を取れば、淑女は約束の日、郊外の壁炉の家の拠点へと現れた。
「あら、随分と小綺麗になったじゃない」
「子供たちが家の掃除をしてくれてね。……ほら、こちらにどうぞ」
子供たちが怖々とこちらを見守る中、召使は淑女を応接室に案内した。
お茶会に招待された淑女は、何とも不可解そうな顔をしていた。思えば、お茶とケーキで人を懐柔するのはお母様がよく取った手法だった。
「それで、何の用?」
「あなたが欲しがっていた情報を手に入れたのでね」
彼女は眉を跳ね上げ、召使が渡した資料を検分し、そして召使を見た。
「どこから見つけたの?」
「あの男の情報網を洗い直していたら、たまたまね。前任のリストは、実に役立った」
「……どういう裏があるの?」
「別に何もない。ただ、あなたの忠言に感謝しているのさ。だからそう気構えないでくれると嬉しい」
召使は茶を飲んで続けた。
「ただ、強いて言えば……一つ相談事がある」
「やっぱり何かあるんじゃない」
ティーカップがテーブルに置かれる。
「あのあと考えた。あの屑は殺されてしかるべきだったし、今もそう思っている。私は、いつかあの男のことは殺しただろう——家にとって脅威になるものだから。
けれども、今後はもう少し時期とやり方は考え、慎重になろう」
「あら、それはよかったわ。あんたが人の親切な忠告を聞き入れる素直な子供で。ぜひ、そうしてちょうだい」
淑女は肩をすくめた。召使は続ける。
「とはいえ、実を言うと、私はあなたが言うようなやり方にあまり慣れていなくて」
「ああ、そうでしょうね」
淑女も同意した通り、それは本当だった。お母様への反抗方法を全て武力を磨くことに割いていた当時の経緯から、アルレッキーノはさして弁舌がうまいわけではなかった。武力が飛び抜けていたから、勝手に家の中で一目置かれていただけだ。家の中での交渉事や話し合いは全て、隣にいた赤い髪の少女が矢面に立っていた。
「だから淑女、一つ頼みがあるのだが」
嫌な予感がしたのだろう、彼女は眉間に皺を寄せた。
「私をあなたの用事に同行させてくれないか? それ以上のことは頼まない——ただ交渉事に同席させてくれればよい。あなたのやり方を学びたいんだ」
「は……、」彼女は数秒絶句し、拒否するように眉を跳ね上げた。
「嫌だと言ったら? ……私に何の利があるの?」
断られた場合にどう話を運ぶかは、召使も考えてはいた。
「あなたは私の監視役だったはずだ。あなたの任務には、私が無事に壁炉の家を引き継ぐことが含められる、そうだろう? あなたは先日私を不適格だと指摘したが——」
召使は目を細め、続けた。
「もしあなたがそのままの評価を私に押しつけ、私が上層部に後任の管理者として認められなかったとして、また別人の監視をあなたはをすることになるのではないかな?」
淑女は無言で考え込んだ。それはありえなくもない未来ではあった。召使は続けた。
「私は良い生徒だと思うよ、淑女。あなたの任務には何の手も出さない。ただやり方を見せてくれれば良い。もし本当に同席してほしくない交渉事があれば、同席しないと約束しよう。
……私の瞳は怖いらしいから、威圧感は与えるかもしれないが、場合によってはそれもうまく働くだろう」
淑女は唸った。
「……この国での用事は残り数件なの」
「しかし、我々は他国の壁炉の家にも赴く必要がある」
「ああ、そうだったわね。はあ、面倒なことになった……」
淑女は長い溜息をついた。召使はじっと彼女の様子を観察した。その瞳には呆れと諦め、それに妥協が見えた。
「本当に同席させるだけよ。それ以外のことは何もしない。立ち振る舞いも教えないし、助言もあげない」
「ああ。それで構わない」
召使は頷いた。交渉成立だった。
「それから淑女」
テーブルの上のケーキはまだ残っている。彼女には最後に言いたいことがあった。
「まだ何かあるの?」
「当初あなたに失礼な態度を取ったことを謝罪しよう。すまない、あの前任の執行官の印象に引きずられていたんだ。あなたとあの人では違ったのにね」
「……別に気にしていないわよ」
淑女は目を逸らし、溜息をついた。場の空気はほんの少しだけ緩んだものになった。
◯
淑女は確かに任務の遂行と交渉事において、大層なやり手だった(執行官の席次がそのまま、その者が持つ総合的な力を意味するとは限らないことを召使は思い知った)。召使は観察以上は望まなかったが、意外にも彼女はいろいろと具体的に答えてくれた。
「まず、情報を徹底的に洗うこと」
「次に、目的達成のための道筋をいくつか描いてみること。道はいくつ走らせてもいい。どんな道からでも、代償に見合った成果が得られればいいんだから。……でも、あんたのやり方は結末が雑すぎる。毎回殺せば解決ってわけにはいかないでしょ?」
「次に、落とすターゲットを明確にすること。交渉のためにどんな条件と状況が必要なのかを明らかにして、それを用意するの。あとは交渉の場で、そのカードを適切なタイミングで切るだけ」
観察はペルヴェーレであったころから得意なことだったから、交渉の場で相手の本心を見抜くことは比較的簡単だった。あとは場を支配するための弁舌を磨くだけだった。
淑女の弁舌は鋭かった。彼女の嫌味と辛辣さはまるでいつでも突き刺さる棘のようで、それは交渉事においても変わらなかったが、必要最低限は相手を立て、引くべきところは引いた。召使は、その棘がある種の内面の防御から来ているものだとわずかに認識した。とはいえ深くは突っ込まなかった。彼女とはそんな仲ではなかったからだ。
召使は淑女の交渉術を考え、かつて共に過ごしたクリーヴのことを考えた。クリーヴは確たる理想を持ち、仲間を奮い立たせる能力に長けていた。だが、彼女に欠けているものがあったとすれば、周到さと狡猾さだった。けれどもそれがあったとして、お母様に弁舌だけの交渉事で勝てたかというと疑問だったが。
召使は同時に前任のことを考えた。彼女こそ周到で狡猾だった。けれども淑女と異なるのは、淑女が各地の有力者を相手取っているのに対し、前任は——少なくとも召使の知る範囲では——無垢な子供たち相手に仮面を被り、恩義と恐怖の糸で絡め取り、まるで自分の手足かのように操っていたことだった。
召使もフォンテーヌに駐在するファデュイ執行官として、公の場で正式に挨拶をし、交渉の席に着くこともあった。そこで再認識したのだが、この特殊な瞳はなかなかに役立った。人々はその瞳の暗闇を覗くことを恐れ、召使の前で視線を逸らし、自らの綻びを露わにする。であるから、召使は自然と優位に立てることが多かった。
まあ、あくまでそれは、瞳の威圧が通用する範囲の小物にではあるのだが。
◯
その後、召使は淑女と、蜘蛛の網の結び目のように各地に点在する壁炉の家に赴いた。
稲妻、璃月、モンド、スメールの森林に砂漠——召使は〝お父様〟として各地に赴き、前任が構築した網目を点検して張り替え、各地の子供達の痕跡を辿った。
けれどもやはり、全ての地域の状況を統率し、自らの息のかかった人員を育成するには、とにかく時間がかかる。
「前任はこれを全部見ていたわけ?」
ほとんどの壁炉の家を巡回し終わった頃、淑女は呆れたように肩を竦めた。
「さすがに不在時には部下に任せていたのだろうが、あの人は統治は得意だったね」
「あんたも早く各国に信頼できる部下を作った方がいい。全部自分で見ていたら、身体がいくつあっても足りないわよ。博士のようになるなら別だけど」
その後スネージナヤに戻り、道化への報告まで終え、淑女との協同任務は解散となった。全ての国を巡った時点で、淑女が「もう十分でしょ。これ以上は付き合ってられないわ」と言ったのも大きい。
とはいえ淑女との交流は続いた。彼女は彼女でよくスネージナヤの外で活動する執行官だったので、壁炉の家に情報を求めて来訪することも多かった。予定が被ったら、召使と淑女は一緒にお茶や酒を飲んだ——彼女とはそのような仲になった。
ときたま召使は思う。道化はこうなることを見込んで、淑女を召使の監視につけたのではないかと。それを道化本人に直接問うことは、この先もないだろうが。
◯
こんな出来事もあった。
ある日、フォンテーヌの壁炉の家の拠点はフォンテーヌ邸内に引っ越し、ブーフ・ド・エテの館と名づけられた。
邸内に家を移したのは、協力者が建物を譲渡してくれたことがきっかけであり、子供たちが増えるにつれ家が手狭になってきたという背景もあったが、別の理由もあった。一つには郊外の拠点は情報収集においては不便な点が多かったからで、二つには召使が前任の影を早く追い払いたかったからだった。
それからまもなくの頃、淑女がブーフ・ド・エテの館にやってきた。ちょうど寒くなる季節だった。
来訪は聞いていたのだが、予想に反して彼女は大量の荷物を抱えていたので召使は瞠目した。
「淑女、それは?」
「見れば分かるでしょ」
「……プレゼントか? 誰に?」
「……分からないの?」
淑女は呆れたように言い放った。
「もうすぐスネージナヤの氷炉祭じゃない。ずっと外国にいると鈍くなるでしょうけど、あの祝祭はちょうどこの季節に行われるの。スネージナヤに縁のないここの子供に、愛国心を教え込むのにうってつけでしょ」
召使は頷いた。正直、かなり意外だった。
「……そうか、ありがとう。そこまで考えが至らなかった」
子供たちは突然の客人と、その色とりどりの箱に興味津々だった。
とはいえお父様と同じ執行官であり、高圧的な雰囲気を持つ彼女に近づこうとする勇気ある子供たちがいるはずもなかったが、淑女はしばらく黙ったのち、こう平然と言い放った。
「……私を好きになってくれない子には、プレゼントをあげないわよ」
一番最初に動き出したのは一番適応力の高い子供だった。
それからほんの少しの間に、彼女は大勢の子供たちに囲まれた。
それは人に媚びを売ることを子供たちに教えたくないお父様の教育理念には反する光景でもあったが、召使は黙って見ていることにした。お客人の好意は黙って受け取るべきだし、何より淑女が珍しく、少し嬉しそうに見えたからだ。
その後も淑女はよく壁炉の家を訪れ、何かと理由を付けて子供たちにプレゼントを配るようになった。
執行官が各地の壁炉の家とつながりを持つのはそう珍しいことではない。壁炉の家はテイワット各地の情報の動脈として、その役割を果たす責務がある。けれども彼女は、同じ執行官である召使だけではなく、そこに属する子供達とも交友を深めた。それは召使にとってもありがたいことだった。子供の交友関係やロールモデルが増えるのは良いことだ。
◯
こうして一度消えた壁炉の火は、新たに薪がくべられ、火が継がれた。
召使は家の子供たちに安心して眠れる屋根を与えると同時に、子供たちに温かい食事を与え、綺麗な服を手配した。家の維持に必要な経費は必ずどこからか工面された。
召使は子供たちに礼儀作法を教えた。それはかつて召使が前任から教わったことでもあったし、フォンテーヌなど各国の社交の場に顔を出すにつれて覚えたものでもあった。
召使は自ら子供たちに身を守る術を教え、戦闘訓練をした。強くなるために、殺されないために、自分の身を守るためにはそうあるべきだと思っていたし、他の選択肢はないと思っていた。
子供たちに、前任の絵本は読み聞かせなかった。あの本は他の前任の痕跡と共に全て焼却され、灰も残らなかった。代わりに他の絵本や読み書きの本を各国に手配した。
けれども裏を返せば、前任から変えることができたのはそれだけで、前任より前の時代から健在の、スネージナヤの理想とファデュイの思惑に縛られた家制度そのものを覆すことはできなかったのだと、思い知らされるのはもっと後になる。
〝壁炉の家の亡霊〟に初めて出会ったのもこのころだった。
フォンテーヌの壁炉の家で、皆がほぼ寝静まった静かな夜に、アルレッキーノは気配を感じた。それはいつもアルレッキーノの傍に現れるものだったが、今回はその気配は随分と濃かった。
後ろを振り返る。——窓際に、ここにいるはずのない人物が立っている。
アルレッキーノは息を飲んだ。
「…………クリーヴ?」
どうして彼女がここに?
その声は少し震え、掠れていた。
瞬間、胸に期待が沸き起こった——あれらは全て夢で、今までのことはまだ起こっていない悪夢だったのではないかと。けれどもそうではないことを悟るのも一瞬だった。何故ならばそのクリーヴは随分と幼いのに、自分は随分と大きいままだから。あの自分と同じ背丈まで成長したクリーヴの存在が夢であるはずはないから。
期待はそのまま刃となってアルレッキーノの胸を刺した。
まだそんな期待を抱いていたのか? アルレッキーノは自嘲した。彼女を殺したことを、私は誰よりも知っているはずだ。彼女がもういないことを、私は誰よりも知っているはずだ。
「ペルヴィ?」
随分と幼い頃の姿をした彼女は、こちらを振り向き、笑顔を咲かせた。その笑顔は記憶にあるものそのままだった。
「…………クリーヴ、君は一体」
その声に、お父様としてあるまじき動揺が乗っていることをアルレッキーノは認識した。認識しながらも、どうしようもできなかった。
その日初めて、アルレッキーノは残影となったクリーヴと出会った。
そしてそれ以降、たくさんのクリーヴと出会うことになった。
[newpage]
お父様はリネットの恩人だった。
当時の養父に差し出された大物の邸宅で、リネットは物陰に隠れて、ただ怯え、震えていた。まだ何も起こっていなかったが、これから何かよくないことが起こることは明白だった。
どうして自分にはこんな耳が生えているのだろう? リネットは自分の形質を恨んだ。この耳のせいで、こんなところまで連れてこられてしまった。
お兄ちゃん。リネットは兄のことを思った。どうか助けてほしかった。けれどもそれが難しいだろうことも分かっていた。同時に、無力な自分がただ悔しかった。私は何もできない。私には何もできない。ただ怯え、震え、救いを祈ることしか。
——屋敷の遠くで、何か異質な物音がした。暗がりの中で、部屋に月光が差したのを見た。
「もう隠れるのはやめたまえ。怯懦は何の役にも立ちはしない」
その月光のように冷たい声が、リネットを照らした。
「出てくるといい。君を傷つけようとした者はもう死んだ」
その声は冷たく厳粛だったが、リネットにとっては救いに等しかった。リネットは顔を上げた。視線の先に、人が立っていた。それはリネットをここに連れてきた大物でもなく、義父でもない。知らない人だ。その人の白い髪は月光に照らされて輝き、瞳に底知れない暗闇と緋色の十字架を宿していた。その頬には血痕が散らばっていた。
リネットはその人としばらく見つめ合った。恐らく彼女が助けてくれたのだろうが、その人はあまりにも異質だった。まるで世界から切り離されているかのような存在感。
「——リネット!」
そこに、ここにいるとは思わなかったリネが飛び出してきた。リネットは途端に体中の力が抜けるのを感じた。もう助かったのだと本当に実感して、眼の奥が熱く潤んだ。
「お兄ちゃん……!」
二人は固く抱き合った。もう二度と離れ離れになりたくなかった。
その人は、黙ってその様子を見ていたかと思えば一度その場を立ち去った。また遠くから別の異音がして少し経った後、その人は戻ってきた。
「さて、私の用事は済んだ。次は君達だが……」
彼女は身をかがめ、二人と視線を合わせた。
「君たちに帰るところはあるのか?」
「ありません。どこにも」
リネは答えた。リネットもかぶりを振った。
「嫌。あそこには戻りたくない……」
その人は感情の読めない瞳を細め、頷いた。
「では、私についてくるといい」
その月光に導かれて踏み入れた道が険しく、特殊な立場に通じていることに、やがて自分たちは気づくことになる。けれどもその光についていくことを選んだのは自分たちだった——それが選ぶしかなかった道だったとしても。そしてリネットとしては、その選択を後悔したことはない。
連れて行かれた先は孤児院のような家で、たくさんの子供たちがいた。その子たちも同じように、行く当てのない境遇なのだと言われた。その子たちを引き取ってここで育てているのだとも。
「君たちも同じだ。これから、ここが君たちの家になる。仲良くするように」
そうして彼女は付け加えた。
「私のことはお父様と呼ぶといい。君たちはこの家にいる限り、裏切られることはない。そして、裏切りも一切容認しない」
その手は最後に二人の頭を撫でた。リネとリネットはそこの子供たちと仲良くなるのに少し苦労したが、やがて家に馴染み、新しい家族がたくさん増えた。
この家には暖かい壁炉があり、清潔なベッドがあり、満足できる量の食べ物があった。少なくとも、明日の寝床と食べ物の心配はしなくてよくなった。そこまではあの義父も同じだったが、お父様は二人を社交の場に連れ回したりリネットを売り渡したりはせず、むしろあの貴族を海の下に沈めてくれた。
そうしてお父様から、さまざまなことを教わった。お父様は厳しかったけれど、それほど苦痛には思わなかった。これまでの日々では、庇護と教育を受ける機会自体が貴重だったからだ。
一般教養を身につけ、勉学をきちんと修めるように。礼儀作法をきちんと身につけるように。美しい所作を身につけ、家の子供として恥じない振る舞いができるように。……そして戦闘技術を磨き、自分の身を守れるようになり、実力に応じた任務をこなせるように。
あるときお父様はリネットの耳を撫で、このようなことを言った。
「いい耳だ。監視に役立つだろう。これからはそれの使い方を覚えるんだ」
それは人によっては受け入れられない言葉なのかもしれないが、リネットにとっては光明に等しかった。この祖先からの贈り物に自分はずっと悩んできたが、この耳は、うまく使うことで〝家〟の役に立つことができる。
時折もう家を離れた年長者たちが手土産と共に家に訪れる。「家の様子を見に来たんだよ」「私もここの出身だから」と。確かにそうであることは、所作を見れば一目で分かった。彼女たちはお父様に憧れている存在なのだと。リネットも同じだった。彼女は遠い目標だった。
あの強さに近づきたい。自分で自分の身を守れるようになりたい。私も、家族を守れるようになりたい。お父様にあの日助けてもらったみたいに。
その一心で、リネットは髪を後ろでまとめるようになり、お父様の剣術をなぞった。
しばらく鍛練を重ねて分かったのは、あの人の強さは規格外だということと、あの域に到達するにはもっと研鑽が必要だということ。
けれども少なくとも、リネットはもう自分の身を守り、家族を守る術を手に入れた。——家族という言葉は、かつてリネだけを指していたが、やがて弟のような親しい存在が新たにでき、リネットはいつしかこの家全体を家族だと思うようになった。
そこが自分たちの帰るべき家であると、リネットは今でもそう考えている。
◯
(……お父様?)
声が聞こえる。
夜更けに目が覚めてしまい、眠りやすくなるお茶でも飲もうと廊下を歩いていたある夜、予想外の音を聞いてリネットは耳を立てた。それはお父様の声だった。
お父様が難しい話を部下としているのはよくあることだったが、その声はいつもとはどこか違った。厳粛で冷たい、威厳のある声ではなく、どこか穏やかで落ち着いた、内省的で何故か哀愁のある声。
お父様は常に威厳に満ちているからこそ、その内面に入り込むような声は珍しかった。
リネットはつい好奇心に駆られて、声のする方を探り、そろりと歩みを進めた。お父様の声は図書室から聞こえてくるようだった。内容までは途切れ途切れで分からないけれど。
(……誰かと話している?)
ついつい聞き入っていたのがいけなかったのだろうか。やがてその声は途切れ、コツコツとお父様の足音がこちらに向かってくる音がした。見つかってはまずいかもしれない。隠れようと思ったけれど、その月から逃れられるほどリネットは手練れていなかった。
「リネット、良い夜だね。眠れないのかな?」
「は、はい。すみません、お父様」
お父様は口元に微笑を浮かべていた。怒ってはいないようだった。
「謝る必要はない。ただ、早くおやすみ。夜更かしは成長期の身体に良くない」
「あの、途中で目が覚めてしまって。お茶を飲もうと……」
「ああ……」
お父様は視線を横にずらした。図書室の窓は、何故か開きっぱなしになっていた。月光に照らされた図書室の机上にあるのは、複数人用のポットと、何故かカップが二つ。一つは空っぽで、もう一つはまだお茶が入っている。
「あ……お父様もお飲みだったんですね」
「いや、もう冷めてしまったんだ」
お父様は首を振った。
「君の分は、新しく入れ直してくれば良い」
リネットは頷き、少し逡巡したのちにこう聞いた。
「あの……お父様もお飲みになられますか?」
彼女は少し微笑んだ。
「では、一杯いただこう。ただしリネット、君は一杯飲んだら部屋に帰って眠りなさい」
リネットは内心とても張り切り、己の持てる技量を全て出し尽くして最高のお茶を入れた。
こぽこぽと茶褐色の液体がティーカップに注がれ、お父様は優雅な所作でそのカップを手に取った。
「君の入れるお茶はいつも素晴らしい。腕を磨くとよい」
「はい。ありがとうございます」
リネットの尻尾が揺れた。そこからしばらく世間話が続いた。お父様は普段の家の様子や新入りの子供たちについて知りたがり、リネットはほとんどを包み隠さず答えた。子供たちの一人一人は、お父様の目であり耳であった。
「それから、リネット」
そして、お父様はリネットに告げた。
「気配の消し方はもっと鍛錬が必要だね。君の足音はこちらに丸聞こえだった」
「……はい。精進します」
そこから少し沈黙が続いた。お父様は窓の外を見ていた。何か考え事をしているかのように、彼女は眼を細めた。
リネットはおしゃべりが得意なわけではなく、その相手がお父様ともなればなおさらだった。とはいえ、それほど気まずい時間でもなかった。少なくとも沈黙に慣れたリネットにとっては。
リネットはゆっくりとお茶を飲み、お父様を観察した。……こういうお父様のモードを見るのは初めてだった。お父様にも待機モードがある。リネットはそれを覚えておくことにした。
リネットは最後の一口を飲み終わる前、勇気を出してどうしても気になったことを聞いた。
「あの、お父様は、先ほどここで何をされていたのでしょうか」
「……ああ」
彼女は何故か開きっぱなしになっている窓を視線で示した。
「月が綺麗だからね」
その月は常と変わらず、蒼く皓々と光っている。
リネットはその回答に頷いた。誰かと一緒だったのかとか、そういうことは結局聞かなかった。お父様の顔を見ていると、それは聞いてはいけないことのように思えたから。
お父様は笑みを深めた。
「深入りしないのはいい選択だ。今日この場においてはね」
「……はい」
リネットが部屋に戻っても、同室のリネとフレミネは目を覚ましていなかった。毛布の中に入ってもしばらくお茶会の高揚感は続いていたが、やがてリネットは眠りに落ちた。
その夜、お父様と二人でお茶会をしたことは、誰にも言ったことがない。
『ペルヴィ、お茶会をしない? お母様がケーキを焼いてくれたのよ』
かつて、クリーヴとはよくお茶会をした。
お茶会と言っても大したものではなく、今考えればお茶会と呼べるようなものでもなかった。ただクリーヴは、その特別な言葉の響きを気に入っていただけだったのだろう。
クリーヴとペルヴェーレは、まだ家の秘密が覆い隠されていた頃は、お母様のくれたお菓子やケーキを一緒に食べておしゃべりをした。家がその本性を露わにし、子供たちを呑み込む牢獄となったときには、大人の目を盗んで窓を開けて、夜空にかかる月を見ながらおしゃべりをした。
その会はクリーヴとペルヴェーレが仲良くなってから、そしてクリーヴがいなくなるまでずっと続いた。
◯
だから彼女は、よく夜にアルレッキーノの前に現れるのだろうか?
アルレッキーノは過去に思いを馳せていた意識を、ふっと目の前のクリーヴ——〝亡霊〟に戻した。
「ねえペルヴィ、家の外はどんな感じだった? あなたの目に映った外の世界の話が聞きたいの」
この壁炉の家でのクリーヴとのお茶会はもう何十回にも渡り、アルレッキーノはその正確な数字を数えることをとうにやめた。
何度もクリーヴと接する中で、気づいたことがある。
幻影の彼女は過去の強烈な呪縛に囚われ、家から移動できないこと。
日の光に焦がれながら日の光を恐れ、影の中にしか現れないこと。
幻影の間の記憶は、すぐに忘れてしまうこと。
クリーヴの幻影はよく夜に現れ、朝になると消えた。そしてまた出会ったときに、こちらを見て同じように微笑む。
『ペルヴィ、久しぶり! ねえ、どこに行っていたの?』
確かに、かつてのクリーヴは常に朝が来ることに怯えていた。夜更かしをして翌日に眠くなろうとも、眠りにつけず真夜中まで起きていることはしばしばだった。幻影もその頃の習慣を引き継いでいるのかもしれないとアルレッキーノは推測した。
けれどもその幻影に、幻影であったころの記憶は残っていない。彼女は再会するごとに、以前話したことを全て忘れてしまっていた。彼女は毎回新しく生まれ直す。
それはアルレッキーノにとって、このクリーヴが記憶の残影にすぎないということの痛切な証明でもあり、もう現世からはいなくなったクリーヴと再度客観的に接することのできる貴重な機会でもあった。
アルレッキーノは幻影が聞きたがることを、何でも話してやった。その日彼女が聞きたがったのは、家の外の話だった。
「スメールには大きな砂漠が広がっていてね。昼間は本当に暑いが、夜になるととても美しいんだ。視界いっぱいの砂海が月光に照らされて、夜の星々のように美しく輝くんだよ」
「稲妻はたくさんの島でできた国だから、島によって雰囲気が全く異なるんだ。雷がずっと落ち続けている島もあれば、美しい貝があちこちで産出される島もある。……ああ、その島の民たちは、かつて海の下の、永遠に夜が続く世界で暮らしていたらしい」
「璃月の沈玉の谷はお茶が有名でね。私達がよく飲んでいるものとはまた風味が違うんだ。君も一度飲んでみたらきっと驚くだろう」
「モンドは風と自由の国だ。君の好きそうな国だと思う。あそこの民は自由という理念を愛し、国全体が伸びやかな空気で満ちている……そう、お母様の家とは真逆だね。あの国にいると、どこにいても風に乗って詩歌が聞こえてくるんだ。
……私が気に入ったかって? どうだろう、私は——」
かつて外に出ることができなかったのが嘘のように、情報官の身分をもってすれば各国の情報を得ることは至極簡単だった。その中からクリーヴが好きそうな話題を選んで話をすれば、彼女はその目を光でいっぱいにした。
各地の情報を集めることはスネージナヤの情報官としての責務であったが、アルレッキーノはいつしか、この亡霊に話をするために任務に関係のない情報も集めるようになった。その関係ないと思われた情報が、思いがけないことに役立つのもしばしばだったが。
「ペルヴィ、私も他の国に行けるかな? 外の世界を見られるかな?」
「……君がこの家から出られないのなら、行けないだろう」
一度このクリーヴと試してみたことがある。月の綺麗な夜に、彼女を連れて家の外に出られないかと。
『……ペルヴィ、やっぱり無理だよ』
そのクリーヴは、ドアの前まで来て、困ったように笑った。
どうしてこのクリーヴが外に出られないのか、アルレッキーノにもはっきりとしたことは分からなかったが——残影という特殊な存在であり、「自分は家の外には出られない」と認識していることが影響しているのではないかという推測が立った。その思い込みが幻影の手足を恐怖で縛り、家の外に出られないようにしているのだと。
亡霊の目にする世界は、そもそも歪んでいるようだった。窓のないところで窓を開けるような仕草をしたり、お茶を飲めないのにまるで飲んでいるかのような仕草をしたり。加えて、自身が既に死んでいる亡霊にすぎないことを、毎度アルレッキーノに伝えられて初めてクリーヴは認識した。
回数を重ねるうちに、アルレッキーノは認識を深めた——彼女は呪いによる残影であり、記憶が残した幻であり、本物のクリーヴではないと。
それでもアルレッキーノがその夜のお茶会に付き合っている理由は、自分でもよく分からない。
結局一度も家の外に出ることのできなかった彼女を、例え幻影だとしても救ってやりたいのだろうか。
それとも、自分が過去の後悔を晴らしたいだけなのだろうか。
それとも、自分が彼女に救われていたのだろうか?
壁炉の家の長という職責は想像以上に重く、アルレッキーノの導きとなる光はどこにも存在しなかった。
だから確とした理想を持ったかつての彼女と過ごすことは、確かに一つの救いでもあり、この先の見えない道を行く中の灯火でもあった。
◯
あれはかつての家で起こった無数の出来事の一つ。雨が降りしきる夜のことだった。
「……失敗しちゃった」
クリーヴは笑った。その手足には、生々しい傷跡が刻まれていた。
彼女は脱走を計画し、そして失敗した。そういうことはしばしばあり、その全てが同じ結末を辿った。
ある日、彼女は優しかったファデュイの大人に助けを求めた。けれどもお母様の部下だったファデュイは、彼女をお母様に差し出した。
ある日、彼女はたまたま家を訪れた商人に家の話をし、助けを求めた。けれどもその商人はお母様と取引をしていた者だったから、お母様に告げ口された。
ある日、彼女は雨と闇夜に紛れて逃げだそうとして、周辺に仕掛けられていた罠に引っかかった。ペルヴェーレの助けで命は落とさなかったものの、彼女は大きな怪我を負った。
彼女は何度も外に逃げだそうとした。けれどもそれは、結局一度も叶わなかった。
「ペルヴィ、私、外の世界を見てみたい」
クリーヴはかつて幾度となくそう話した。絵本の描写から外の世界への想像を膨らませ、将来そこに訪れたら何をするかという展望を語り、ペルヴェーレもこっそり同じように外の世界に行くことを想像した。その未来への希望を諦めずきらきらと輝いていた瞳は、やがて悲哀を帯び、絶望に染まった。
「ペルヴィ、私、外の世界を見てみたかったな。あなたと一緒に、スネージナヤのオーロラを見に行きたかった」
彼女はやがて、実現したい未来としてではなく、決して叶わない夢として外の世界の話を語るようになった。
◯
ペルヴェーレがお母様を殺し、各地の壁炉の家を統括する責を負ったとき、アルレッキーノは外の世界を直接目にする資格を得た。
実際にこの目で見た世界は、やはり絵本やクリーヴの話から想像した世界とは違った。どこに訪れても、そこには驚くような独自の景観があり、異なる美しさを持っていた。けれどもそのいずれを目にしても、アルレッキーノの心がかつてクリーヴから話を聞いたときほど躍ることはなかった。
それはもしかしたら、もう新たな職責が胸に刻まれていたからかもしれない。
あるいは、この世界が見た目ほど美しいものでもなく、その裏側には様々な蜘蛛の糸が張り巡らせられていることを知ったからかもしれない。また、外の世界に憧れる心を失ってしまったからかもしれない——この世界の構造はそう単純なものではなく、この世界の外の深淵は決して我々と相容れる存在ではないと。
だからなのか、アルレッキーノの記憶に刻まれている最も美しい景色は、やはりあの監獄から見たスネージナヤのオーロラだった。
けれどもそのオーロラの話だけは、幻影のクリーヴにはしたことがない。
それは、二人で交わした約束を果たす機会がついぞ訪れず、一人でその光景を目にしたことへの負い目からかもしれない。あるいは、クリーヴにオーロラを直接見せる機会はいずれ必ず訪れると、そう信じたかったのかもしれない。
家を引き継いでから数年が経ち、召使はとある式典のためにスネージナヤに招集されていた。とある式典——新しいファトゥスの就任式だ。
執行官になったことで、召使は大きな自由と権限を手に入れたが、それに伴って責任も増え、多忙にもなった。
この式典への出席も、そうした義務に近いものだった。執行官が一同に揃うことはそうそうないが、新たに同僚が増えるとなれば話は別である。とはいえ強制というほどではないので、このような場にさえほとんど顔を見せない執行官もいるが。
執行官と一口に言えど、執行官によってやっていることはさまざまだった。召使のように外交や情報収集に携わる者もいれば、国内で政治や金のやりくりをする者もいる。ずっと引きこもって研究をしている者もいれば、深淵を滅ぼすことが使命だと戦いに赴き続ける者もいる。
情報官たる召使にとっては、このような機会にはなるべく顔を出しておくべきであることには間違いなかった。それは自身の顔をスネージナヤ本土の高官に知らしめ、恐怖を覚えさせ、壁炉の家に降りかかる余計な厄介事を減らす良い機会だからだ。
それに、決してファトゥス同士の仲は良くないとはいえ、同僚としてお互いの顔ぐらいは認識しておいた方がよい。情報官であるならばなおさらだ。うっかり殺してしまった相手が同僚だった、という事態になれば笑えない。
その場にはちょうど淑女もいた。
「あら、久しぶりにあんたの顔を見たわ。また就任式ですって? あんたの分をついこの前やったばかりなのにね」
「まあ、そうだね。久しぶり、淑女」
あれから数年は経ったのだが、とは言わなかった。長く生きる者が多いファトゥスにおいて、どちらの感覚が普通かというと怪しい。
「淑女、この前は家の子供たちにプレゼントをありがとう。皆喜んでいたよ。君にお礼の手紙を書いたそうだ」
「……別にいらないわよ」
「君の邸宅に届けさせたから、暇なときにでも見てもらえると嬉しい。子供たちも喜ぶだろう」
「私は子供には興味がないの」
淑女は刺々しくそう返したが、召使は軽く受け流した。この同僚への接し方は、この数年間でもう随分と学んだ。本心がどうであれ、その態度は刺を纏うのだということを。
「それであんたは、件の新任は知ってる?」
「それほど詳しいわけではない。あいにく、私は関わりを持ったことがなかったからね。詳しいと言うならば——」
そこで召使は横目で、その場にいた執行官——「雄鶏」に視線を移した。
「雄鶏殿の方が詳しいだろう?」
「……」
雄鶏がこちらに視線をやり、何か言葉を発しようとしたとき、入口がにわかに騒がしくなった。
「ほれ、来た」
その雄鶏の声と共に、件の人物が現れる。茶髪のまだ若々しい顔立ちの少年だ。
あれか。召使はあまり感慨を持たずにその人物を見た。
式典が始まる。女皇陛下は常と変わらず場を睥睨し、道化が彼に叙勲する。
「公子」タルタリヤ——それが彼の授かった称号と新しい名前。
「随分と若いものだね」
「あんたもあんな感じだったわよ」
「ほう?」
史上最年少——家の年長の子供たちとさほど変わらない年齢で執行官になった彼は、特に顔色を変えず叙勲を受けた。
家の情報網から得た話によると、彼の武芸は並外れたものらしく、直近の彼の魔獣討伐が執行官就任を後押ししたのだという。彼を見つけたのが雄鶏であるとも知らされていた。
いい目をしている。召使個人としては、その印象が強く残った。
それ以外に彼個人には特に興味はなかった。壁炉の家に関わることはあまりなさそうなタイプだし、彼は就任の経緯からして雄鶏の派閥に加わるだろう——どちらかといえば、その側面の方が気がかりではあった。
雄鶏と召使は、この数年のうちに随分と対立を深めた。
彼が優秀な為政者であることは認めるが、彼の方針は〝壁炉の家のお父様〟からすれば、しばしば受け入れがたいものだった。たびたび本国の方針を巡って召使は雄鶏と争い、双方の溝は大きくなった。
その余波の一つとして、召使について回る評判は未だに悪い。スネージナヤ本国での情報操作は、どうしても強固な地盤を持つ雄鶏の方が上手だった。召使について回る悪評の一因は、就任の経緯自体であったが、しかしそれを本土で煽っているのは雄鶏でもあった——召使本人が噂を放置しているというのもあるが。その背景には、お互いの対立が起因しているだろうことも容易に推測できた。
彼と言い争っても時間の無駄だ。そのことは理解している。お互いの価値観には天と地ほどの隔たりがあり、スネージナヤの望む未来からすれば、確かに雄鶏の要求は理にかなっている。大局を見るならば、雄鶏の言う〝最小の犠牲〟を払って得る利益の価値は高い。
だからこそ召使としては、上から壁炉の家に通達される任務を直接は断れない。この家は所詮、ファデュイの下部組織にすぎない——せいぜい任務の達成方法を変え、危険度を下げる選択ができる程度だった。
お父様は、自身がスネージナヤに赴くときに、ときたま子供たちを一緒に連れて行く。
そのときも同じだった。リネはリネットたちと共に、お父様とスネージナヤに来ていた。
それは護衛や任務のためという名目で、実際道中でいくつか任務が割り当てられたが、お父様が一緒なので比較的不安はなかった。それに外国に出かけること自体は、リネにとっては楽しく刺激になることだった。
お父様は執行官としてスネージナヤ郊外の屋敷を所有しており、子供たちとそこに泊まることが多かった。料理、掃除などの雑用が子供たちの仕事として割り当てられたが、それ以外の時間は比較的自由に過ごすことができた。
ある夜遅く、リネはお父様が玄関で誰かと会話しているのを聞いた。
「いったいここまで何の用だ?」
「そんなに威嚇せずともよいだろうに」
暗くくぐもった、恐ろしい声が聞こえた。
客人ならばもてなしをするべきなのかもしれない。けれどもお父様はこちらを射抜き、睨みつけた。その威圧にリネの足はすくみ上がった。
「結果が出たのでね。追加で……をもらえないか?」
「そのためだけに、わざわざここに?」
お父様は常に怖かったが、それでも滅多に聞いたことがないような厳しく嫌悪に満ちた声音で、手厳しく客人を断った。
「ああ、それから、提案なのだが……例の子供たちも連れてきているのだろう? どうだろう、そこから……」
「その提案を、私が受け入れることはないと言ったはずだ」
ここから見えないはずの客人の視線が、こちらを見つめたようでリネはぞっとした。
そこからお父様はしばらく押し問答をし、客人はここを去ったらしかった。
屋敷の門が閉じる音がする。
「……やれやれ。厄介なのが去った。もう出てきてよい、リネ」
声をかけられて、リネははっと瞬きをした。体のこわばりはまだ解けていなかった。
「お父様、先ほどの方は……」
「君が気にすることではない、と言いたいが……君があの男のことを知ってしまったからには教えておこう。彼は私と同じ執行官の第二位、『博士』ドットーレだ。私は彼と秘密実験の取引をしていてね」
そこでリネの不安を察知したのだろう、お父様は嘆息した。
「約束しよう、この実験に関して、君たちに累が及ぶことはない。ただし、あの男は実験のためならば何でもしたがる危険人物だ——だから君はあの男に、もう二度と関わらないように。もしあの男と接触してしまったら、すぐに私に知らせるように。必要な手を打とう」
「……はい。分かりました」
執行官にも様々な方がいるということはリネも知っていたので、頷いた。
(でも、その危険な方とお父様が、実験の取引を?)
けれどもあの様子とその口ぶりからして、お父様は心底あの執行官を嫌っているようだった。
いつも冷静で落ち着きのあるお父様が、声にあれほど感情を乗せるのは珍しい。
「あの、それほど危険な方と取引をして、お父様は……」
リネのその質問に、お父様は少し笑んだようだった。
「私の心配ならいらない。あの博士はただ実験の方向性を提供しているにすぎない——私はあの男の実験台になどならない。リネ、それよりも自分自身の心配をするように」
「ペルヴィ! いたんだね」
何度目かも分からないお茶会で、屈託なく笑うクリーヴを見て、アルレッキーノの心は軋んだ。
初めて彼女と会ったときから、随分長い年月が経った。
数年前から変わることなく、クリーヴとのお茶会は続いていたけれど、アルレッキーノがブーフ・ド・エテの館に帰る頻度は減り、伴ってこのクリーヴと会うことも減った。
年月を重ねるうちに、気づいたことがある。
彼女は家にいながら、家の子供たちを助けてくれていること。
ここで暮らしたことがないにもかかわらず、ここを本当の家だと思っていること。
そして、——過去に囚われた彼女にとっての真実を、出会った子供たちに話していること。
これは家のお父様にとっては、かなり困った問題となった。クリーヴの噂話は、家の統制に悪影響を及ぼした。それは過去の家の話であり、今の家ではかつて行われた痛ましい実験は行われていない。けれども子供たちはその噂を聞いて戸惑い、怯え、疑念に駆られ、お父様にあるかもしれない闇の側面を見た。
例えばある日、子供たちが家の暗がりで会話をしていた。
『……実験?』まさか、という疑念に駆られる子供の声。
『そんな証拠はないし、聞いたこともない。でたらめだ』憤慨する子供の声。
『でも、あの方のことだから、もしかしたら本当かも……』疑念を深める子供の声。
『……あっ! 早く行こう、お母様に見つかっちゃう』あのクリーヴの声。
『お母様……?』怪訝そうな子供の声。
召使が姿を見せたとき、既に子供たちは立ち去り、クリーヴももうそこにはいなかった。
そのとき召使は強く認識した——彼女は未だに過去に囚われている。過去に囚われながら、家の秩序にとって脅威となる情報を発信している。
それでもクリーヴは、まだアルレッキーノの前にも現れた。アルレッキーノもこれまでと同じように、幻影に付き合ってさまざまな話をした。
「君は最終的に、自由に死を選ぶ権利を願った。最期、君は私に殺された」
何も知らない彼女と会話を重ねるうちに、ある思考が海面を覆う霧のように召使を覆った。その霧は次第に濃くなり、アルレッキーノ本人さえどう進めばいいか分からなくなった。
この幻影をそのままにしておくことは、幻影自身の苦痛を長引かせているだけではないか?
とっくに過去から解放されたはずの存在を、煉獄の炎に閉じ込めているだけではないか?
残影は消そうとすれば消えるものであることを、アルレッキーノは執行官になった後に知った。元々アルレッキーノの生まれ持った呪いの余波で生まれたものだ。その欠け残りの記憶ごと燃やし尽くしてしまえば、残影は消える。何も存在しなかったかのように。
そう理解はしていたが、その選択をする覚悟をアルレッキーノはまだ持てていなかった。まるで自らの髪を切る選択を未だできていないかのように。
何故ならばその選択は、もう一度この手で彼女を殺すことになる。
自分は果たして、彼女をもう一度殺せるのか? あの喪失を知った後に?
アルレッキーノはじっと自分の心を観察した——まだ心残りがあった。
彼女の行きたがった外の世界の話を、まださほどしてやれていないのに?
あるいは、彼女の望んだ〝本当の家〟に、自分はまだ辿りつけていないのに?
『ペルヴィ、本当の家って何だと思う?』
その問いに、かつてのペルヴェーレは答えられなかった。
そして今もなお、答えられないままだ。
[newpage]
壁炉の家の秩序を召使が新たに規定してから、もう数年が経った。
家は召使が知っていたものからは随分と変わったが、それでも変わらないことも多かった。
召使は家の秩序の維持には困難を伴うことを実感していた。家は召使の統治の下、表面上は秩序を保って運営されていたが、そこがファデュイの組織であり、成長途中の子供たちを受け入れるという性質上、騒動が起きることも多かった。
召使からすれば、子供たちはときどきつまらないことで諍いを起こし、些細な理由でこの家の規則に反抗した。思いがけないことを言い出し、困惑させられることもしばしばだった。
「……またか」
最近の子供たちの報告を聞いて、召使は嘆息した。
子供同士で相性の良し悪しがあり、意見の対立が生まれるのは、これはもうどうしようもないことだった。
かつての家でも、似たようなトラブルはあった。子供一人一人が別の人格であり、異なる考えを持つのだから、そういった事態は発生するのが自然なものだ。なおかつ、今の家の原則は「自分自身で判断できるようになれ」であるから、そういった事態も歓迎すべきことではあるのだろう——最終的に事態を収めるのは、召使自身だったが。
あるとき、シャプローとフェンネルがカードゲームの結果を巡って喧嘩をした。
あるとき、リネットが子猫を拾ってきて、その子猫の処遇について論争が起こった。
あるとき、フィリオールとオレールが言い争いをして、家の運営に支障が出た。
あるとき、リネットが家の設備を壊し、フレミネがそれを直してくれた。
あるとき、——
このような些細な家の騒動は日々山のように積み重なり、それに対して召使は溜息をつくと同時に、どこか温かな感覚がもたらされるのを感じた。小さかった子供たちが成長していく様を見守ることは、まるで杯が満ち足りていくかのような充足感を得られるものだった。自身がそのように感じることを、召使は自分でも意外に思ったが、そのことを次第に受け入れた。〝お父様〟は意外と召使の気質に合っていた。
けれども、もっと深刻な動向もある。
ある子供は、普通の生活に憧れている。
ある子供は、このファデュイの闇を抱えた家に馴染めず、ここから逃れたいと思っている。
ある子供は、いつ危険な目に遭うともしれない任務に嫌気が差している。
その子供たちは、既に逃げ出す準備を、あるいは反逆の準備を進めている。
その分断は深刻で、原因の一つには恐らくクリーヴの話の影響もあった。
召使は、それをお父様の立場から全て見ていた。
召使は執行官として、壁炉の家のお父様として、その裏切りを見逃すわけにはいかなかった。
壁炉の家において裏切りは許容されない。この家は細い糸を渡り歩くような均衡の上に成り立っており、家を裏切るということは、家に大きな犠牲を出すということを意味する——場合によっては、それはたくさんの血によって支払われる。
よって、裏切り者は全員しかるべき処罰を受けるべき——それが家の規則だった。
先代召使の統治の下では、かつてクリーヴがその道を辿ったように、裏切りの芽は内部で完全に処理されていた。
今代召使の統治の下では、この数年の間は、裏切りが顕在化することはなかった。
けれども今、家は不協和音に揺れている。それは家が成長していく中で当たり前の過程であるのかもしれなかったが、その響きは深刻であり、家の秩序はかつてないほどに脅かされていた。
新しく家の秩序を打ち立て、壁炉の家を守ることは召使に課せられた責務でもあり、かつて隣にいた人の遺した志でもあった。
家の規則を変え、家の子供たちを守るために、召使はお父様となって家を維持する側に立った。
けれどもその家の維持そのものが、子供たちを殺すものとなる場合、どうするべきなのか。
召使は、納得できる答えをまだ見つけられていない。
◯
結果として、その裏切りの火種は最悪の形で燃え広がった。
あれは分厚い雲で覆われた、月の見えない夜だった。
その日、フォンテーヌの壁炉の家で大規模な反乱が起き、召使がそれを鎮圧した。
反乱の首謀者たちは任務の最中に家を裏切り、結果、執律庭にその動きが検知されたことにより、その首謀者も、巻き添えとなった無関係の家の子供たちも、十数人が死んだ。
お父様は首謀者の全員を裏切り者として殺した。
機に乗じて逃げ出した他の子供たちも、全員殺されるか、騒動の混乱の中で死亡した。
——表向きはそういうことになっている。
その反乱後、処刑名簿は刷新された。
その反乱後、家の統治は強くなり、監視は増え、裏切りへの圧力は増した。
「お父様……!」
その裏切り者は唸るように声を発し、ボロボロになった身体を引きずって召使の前に立ち塞がった。
「フェンネル。ここにいたか」
「ええ。見つかってしまいましたか」
「いや、元より君自身は逃げる気はなかった、そうだろう?」
そう指摘すれば、その子供は皮肉めいた笑い声を発し、口元を歪めた。
「……フフ。そうです、お父様。仲間たちが逃げられているといいのですが……その様子だと、あなたはもう把握済みのようだ」
「裏切り者は全員処罰を受ける。君達が生きて家から出ることはできない」
そう淡々と告げれば、
「処罰……それは〝処分〟ですか? それとも〝実験体〟?」
そう問うた子供の目には恐怖と緊張が走り、それは今にも引きつりそうな笑みで覆われていた。召使はその目の奥に、これまで注意深く隠されていた深い憎悪を見た。
「……それは誰から聞いたんだ?」
半分分かっていたことではあったが、召使は問うた。
「クリーヴ、壁炉の家の亡霊から聞きました。あなたは……」
「君たちはそれを信じたのか」
「……ええ。けれどもお父様、彼女の話は引き金でしかありません。あれが真実であればなおさらですが、もし真実ではなかったとしても……皆、この家から抜け出したいと思っていました。あの話はその考えに火をつけたにすぎません」
召使は目を細め、嘆息した。やはり、あの幻影を早く消してしまうべきだったという後悔が胸の内に燻っていた。
クリーヴは確かに生前から、子供たちの扇動に長けていた。彼女が起こした火種はかつての家に秩序への抵抗を招き、現在の家にもその火は広がった。
「君たちのせいで、随分とたくさんの子供たちが死んだ」
「私たちが裏切りを起こさなければ良かったと仰るのですか?」
その声は弾劾するように発せられた。
「あなたが私たちをあの家に迎え入れなければよかったと、そうは思わないのですか?」
「…………」
首謀者の一人である子供の声は震えていたが、その眼差しは毅然とこちらを睨みつけていた。それこそ召使がその子供を好ましく思っていた理由であり、内心まぶしく感じていた理由だった。その子供は、かつてのクリーヴに似ていた。
「そうなのだろうね」
そう静かに肯定すれば、その子供は瞼をビクリと揺らした。
「私は君たちの願望を測り間違えていた。自由……私にはどうやら本当の意味でその渇望を理解できなかったらしい。
それでも、ファデュイの暗部を知った君たちを、何の処置もせず家の外に出すわけにはいかない。ルールを破った者には、必ず処罰が与えられる」
「ルール……」
子供は低く唸るようにその言葉を発した。
「お父様、私たちをどのみち処罰するというならば——私はあなたに決闘を申し込みます。この家は間違っている。私は……この家のルールを書き換えたい。こんな家など存在しない方がよかった」
そう言った子供の目は、既に覚悟を決め、敵わないと知りながらも運命に刃向かう者の眼差しをしていた。召使はその子供に昔の自分を見た。
「……今の私は、あなたに勝てないでしょうけれど、それでも。私はあなたのルールに従えません、お父様」
「ああ。——許可しよう」
その勝敗はすぐに決まった。
もとより息切れしていた子供が召使の攻撃に持ちこたえられたのはほんの少しだけだった。その子供は右胸に召使の重い一撃を受け、地に倒れ伏した。
「私の勝ちだ。君には私に従ってもらう」
地に伏した子供を召使は見下ろす。慣れない憐憫と珍しい躊躇いを持って。
「だが、その前に……君に問いたいのだが。君の言う自由とは何だ?」
泥にまみれた子供は、今さら何を問うのだろうと言いたげにこちらに視線を動かしたが、それでも口を開いた。
「っ、自由、ですか……」
「君もよく理解していないか?」
「いえ……いえ、お父様。あなたにそう問われたのが意外だっただけです」
そうして子供は続けた。
「私が望んでいたのは……いつこの命が失われるのだろうと、怯えることのない暮らしです。
危険な任務が与えられず、命が失われる不安がなく、ファデュイとは無関係な生活です」
召使は泥水の映り込んだその子供の瞳を見た。その子供は、ある任務で親しい者を亡くしていた。
「それから……私の兄弟はかつてこう言っていました」子供はつぶやいた。
「自由に観劇に行きたい。自由に恋をして、愛する人たちと何の憂いもなく草むらの上で寝そべり、たわいもない話をしたい——けれどもお父様、それはこの家にいる限り永遠に叶うことのない望みです」
子供は声を震わせた。
「あなたたちからすれば……そういう望みは至極どうでもよいのかもしれません、お父様。
けれどもあなたたちファデュイの目指す理想は……私たちのような、ちっぽけな人間には遠すぎ、崇高すぎる。この身では、到底付き合うことができません。
ですから……あなたたちの理想の前にこの命が燃え尽きてしまうのならば、私たちはこの命を自分のために使いたいのです」
あなたには分からないでしょうが、と自嘲気味に子供は言った。
召使は頷いた。いわゆる一般的な感性からは、自分が遠く隔たってしまっていることはとうに自覚していた。元より薄々分かってはいた——ある一定の子供たちがいわゆる普通の生活に憧れるのはどうしようもない摂理であり、虫が光に引き寄せられるようなものなのだと。
召使は無言のまま立ち尽くした。ファデュイの理想と自分の命のどちらを優先させるかと言われれば、それは前者だった。けれども、もしファデュイの理想と子供たちの命のどちらを優先させるかと言われれば、それは。
召使はじっとその子供を見下ろし、手に取ったままの武器を握りしめた。それは命を刈り取る形をしていた。執行官としては前者だろう。けれども、お父様としては——
「……分かった。その回答を以て、君には」
この子供を物理的に殺す以外に、もう一つ取れる手段があった。それは光に憧れる子供たちの存在を把握したときから、血を流さずに彼らの望みを叶えてやれる手段を探していたときの産物だった。実証実験がまだ途中だったが、どのみちこの子供はもうこのまま生かしてはおけなかった。
「壁炉の家の極秘実験に参加してもらう」
子供はびくりと身を強張らせた。
「やはり、クリーヴの噂は本当だったのですね」
「クリーヴか」
召使は複雑な感情を以てその名を呼んだ。
「彼女は……私と同年代で、古い時代の壁炉の家に属していた子供だ。彼女の話は、私が引き継ぐ前の壁炉の家の話で、現在の家とは無関係の過去の話にすぎない。
その頃の壁炉の家は到底容認できないような非道な実験を行っていたが、今はそのような実験は行っていない。ただ一つを除いて」
「ただ一つ?」
「君が今から参加する実験——記憶に関する実験だ」
召使はとある瓶を取り出した。その透明な瓶の中には、赤い糸のような焔光が揺れている。
「この炎は私の身に宿る炎を剥ぎ取って保存したものだ。これを飲むと、全身に灼熱の痛みが広がり——君の壁炉の家に関する記憶だけが全て焼き尽くされる」
その子供は、信じられないことを聞いたかのようにこちらを凝視していた。
確かに信じられはしないだろう、と召使は子供の表情を見て思った。もし自分だったら、毒とでも言われた方が信じられる。
「……まあ、この話が本当かどうかは、君自身で確かめるといい。どのみち、君にはもう選択肢はないのだからね。
この焔を飲み、家の記憶を全て失って新しく生まれ直すか、ここで私の手で死ぬか。どちらかだ」
「それは……」
子供の声は裏返っていた。
「では、私を、許すというのですか? ……私が、皆を殺したも同然なのに?」
「ああ。だが、君も私の子供だ」
「…………」
子供は絶句し、その瞳に驚愕を隠さなかった。やがて子供は、逡巡するかのように頷いた。
「あなたのその言葉が本当かどうかは分かりません、召使様……けれども選択肢がないのであれば、私はその焔を飲みます」
焔を飲む直前、その子供は召使に向かって苦々しく微笑んだ。
「あなたは……私には、結局分かりませんでした。……厳しいのか、優しいのか」
その喉がごくりと動いた。毒杯を呷るかのように彼はその炎を飲み、再び大地に倒れ伏した。
最後に、彼はつぶやくように言った。
「どうして……もっと早く教えてくれなかったのですか? どうして、あの子のときも、」
間に合わなかった、とは言わなかった。
子供は既に意識を失ったようだった。
◯
召使は反乱の鎮圧のために夜明け近くまで後処理をして回った。
ある子供たちは、かつて仲間であった家の子供たちに命を取られるか、相打ちしていた。ある子供たちは追っ手から逃げ切り、それでも月光からは逃れられなかった。召使はその子供たち全員に同じ処置を施した——すなわち、双界の炎を飲ませた。
召使は残った子供たちに、この反乱で犠牲になった子供たちの亡骸を集めるよう指示した。遺体は後で壁炉の家の集合墓地に埋葬される。
召使は凍てつくような痺れと、それを嘲笑うかのように燃え上がる血潮を身の内に感じていた。その炎は指先から心臓までをも焦がそうとしていた。
自身の統治下で最悪の事態が起き、本来なら起きなかったはずの犠牲まで出した。
自分の指示一つ、判断一つで、先ほどまで生きていた子供たちが失われる感覚は、これまであまりに何回も彼女を通り過ぎていった。その感覚に彼女は慣れかけていたが、けれどもそのたびに走る苦痛が取れることはなかった。子供一人を失うたびに感じる痛みは、かつてクリーヴを殺したときに抱いたそれと酷似していた。
ほとんどの後処理が終わったとき、召使はふと足を止めた。
あのときクリーヴを失ったときに感じた喪失の痛みを二度と味わいたくないと思っていたのに、そのために壁炉の家を継いだのに、結局はこの身は前任と同じことをしている。
「……忠誠は全て報われ、すべての犠牲が価値を持つことになる」
震える声はその言葉を紡いだ。その声は随分と遠くから聞こえた。
ファデュイのメンバーはこの言葉を胸に刻む。それはファデュイに共有される信念であり、強固に受け継がれていく意志である。我々の犠牲は全て新世界の礎となり、同胞たちの革命を実現するための一助となるのだと。
けれども、それでも、失われた命はもう二度と戻らない。
◯
「あなたは……?」
煉獄の苦しみを抜けて生まれ変わり、目を開いて不思議そうにこちらを見るその子供に、召使は微笑んだ。初めて会ったときも、その子供はそのような無垢な表情をしていた。
「たまたま君を見つけただけの者だよ。こんなところで寝ていては身体に良くない。
——さあ、私のことは忘れるといい。君が望む人生を進むんだ」
空が白みかけている。
もうすぐ太陽が昇る。
『自由な家を作りたい。誰も犠牲になることのない、本当の家を作りたい』
自由。
その理念が、自分にはどうにも理解の及ばないものであると気づいたのはいつだっただろう。
情報収集のため、新聞を読み、噂話に耳を澄ませ、歌劇を見に行くことも習慣となった。物語や童話も手に取った——「道化」の話から、それらの一部にこの世界の真実に関する重要な情報が含まれることは把握していた。
お母様に検閲されていない物語に触れるのは、新鮮な経験だった。ある物語の中では、登場人物は自由のために命を捧げ、ある物語の中では、登場人物は自らが追い求める恋愛のために全てを捨てる。召使には大仰にも思えるそれらの話が、世間では大評判を博している。
人々は自由に羽ばたける翼に憧れ、自由を追い求める軌跡に共感する。それはかつてこの国に見捨てられた孤児たちも例外ではなく、むしろかつて孤児であり、今は壁炉の家に属しているからこそ、その思いは常人より強い。
執行官となり、この世界のあらゆる側面に触れて初めて、彼女は今まで生きてきた世界がいかに狭い価値観に閉じた世界であったかを認識した——生粋の闇に身を置いてきた彼女には分からなかった、闇を必要としない世界があり、そこに住まう人々は随分と多いのだということを。人は自由に焦がれるものであり、それは本質的にファデュイの、この家の性質とは相容れないものであると。
いや、そういう世界があることを、知ってはいたのだろう。……かつて隣にいた人はそんな人であったけれど、彼女のいた環境は決してその資質に見合ったものではなかったから。
召使はクリーヴのかつての言葉を思い返した。
『自由な家を作りたい。誰も犠牲になることのない、本当の家を作りたい』
クリーヴ、君が追い求める自由とは、一体何だったのだろう?
彼女の言う自由が、もう召使には分からなかった。
その理想に近づこうとすればするほど、その輪郭はぼやけ、召使からますます遠ざかった。
自由な家。今の召使には、それは遠いおとぎ話のように聞こえた。あるいは、ファデュイの掲げる最終目標と同じく、遠い段階にある純然たる理想のように聞こえた。
◯
空は随分と白み始めていた。
ブーフ・ド・エテの館の執務室に帰ったばかりの召使の前に、クリーヴは現れた。
「ペルヴィ!」
クリーヴはいつものように満面の笑みで彼女にとっての〝ペルヴィ〟を迎えたが、今の召使にはあまり表情を取り繕う余裕はなかった。
「クリーヴ、」彼女はそう呼びかけた。あまり声音を取り繕えていないことをそこで自覚した。随分と力のない、打ちのめされたような声だった。
「……クリーヴ、君の言う自由な家とは何なのだろう?」
「ええ? 唐突だね、ペルヴィ……えっと……」
幻影は考え込んだ。やがて、ぽつりと告げた。
「……私、自由に外に出たい。でも、安心して眠れる場所も欲しい。それが家だと思うの」
そこで彼女は微笑んだ。
「家は……お母様は怖いけど、ペルヴィ、あなたと眠る日々は安心できるよ」
この家は、自由に外に——出られるだろうか?
この家は、子供たちにとって——安心できるだろうか?
召使はもう、この家が壁炉の家である限り、その自由な家が成立しないことを知ってしまっている。
召使はクリーヴを眺めた。それは確かに、この目の前のクリーヴにとって一つの答えであるように思えた。けれども。自分が今どのような目で彼女を見ているのか、あまり確証が持てなかった。
あるいは、と思った。思ってしまったことが答えだった。それは召使が元より分かっており、今痛切に突きつけられたことだった。
——目の前の存在は、過去に閉じ込められたクリーヴの残影にすぎないのだと。
もしペルヴェーレと同じ時間を最後まで過ごした存在がここにいたら、彼女がこの場に生きて立っていたら、きっと別の答えを話しただろう。かつてクリーヴが、〝本当の家〟の実現を模索した果てに絶望を見出し、殺してほしいと願ったように。
この幻影は、自分の呪いが生み出したものにすぎない。
この幻影は、自分の未練が生み出したものにすぎない。
この幻影は、自分の迷いが生み出したものにすぎない。
「ペルヴィ、どうしたの? 泣いているの?」
「……泣いていない」
感情の発露は、召使が最も嫌うことだった。
目元を指で拭っても、自分が涙を流している形跡はなかった。
ただもうそれ以上、何も答えられず、何も考えられなかった。
とうに冷え切ったはずの心の奥底に、何か名状しがたい感情が渦巻いているのを感じた。
「ペルヴィ」
現実世界に触れられない幻影が、召使に抱きつく。
「大丈夫だよ」
そんなことはないはずなのに、幻影の体温に触れた気がした。
そんなことはないはずなのに、心臓の音が二つ聞こえた。
「あなたは、きっと——いい王になるよ」
朝の光が満ちる。
幻影が消えてゆく。
もういなくなったクリーヴを抱くような中途半端な体勢のまま、召使はゆっくりと思考した。
その言葉はもしかしたら、この身にかけられた呪いと似たようなものなのかもしれないと。
ペルヴェーレとクリーヴはずっと一緒にいた。
二人は元々仲が良かったし、お母様の裏の顔に気づいてからはさらに結束を強めた。始めの頃、その真実を共有しているのは二人だけだった。
あの楽園が楽園ではなく檻にすぎないと、多くの子供たちが気づいたのはいつだっただろう。
子供たちはみんな、優しいお母様が好きだった。好きだったからこそ信じようとした。それにみんな、心の奥底ではお母様に恐れを持っていた。決して敵うことはないという恐れを。
その感情が恐怖一色に塗りつぶされるのは、この優しいように思えたお母様が実はこちらのことを何とも思っていなくて、自身の計画の達成のためならば自分たちが傷つこうが死のうがどうなってもよいのだと、自分たちは実験のために使い捨てにされる駒にすぎないのだと、みんなが理解したころだっただろうか。
「こんな家は間違ってる。現状を変えなきゃ。みんなで力を合わせて、みんなで生き残るの」
最初に声を上げたのはクリーヴだった。
はじめ、お母様の話す幻想に浸っていた子供たちには見向きもされなかったが、次第に皆が命を落とす恐怖に駆り立てられるにつれ、その声の下に集う子供たちは増えていった。クリーヴには明らかに革命の才があった——その曇りなき理想は人の心を動かしたし、その血縁も影響しなかったとは言えない。
お母様の子供であるクリーヴが反旗を翻すのだから。
子供たちはそう信じ、クリーヴの元に集い、クリーヴの言うように決闘を引き分けにして時間を稼いだ。その試みは少しずつ成功した。子供たちの瞳に光が戻り、家に一筋の希望の光が差し込んだかのように思えた。
けれどもその反抗をお母様が見過ごすはずがなく、完膚なきまでに打ち破られるまでも早かった。この試みは最終的には失敗に終わった。子供たちの一部はお母様の制裁によって既に命を散らし、一部はクリーヴの旗の下に集うことをやめた。
子供たちは再び散り散りになり、家はかつての秩序を取り戻した。
ペルヴェーレはずっとその様子を見ていた。
クリーヴが立ち上がり、皆が影響され、家が変わろうとするまで、
クリーヴが度重なる処罰を受け、それでも立ち上がろうとしたときも、
やがて反抗が鎮圧され、ほとんどの賛同者が去るかいなくなるかしたときも、
クリーヴがやがて絶望して、その瞳に光が映らなくなるまで、
ペルヴェーレはずっと、クリーヴの傍にいた。
あの大規模な反乱が鎮圧された後、壁炉の家は再び秩序を取り戻したけれども、家に在籍する子供たちは往時よりも数を減らした。
あの反乱が収まった後、子供たちには裏切者は全員粛正されたと告げた。
子供たちはこれ以上反乱の影響が広がらないことを知って安心したようだったが、同時に裏切り者の末路への怯えも混じっていた。
召使はそれを黙殺した。それはこの家の秩序を維持するために必要なことだった。少なくとも今はまだ、あの手段を明らかにはできない。同時に召使は自嘲した。自分も結局前任と同じだった。家という機構を利用して、子供たちを恐怖によって縛りつけている。
召使は密かに、子供たちへの監視を強めた。けれどもそれは、過干渉や制限を意味するものではない。逆だ。
彼らが本当に望む道は何かを見定め、そのための策を打つべきだった、という悔恨からだ。
そして同時に召使は強く考えた、クリーヴの残影をもう消し去るべきだと。
過去の歪みが現在に良い影響は生まない。残影はどうしようもなく残影であり、悲哀から生じた過去にすぎない。過去の出来事を現在に持ち込むべきではないし、現在において過去を比較に出すべきでもない。
けれどもクリーヴの亡霊は、あれから召使の前に姿を現さなかった。召使は、自分が彼女に忌避されていることに気づいた。
彼女を殺そうとしていることを察知されたのか?
それとも。
召使には一つ思い出すことがあった。かつてのクリーヴは当初こそお母様の執務室で直接交渉しようとしていたが、お母様と分断を深めてからは、次第にお母様から隠れるように活動していたことを。
だから、彼女は、今。
「…………私を、お母様だと」
その日、召使は自室の鏡に映るものを見た。そこに映る女は、赤い唇に歪んだ弧を描いていた。その赤い弧の歪みには、確かに見覚えがあった。
上に立たなければ見えない世界があり、けれども上の視座だけでは全てを拾い上げられない。
執行官という立場に馴染み、するべき役責を把握し、任務を遂行するたびに、召使は自身が前任者の足跡を辿っていることをひしひしと感じ取った。壁炉の家は、より壮大な計画を企てている者からすれば所詮体のいい使い捨ての駒に過ぎず、そのとうの昔に固定された役割は、例え一執行官の権力をもってしても、たかが十年程度で変えられるものではなかった。
そして今、亡霊はその微妙な均衡の上に成り立つ秩序を脅かそうとしている。
かつて最も近くにいた者は、今や召使の最も遠くに遠ざかり、召使の秩序にとっての敵となった。けれども彼女の行動理念は、クリーヴがずっと昔からペルヴェーレに共有していたことでもあった。
だからこのことは、歳月が流れてもなお過去の中に留まっている者と、現在の流れの中に生き続けなければならない者の差を浮き彫りにしただけだ。
「……あるいは、君だったら、もっと良い答えを出せたのだろうか、クリーヴ」
死者は何も答えない。ただ風だけが、その頬を撫でる。
その日、召使は密かに確信した。亡霊はもう、自分の前に姿を現さないだろうと。
それは予感にすぎなかったが、紛れもない真実のようにこの胸に浸透し、さざ波のように波紋を立てた。
そして確かにそれ以降、クリーヴはもう二度と召使の前に姿を現さなかった。
[newpage]
ある日、女皇陛下から執行官全員にとある命令が下された。
それはスネージナヤの計画がその段階まで進んだことを意味していた。
「七神——俗世の七執政から、神の心を奪取せよ」
執行官が集められた場で、淑女はその命令を反唱した。その眼差しには、壮絶な憎悪が宿っていた。
「風の神の心は、私が奪取する。それ以外も、もちろん。
——女皇陛下、私が誰よりも多くの神の心を回収してみせますわ」
それは鮮烈な宣言だった。まるで氷に封じ込められているはずの烈炎が、漏れ出ているように感じられた。
その気迫に召使は内心瞠目した。召使もファデュイの理想を追う者として、神々の統治にさほどいい感情を抱いているわけではなかったが、古くからいる執行官たちの神々への憎悪、そして旧秩序への転覆の意志は、しばしば驚くほどに強固なものだった。
◯
「私はモンドに情報を集めに行くわ。もちろんあんたにも協力してもらう」
淑女は早々こちらに声をかけてきたので、召使は頷いた。
「ああ、もちろん。これは我々執行官の責務であるし、情報は壁炉の家の職分なのだから」
けれども、ターゲットは七神。召使は俗世の七執政の情報を思い起こした。
炎神に雷神、それから水神は国を統治しているから、表舞台によく現れる。交渉はさておき、接触するのはさほど難しくはないだろう。特に水神はよくフォンテーヌの表舞台に出るから、召使も遠くから見たことがあった。
草神も国の中央に鎮座しているはずだが、スメールではあの神の存在感は薄い。
岩神は確か、年に一度の迎仙儀式で託宣を下す。だから接触を狙うならそのときだろうが、次の迎仙儀式までにはまだ月日の余裕があるはずだ。
それから——
「けれども淑女、風神はあの漆黒の災い以降、表舞台に姿を現したことがないと聞く」
風神。風元素を司る、自由の国・モンドの神。魔神戦争の時代から代替わりなく在り続ける、最古の七神の一柱。そういったごく一般的な情報の他は、その神に関する情報は古い時代の詩歌や物語ばかりで、最近の動向は聞かない。あの神に関する情報は、ほぼ途絶えて久しい。そもそもかの神は現存しているのだろうか?
「……ええ、あの神は己の役割を放棄し、国の統治を諦め、どんな災いが起ころうとも最後まで姿を見せないの」
その口調には尋常ならざる感情が乗っていた。
召使はその様子を見て考えた。むしろ詳しそうなのは目の前の淑女だった。
「淑女、君が知っている情報をまず共有してもらえるだろうか? かの神に関しては、私より君の方が詳しそうだ。
君は確か——モンド出身だろう?」
淑女はじっとこちらを見た。
「……いいわよ」
でも、私が知っていることも、あんたとさほど変わらないと思うけど。
淑女はそう押し殺したような声で言った。
◯
氷風を見に行きましょう。淑女はそう言った。
「他の執行官たちの動向だが、隊長は縁深いナタに行くと聞いた。あそこは特殊な土地だから、土地勘のある彼が適任だろう。それから、雄鶏と富者は公子を璃月にやるそうだ」
「ふうん。あの戦闘狂が、こっちに迷惑かけなきゃいいんだけど」
淑女は肩を竦めた。首尾良く風の神の心を奪った後、淑女が璃月へと南下するつもりらしいことは聞き及んでいた。
「雄鶏と富者は……動かないのね。まあ、分かりきっていたことだわ、それ向きじゃないものね。政略で忙しくて引きこもってばかりの方々だもの、国の外に出るわけがない。
他は……傀儡も動かないでしょうし、少女は考えても仕方ないわね。博士のことも考えても仕方ないけど、あの男はスメール出身だったはず。■■は■■■■■、■■■■■■■■■■■■■、■■■■■■■■■■■■■■■■。■■■■■■■■■■■■■■■」
「ああ、そうだろうね」
我が強く、組織に属する目的も思想も各々で異なるため、執行官たちの仲は決して良くはない。執行官同士が統率を取って行動することがあまりないのはそういった理由もあるし、そもそも執行官の座に就いた時点で、その者は大抵の相手には単独で渡り合える力を有しているということもある。なおかつ大勢の配下を率いることが許されるという実際的な理由もあり、協力を必要とするほどの事態はそもそも滅多に起きない。
けれども淑女と召使が一緒にお茶や酒を飲むのは珍しいことではなかった。
とはいえ召使はあまり酒は好きではなかった。酒の酩酊は危機感を鈍らせ、判断能力を鈍らせるからだ。だが淑女に付き合うことはしばしばで、実際初めて酒を飲んだのは、淑女に誘われてだった。
『炎水? そもそも酒を飲んだことはない』
『ああ、そうよね。まだ子供だものね』
『は?』
『あら、何も間違っていないでしょ? 私からすれば、あんたなんか赤子と大して変わらないわ』
『……席次は私の方が上だ』
『あら、そんなの、この世を見てきた年数に何の関係があるの?』
その頃には彼女が見た目にかかわりなくかなり長く生きていることを知っていたので、召使はその線で反論するのを諦めた。
『……酒を飲む必要はあるのか?』
『そうねえ。この先全く飲まないって言うなら話は別だけど』
淑女は肩を竦め、もっともらしい理由を上げた。
『まだ知らないなら、酒の味と感覚は覚えておいた方がいいわ。この先いつどんな機会があるかも分からないでしょ? そのとき下手に酔っ払って私に迷惑はかけないで』
召使はしぶしぶ頷き、その夜は酒を共にしたが、初めて飲むそれは決しておいしいとは思えなかった。酒は燃えるように熱く、独特の苦みがあり、必要さえなければ決して飲みたくないものだった。
召使は、飲むならお茶の方が良いという認識を新たにした。お茶は味の邪魔をしないし、思考を明瞭にしてくれる。
この夜もそうだった。
訪れたそこは遙か昔に遺棄された大聖堂で、今では淑女の持ち物だった。
そこはかつては栄華を誇ったのだろうが、今では色褪せた色彩がその栄華を遺すだけだった。風雪を防げる程度には崩れてはいなかったが、中がそれほど綺麗とは言えなかった。
ただ崩壊の年月だけが積もっている。
窓の外ではただ強い雪交じりの風が吹いていた。ときたま、ひときわ激しい突風が吹き、大聖堂の窓全体が激しく震えた。
「淑女、何故こんな場所に?」
召使は問うた。その声は大聖堂内によく響いた。
「ここが最も強く氷風が吹くから」
返ってきたのは、そんな返答だった。
「この近くで、最も氷風が強いのはこの土地なの」
その大聖堂にはまあまあの量の酒が配備されていた。異国のお酒も混じっていたが、その中から召使は炎水の瓶を淡々と手にした。正直付き合いでもなければ飲まないものではあったが、他国の酒よりはその味ともたらされる酩酊には大分慣れていた。
炎水。淑女だけではなく、スネージナヤにいる者はそのお酒を好んだ。召使はというと、喉に通すだけで燃えるように身が熱くなるそのお酒はさほど好きではなかった。
『そう? この程度の熱じゃこの氷は溶けない。だからこそ、安心して飲んでいられるの』
淑女はかつてそう言った。彼女が身の内の炎を女皇陛下の恩賜で制御していることは聞かされていた。
その人は今、古い様式の椅子に座り、円形のテーブルに肘をつき、窓の外を無言で見つめている。まるで心ここにあらずだった。
「この氷風に思い入れが?」
淑女のテーブルの元に酒瓶とグラスを持って行けば、淑女は無言でそれを受け取り、頷いた。
「思い入れってわけじゃないわよ。でも、たまにここには来るの」
そうして炎水を口に含む。
「……どうしても昔が懐かしくなることがある。どうしても記憶が溢れてやまない夜があるの。
そういうときはここに来るようにしているの、あのときの憎しみを逃さないために」
その声に、先ほども見た壮絶な感情が乗った。けれどもそれは憎悪だけではなかった。
召使は頷いた。
「憎しみ、というのは?」
淑女は炎水を呷った。
しばらく氷風の唸り声だけが響いた。
「……別にあの神と直接関わりがあったわけじゃないの。
ただ私は、かつてあの災厄に立ち会った……あの神が最後に降臨した、あの五百年前の漆黒の災厄にね」
窓の外では、雪が風と共に激しく踊っている。
淑女は内省するかのように、視線を落とした。
「……昔、私がまだ普通の人間だった頃、私はモンドで歌う吟遊詩人の一人だった。
五百年前のあのとき、私はこの炎の研究のためにスメールの教令院に留学していた。でもその間に……故郷は漆黒の災厄に襲われた」
その災厄のことは召使も知っていた。
五百年前、テイワット全土に漆黒の魔獣の群れが侵攻し、七国は甚大な被害を受けた。
〝神のいない国〟カーンルイア王国はそのとき滅んだ。
そして、女皇陛下と最初の執行官である道化は、その災厄の後に活動を開始し——現在スネージナヤで動いている計画の全てが、そこから始まった。
「あのとき、たくさんの人が死んだの」
彼女はしばらく間を置いて、またぽつりと言った。
「かつて私が愛していた人たちは、そのとき全員いなくなった。
……私にも昔は、愛した人がいたの。けれども彼は、故郷を守るためにあの災厄で命を落とした」
淑女は言葉を落とした。
「彼の遺体は結局見つからなかった。
そして、あの五百年前の災厄のとき、風は……風神は——」
言葉に怨念がこもった。
「風神は確かに終局に現れたわ。けれどもあの神は遅すぎた。あの神はモンドを守り切れなかった。眷属の力で、魔龍を落とすのが精一杯だったの。……あの神は地上に犠牲を出しすぎた。あの神の力は——風と自由の力は、モンドを災厄から守るには足りなかった」
グラスに入っていた氷にひびが入り、割れ、溶け、火のような酒と混じる。
「私は災厄が終わった後に故郷に戻った。故郷の惨状を目の当たりにして、しばらく人を探して、……誰一人見つからなくて、絶望して、もうすっかり変わってしまった故郷に立ち尽くした……そのあと決めたの、地表に現れた魔物を全て燃やし尽くすって。……随分たくさん燃やし尽くしたわ。燃やして、燃やして、燃やし尽くして……この炎が消えそうになったときに道化と出会ったの」
淑女はそこで言葉を切った。
「そうして、女皇陛下の恩賜を授かり、陛下に忠誠を誓った。
陛下は私の炎を堅氷で封じてくださった。
陛下は理想の世界の実現を約束してくださった。
——これが私の始まりで、私が知っている風神の話。それだけよ」
召使はただ黙って、その思いがけない告白を聞いていた。淑女の過去の話を彼女の口から聞いたのは初めてだった。
「……それは……」
「何も言わなくていい。あのときこんな悲劇は山ほど起こっていた。
……でも、私の人生も、みんなの人生も、随分と変わったの」
淑女はまた炎水を呷った。
「神々はいつでもそう。神々は地上を見ない。神々は俗世の全てを知らない。知らなくても構わないと思っている。あの天上の神々は、この地上に流れる怨嗟を理解しない」
その声は、窓の外で吹き荒れる氷風のように強く、鋭く突きつけられた。
そこからしばらく沈黙が続いた。お互い、無言で酒を飲み進めた。氷風がうなる音だけが、窓の振動を通して鮮明に聞こえた。
夜は随分と更けているはずだった。この氷風の向こうには、きっと濃紺の空と星々が広がっているだろう。
神々。
自由。
(私は——)
召使がつい内心の思考にふけっているあいだに、予想もしていなかった綺麗な歌声が聞こえた。
召使は目線を上げた。淑女は立ち上がって窓の外をじっと見ていた。その淑女の唇が動いていた——淑女が歌っているようだった。彼女が歌うところを、召使は初めて見た。
その歌声は随分と痛切で美しく、召使は目を見開いて聞き入った。
〝しかしどんな風も あなたの眼差しをもたらしてはくれない〟
けれどもその歌声は途中で掠れ、中途半端に断ち切られた。
「…………、」
淑女は誰かの名前を呼んだ。はっきりとは聞き取れなかったが、それが彼女の言った〝愛する人〟であろうことは推し量れた。
召使はつい歌劇場の癖で拍手をしようとして、やめた。この場にはふさわしくなかった。代わりに淑女に静かに声をかけた。
「君も、よく歌うのか?」
淑女はこちらを目線だけで見た。その表情はここからは伺い知れなかった。
「……言ったでしょう、私は元々吟遊詩人だったって」
淑女は少し沈黙した後、そう言った。
「かつて私は、今のモンドの人たちと同じだった。風と共に育ち、風と共に歌い、風に想いを乗せた。
……かつて、私は自由を愛していたし、自由の都モンドを愛していた。あのころ、風は私たちの根幹であり、それは自由も同じだった。——でも、あの日、全てが変わった」
淑女はそこで息を吸った。
「私はあの災厄の後に気づいたの。風は救いをもたらしてはくれない。風は愛する人たちの声を、もうもたらしてはくれない。風は——故郷を、愛した人を、守ってはくれなかった。私たちの信仰は、私たちを守るものではなかった。私たちの神は、私たちを危機から守ってくれるほど強くなかった」
淑女は低い声でそう言い、視線を窓の外に向けた。
「だから私は、風神のことは大嫌い。絶対に居場所を突き止め、神の心を奪い……あんな神は信じるには値しないって、あの神の権威を踏みつけてやるの」
ひときわ激しい氷風が、呼応するかのように激しく窓の外で舞い、窓を叩いた。その氷風は、まるで燃えさかる炎のようにも見えた。炎——それは、淑女と召使のどちらにとっても、最も身に馴染んだ形だった。
「だからここに来ると再認識できる。風の〝自由〟はただの空理にすぎない。〝自由〟では革命など成し遂げられない。女皇陛下は——女皇陛下こそ、必ず理想を実現してくれる」
◯
後になって、召使はこの夜の淑女のことをよく思い返した。
神々は世の全てを救ってくれるわけではなく、地上に悲劇はありふれている。
天上の秩序によって、人の運命は既に決められている。
それでも。人々はその運命に抗う。
スネージナヤは、その秩序に抗う。
元々、自由の国には個人的な興味があった。
その昔、モンドの壁炉の家を訪れたときにたまたま手に取った書籍には、このようなことが書かれていた。——モンド建国の際、風神はこのように言ったという。
『君たちが、王のいない自由な城を作ればいい』
そのとき召使は、口元が曲がるのを抑えきれなかった。
召使にとっては、その言葉はあまりにも皮肉だった。
「……ご立派なお言葉だ」
確かにクリーヴがいたら、この国の思想に憧れたかもしれない。
一方召使は思っていた、自由と秩序の舵取りは、実際はあまりうまくいかないことの方が多いと。
けれども風の国が無法地帯というわけではない。
モンドには騎士団があり、教会もいる。そこには秩序と規則があり、人々がそれを破ればもちろん罰を受ける。モンドの人々は秩序を守りながら、自由を謳歌している。神の不在の下、国の理念である〝自由〟を実践しながら、協調し合って暮らしている。
この国をクリーヴが目にしたら、何を言っただろうと召使はよく考えた。
彼女が目指したのはこんな国だったのかもしれない。自由でありながら、安心して眠ることのできる家。
それでもこの国は、何度も危機を経験してきている。ひとたび災厄が起これば、この人間の国はその脆弱さを露呈させる。それは歴史が、淑女が身を以て証明していることだ。
けれども何度危機に見舞われても、この国が自由を手放したことはなかった。自由のために人々は歌い、戦う。それはモンド建国の頃から人々に刻まれた精神であった。
召使にとって印象深かった逸話は、まだ風神が誕生する前の魔神戦争時代の話だった。
この国はその昔、魔神の秩序に抗い、神を打ち倒し、神の統治の転覆を実現させたという。
召使はその物語に関する本を複数読み、吟遊詩人の語りを聞いた。
召使はその物語を、各地の壁炉の家の本棚に入れておこうと考えて何冊か購入した。
風神の理念と統治の在り方は、召使の目からすればあまりにも無責任で放任主義すぎたが、人々の自由への信念と、古から脈々と続く抗争の歴史は興味深いものだった。
神々に全てを期待するべきではない。
だからこそ我々は、己の手で理想を追求し、運命を掴み取る必要があるのだと。
◯
モンドにも壁炉の家はある。
召使は神の心の奪取に向けた情報収集のため、その家に立ち寄った。淑女も一緒だった。
淑女はまた子供たちにプレゼントを持ってきてくれていた。子供たちは笑顔を見せ、お礼を言う。壁炉の横で包装を空けて歓声を上げる者もいる。
子供の波が落ち着いてから、淑女はこちらに声をかけた。
「で、あんたには例の件で話があるの」
「ああ。一緒にお茶でもどうかな?」
淑女は肩を竦めた。
「あんたたちって、本当にお茶会が好きね。——案内して」
壁炉の家はモンドに追加人員を手配し、淑女の部隊とともに現地の動向や風の神について情報収集をした。そうするうちに、興味深いことが分かった。
「風神の居場所は未だに知れないが、他の情報はいくつか集まった。
モンドでは今龍災が起きていて、騎士団はその対処に追われている。君も知っているだろう?
その龍の情報を集めたんだが……あれはどうも、モンドのかつての四風守護、トワリンのようだ」
「……!」
淑女は息を飲んだ。その龍は、かつて漆黒の災厄で魔龍を倒した風神の眷属だった。
「今になってかの龍が目覚めた理由は分からないが、あの龍の暴走には裏でアビス教団が絡んでいるようだ。モンドのかつての四風守護を操り、兵器として使おうとね」
アビス教団。深淵の力を手にして、天理に呪われたカーンルイア人の末裔。起源からすれば召使に近しい存在だったが、今まで関わりを持ったことはほとんどない。
「アビス教団ねえ。以前もその名前はモンドで聞いた。なんだか……モンドへの執着を感じる」
淑女はそうつぶやいた。
「アビスどもも風神とは浅からぬ縁があるみたい。あの神って、恨みをどこまで買っているのかしら」
「風神は、この危機に動くだろうか?」
淑女は虚空を睨みつけた。
「……あの神は、大きな災厄が起きれば、さすがに自国に介入するの。あの五百年前の災厄でも風神は終局に姿を現したし、千年前にあった貴族の圧政時代のときもそう。
ましてやトワリンはあの神の眷属だもの、放っておくわけがないわ」
そこで淑女は皮肉げに唇を曲げた。
「でもきっと、完全なる災厄の防止には間に合わない。だからモンドはこの災厄で大きな被害を出すんじゃないかしら。仕方のないことね、それが風神の掲げる自由の代償で——その代償は、風の民の血によって支払われるの」
その声は低く、怨嗟を帯びていた。
「……風神はきっと龍の暴走をどうにかして止めるでしょうね。
だから私たちは、そのときせかせかと動き回るやつらの尻尾を掴まえてやればいいわ。そのための準備をしておきましょう。怪しい動きをしている人物の情報を集め、監視して、風の動きを止める算段をつける。
そして、この龍災が終わり、全てが解決したと皆が油断している瞬間に——風の尻尾を掴み、その神の心を奪うの」
それからしばらく経って、淑女はある情報を持って連絡してきた。
「怪しい吟遊詩人が現れたの。彼はモンドで一番歌がうまいって評判で、どこからか風のようにやってきたんですって。それに——度々あの龍と接触しているみたい」
淑女は溜息をついた。
「あれが風神の可能性は高そう。……はあ、あんなのが風の神だなんて」
淑女はそう嘆いてみせたが、その言葉には喜悦が乗っていた。
風神は確かに実在した。風神は予想通り、この危機に現れた。
淑女の話によると、それは少年の形をし、吟遊詩人として活動しているという。どうも人間に擬態しており、神として表立っては活動せず、裏から龍の暴走を止めようと駆け回っているという。
しかし諜報を続けるにつれて、風はそれほど単純ではないかもしれないと召使は考え始めていた。かの神には、どうもこちらの動向をある程度把握しているような気配があった。風はどこにでも偏在するからこそ、風の神はそのような能力も持つのかもしれない。
「淑女、用心するといい。あの神はどうも、こちらの動向をある程度掴んでいるような気がする。風が何をどこまで聞いているか、分からないからね」
「ええ、もちろん」
◯
果たしてあれが神だろうかといえば、フォンテーヌの水神もそうだった。
あの水神様は召使が知っている神の在り方とは似ても似つかなかった——他の神を知っている者の目からすれば、彼女の振る舞いは神性からは遠いものであり、どちらかといえば彼女は神を演じているように思えた。それとも、女皇陛下が例外的な存在なのだろうか?
そして、フォンテーヌで不穏な予言が囁かれ始めている——人々は水の中に溶け、水神は自らの神座で涙を流すと。
水の神は、いつでも射程圏内にいる。いざとなれば、直接神の心を奪うことは可能そうだった——本当に彼女が神の心を持っているのならば。
実力行使で確かめる方が早そうではあったが、実行は時期尚早だった。情報は集まりきっておらず、まだこちらから表立って行動を起こすべきではなかった。
淑女はその計画通り、大願を果たした。
風の神の心を奪取し、岩の神とも契約を行った。
最も早く神の心を、しかも二つも手に入れた執行官の功績を祝して、盛大な祝賀会が開かれた。召使は淑女とそこで再会し、そしてそれが彼女と直接会った最後の機会となった。
「次は稲妻に行くんだろう? 何かあったら壁炉の家に来てくれ。君の活躍を祈るよ」
淑女は手を振り、稲妻へと旅立ち——そしてそのまま戻らなかった。異邦の旅人に負け、稲妻の神に御前試合で殺されたのだという。
その知らせを聞いたとき、召使はしばし硬直した。ファトゥスが危地に赴くのはよくあることだというのに、淑女の死の可能性をそれほど考えたことがなかったことに、そのとき気づいた。彼女が死ぬことはないと、暗に思い込んでいたのかもしれない。実際彼女は死にそうにない人だった。
けれども世界とはそういうものであるということも、召使は身を以て知っていた。一人一人の命は、いつなんどき運命の気まぐれで失われてもおかしくない。そして女皇陛下の崇高な理想に付き従う者として、ファトゥスにとって死期は自分で決められるものではない。
召使は改めて、自分に迫った影を見た。あの監獄で極限まで近寄り、そしてもう随分遠くへと遠ざかった自身の死の影を。この身を燃やし尽くそうとする呪いを。
ただ目の前に鎮座する、純白の棺だけが淑女の死の事実を物語っている。
棺に寄り添う少女の歌声が会堂に響く。その歌声は美しく、人を引きつける魅力に溢れていたが、召使はあの夜に歌っていた淑女を思い出した。あの切なく、痛切な歌声と、そこに秘められた慟哭を。
淑女は雷神の一太刀によってあっけなく死んだと聞く。
稲妻は彼女に何の縁もゆかりもない土地だったはずだ。
彼女が死んで初めて、召使はまざまざと思い知らされた、彼女は同じ立場の執行官であり、心を許せる数少ない同僚であり、似たような炎を体内に抱えた同志であり、子供たちの恩人でもあり、召使の恩人でもあったのだと。
その棺が氷に覆われていくのを、召使は強い哀悼を持って見つめていた。
――ファデュイは、夜明けを迎えるために蒼白の星に向かって歩む。
――いずれ犠牲は全て報われ、新世界が創造される。
けれどももう、故人が現世に戻ってくることはない。
(…………来世で)
けれどもペルヴェーレは、その存在を信じている。
来世で、彼女が恋人と再会し、あの生前の後悔を晴らしていてくれたらと。
そう願わずにはいられない。
クリーヴは元々、明るく情熱的な子供だった。
何が起ころうとも、クリーヴはずっとペルヴェーレの前では明るく気丈に振る舞い、未来への希望を語ることをやめなかった。
けれどもその希望がひとたび燃え尽きてしまえば、そこからもう彼女は崩れてしまった。彼女の中に燃えさかっていた明るい焔は徐々に勢いがなくなり、やがて黒い燃えさしのみが残された。
あれは月が恐ろしいほどに綺麗な夜だった。
クリーヴはもう、外に出ようとする勇気も、お母様に逆らおうとする意欲もなくしていた。できたのはただ窓を開き、空に浮かぶ月を眺めるだけだった。その月が救いをもたらしてはくれないことも、もう二人は知っていた。
この家に残った子供達はもう随分と少なくなり、次の展開も簡単に読めた。
——次はきっと、クリーヴとペルヴェーレが刃を交えることになる。
「もう、私に選択肢はないと思う」
彼女はぽつりとそう言った。
「十六年間、私はずっと自由を追い求めてきた。でも今になって気づいたの。私に与えられた唯一の自由は、自由に死を選ぶ権利だったってことに」
クリーヴはペルヴェーレの顔を見た。お互いがこの先起こることを分かり合っていた。クリーヴは微笑んだ。疲弊し、疲れ切った笑みだった。
「お母様はただ一人だけを王に選ぶわ。一番最後まで立っていた者だけが生き残る。
……私には、一番最後に生き残るだけの戦闘技術はない。それに——」
クリーヴはペルヴェーレの手を掴んだ。その手は祈るように、きつく握りしめられた。
「誰か一人しか勝ち残れないなら、私はあなたに勝ち残ってほしい、ペルヴィ」
ペルヴェーレは無言できつく眉を寄せた。ここで発すべき適切な言葉は見つからなかった。
このままであれば未来は確かにそうなるだろうが、そうなることをまだ受け入れたくなかった。
クリーヴはそんなペルヴェーレを見て、ふふ、と笑いこぼれた。そして、吹っ切れたかのような満面の笑顔を見せた。
「私、死ぬんだったら……あなたに殺されたいな、ペルヴェーレ」
その笑顔は、ずっとペルヴェーレの脳裏に焼きついている。
◯
剣からぽたり、ぽたりと血が垂れ落ちる。
最後にペルヴェーレを抱きしめるかのように動いた、その身体はもう動かない。
致命傷を与えないように躊躇っていたペルヴェーレの刃に、最後に飛び込んだのはクリーヴだった。
「ペルヴェーレ、お前の勝ちだ」
物言わなくなった骸を抱き抱えるペルヴェーレに、お母様はそう言った。ペルヴェーレはただ彼女を見返した。黒く濁った、名状しがたい感情が体中を駆け巡るのを感じた。
その瞳に何が映ったのかは知らないが、お母様はその唇をさらに吊り上げた。
そのとき彼女は、途方もなく強い苛立ちを自覚した。
死の運命から逃れることができた安堵でもなく、勝ち上がった喜びでもなく、途方もなく暗い激情が、自身の奥底から湧き上がってくるのを感じた。
そして、どこかでそのことに驚いた。それは分かっていたはずの結末だったのにと。
かつてペルヴェーレは未来を見通すことのできる人間だった。そして未来は確かにそのようになったのに、それを覆せなかったことに、クリーヴを殺すことになったことに自分はとてつもなく苛立っている。
こんなにも暗い激情は知らなかった。こんなに世界が陰ることも知らなかった。
どうしてもっと早く、この激情に気づけなかったのだろう。
気づいていれば、何か未来は変わっただろうか?
それは深い悔恨になった。
その人の喪失は重かった。
クリーヴがいなくなった後、ペルヴェーレは一人きりで日々を過ごした。例え晴天であろうとも、太陽が落ちきったかのように世界は陰り、視界に灰のような黒いものが舞った。世界全てが敵のように思えた——それは実際、当時のペルヴェーレが置かれた環境からすれば間違いではなかった。
こんなにも世界が変わると知っていれば。知っていれば、未来は何か変わっただろうか?
その思考が絶えることはなく、やがてペルヴェーレは新たな課題を認識した。
苛立ち。憤怒。感傷。憎悪。嫌悪。
あらゆる感情の根源を切り分け、明らかにし、制御すること。
戦闘技術を磨くことが一つ目の鍛錬であるならば、それは彼女にとって二つ目の鍛錬でもあった。
どうしてこのように自分は感じるのか、どうしてこのように自分の心が動かされるのか。まず自分自身を理解しないことには、世界を制御することなどできない。この運命を乗り越えることなどできない。
感情を遡り、その根源を把握することは、次第に得意になっていった。
泣くことは嫌いだ。それは感情の発露にすぎず、何の解決ももたらさない。
憤怒も避けるべきだ。かつて怒りにより前が見えなくなり、敵に隙を与えた。
苛立ちも激高も、高揚も同様。
自身の感情とその根源を把握しておけば、何故自分がそのような行動を取りたいのかが分かり、本当に成し遂げたいことを遂行するために今果たすべきことが分かる。そうなれば道はより明確になる。
感情に囚われ、目的を遂行できる機会を逃すべきではない。
自身の奥底から生まれる感情とその根源を隅から隅まで把握してしまえば、ペルヴェーレは随分と迷うことが減った。すべての動機と目的は明らかになり、見える世界の解像度は上がった。人の心を覗くことも、手に取るようにできるようになった。
とりわけ執行官になってからは、他人の感情をうまく操るのと同時に、自分の内心にも敏感であり続ける必要があった。〝お父様〟は自らを律さなければならず、その行動には相応に芯の通った理由が求められる。そしてまたあるときは、人を動かすために、真実を覆い隠すために嘘をつく必要がある。
けれども感情を自覚することで、分かってしまうこともある。例えば。
ペルヴェーレはずっと、クリーヴの語る未来を一緒に見たいと思っていた。
ペルヴェーレはずっと、クリーヴの傍にいたいと思っていた。
……だから自身の感情の根源が分からないことは、人によっては幸運なことなのかもしれない。自分の中の真実を突きつけられずにすむわけだから。
召使は同時に知っている。
感情こそが、最も強い原動力となる意志を生み出すことを。
強い意志こそが、世界を変えるほどの力を呼び覚ますことを。
だからこそ今は、崇高な理想を掲げる女皇陛下に付き従っている。
女皇陛下の意志は、氷のように堅い——いつかその氷雪が溶ける日は来るのだろうか?
[newpage]
予言は必ず訪れる。
そう囁かれていた通り、確かにフォンテーヌは一度水に沈んだ。
しかし、人々は水に溶けなかった。
予言は確かに履行された——人々は確かに水の底に沈み、けれども水に溶けはしなかった。
「……なるほど」
召使は全ての顛末を後から把握し、そして発した。かつて皮肉と挑発で発した言葉を。
「……さすが、水の神だ」
水の神の心は、最終的にはフォンテーヌからの外交的贈与として召使の手に渡った。
神の心を最高審判官が持っていると知ったときは、何かしら別の手段を取らなければならないかと思っていたのだが、彼は意外にもすんなりと態度を変えた。情報を総合すれば、彼はある外の者からの忠告を受けて神の心をこちらに渡したらしい。それこそが公子の師匠であり、壁炉の家の力をもってしても、かの人物の足取りは全く掴めなかった。
水の神の心が召使に譲渡された後、召使はそれを女皇陛下に献上するために一度スネージナヤに戻った。
そこで雄鶏と富者から言い渡されたのは、かなり厄介な計画に加われという話だった。壮大な計画のための捨て石となれと、雄鶏殿は暗に仰った。
確かにスネージナヤによる世界の変革は、もう間近に迫っている。神の心は既に五つ集まり、蒼星の計画は最終段階を迎えている。……けれどもその過程で派閥争いが起こるのは、どんな世界であろうと変わらないらしい。召使は皮肉と苛立ち交じりにそう思った。
◯
その計画の噂は既に、フォンテーヌ駐在のファデュイ内にも広まっていた。
召使は早々に、子供たちにも告げた。
「……という計画だが、もう少し穏当なものには修正されるだろう。やれやれ、あの方々にはもう少しこちらの負担を考えていただきたいものだ」
ファデュイの思想に染まった子供たちは目を輝かせたが、少しでも他の考えを持ち、世俗に近しい子供たちは顔を曇らせ、この計画に加入させられることを恐れた。それはそうだろう。雄鶏殿が示したのは、明らかにこちらの勢力を削ぐことを視野に入れた無慈悲な計画だった。それはお母様のかつてのやり方をも彷彿とさせるもので、すなわち召使の逆鱗でもあった。
けれども召使は、家に憶測と恐怖がはびこっていく様子を観察していた。
家への不満、自身への不満が溜まっていく様子を見ていた。
元々考えていたことがある。
新世界が訪れる前に、その覚悟のない子供たちを全員〝殺す〟ことを。
新世界が訪れる前に、自らの心残りを清算することを。
予言が履行され、フォンテーヌ人である子供たちが水に溶ける心配がなくなり、召使が執行官としてフォンテーヌにいる理由がほぼなくなった今こそ、その計画を実行すべきときだった。冬国本土の計画はその良い引き金となった。召使は計画を動かすことを決めた。
次は同じ轍を踏まない。
裏切りは、惨事を引き起こす前に処理される。
◯
予言による災厄で協力関係になったこともあり、ポワソン町の会長と取引をするのは簡単だった。子供たちを一時的に受け入れてほしいと依頼すると、彼女は快く受け入れた。
「壁炉の家の拠点を一時的に別の場所に移そうと思う」
子供たちにはそのように説明した。
「私は今、とある子供を探している。君たちもこんな噂を聞いたことがあるかな? ——壁炉の家に、存在しない子供が一人いると」
そう告げた際の子供たちの表情だけで、ある程度のことは分かる。統治者とはそういうものだ。
「お父様、その子を見つけたら、どうするのですか?」
そう発言したのはフレミネだった。
「元より家に存在しないはずの子供だ。見つけたら、うまく〝処分〟すればいい。
もし君たちに心当たりがあれば、私まで伝えるように」
こういった言動が子供たちにあらぬ憶測をさせることは知っていたが、召使はその誤解を放置した。実際〝処分〟することに変わりはなく、真実は隠しておいた方が都合の良いこともある。
「ああ、それから、しばらくは他に何にも任務はない。例の計画は、まだ動いていないからね。
君たちは例の予言のために、そして神の心の入手のためによく働いてくれた。しばらくは羽を伸ばしてもよいだろう。ただしポワソン町の方々に迷惑をかけず、礼儀正しく接するように。
——リネ、移動と現地での指揮は任せた」
「はい、お父様」
こういった集団の統率において最も頼りになる子供の名を呼べば、リネは一礼した。
子供たちは続々と移動していった。この先しばらく親と一緒の生活ではなくなり、子供たちは羽を伸ばせるだろうが、その中には監視の目が潜んでいる。
わざわざ全員を移動させた理由は二つあった。一つ目は、〝殺す〟べき——光に憧れる子供たちを油断させ、対象者を全員洗い出し、選別するため。
二つ目は、この空っぽになった家でクリーヴを捕まえ、子供たちのいないところで清算したかったためだ。
だが、二つ目の方はうまくいかなかった。
召使はその夜、家の中をくまなく探し回ったが、彼女は見つからなかった。
やはり避けられているのだろうかと考え、ふと思い返す。
壁炉の家はかつてクリーヴたちがいた家から場所を変えたが、彼女はその引っ越しに必ずついてきた。
(……子供たちがいる場所を、家だと思っている?)
その線でポワソン町にいる監視の目に確認を取れば、確かにその予想は当たっていた。クリーヴは、子供たちと一緒に移動してきていると。
空っぽになった家を家とは呼べない。それは確かに当たり前のことだった。
召使は思案した。ポワソン町の方には、今あまり姿を現したくなかった。気を緩めている子供たちに、再度緊張をもたらすことをしたくなかったのだ。
◯
やるべきことはまだ他にもあった。最高審判官に話を取りつけるための下準備だった。今回の件を不用意に外に知られるわけにはいかなかったため、関わらせる部下はきちんと選んでいた。人情を持ち、家から抜け出せない年下の子供たちに心を痛め、けれどもその道を提示されたからといって光に揺らぐことのないかつての子供たちを。
ある月の光る夜、召使は書類を書き進めていた手を止めた。かつての裏切り者の子供たちのことを思い出したのだ。彼らの一部はまだ生きている。けれども身元が不確かで記憶を失っている人間に、この国は優しくない。
ある水脈は干からび、ある水脈は濁流に飲み込まれた。ある水脈は自らが覚えていない壁炉の家での過去を暴かれ、結局召使が介入することになった。
あの夜、もっと良いやり方はあったはずだった。
あれ以降も、召使は家を裏切りそうな子供たちを検知するたびに、記憶を奪い、家から追放した。そのうち手を回せる範囲で、一緒に身元と仕事を与えるようになった。
今回、最高審判官に話を取り付けることができれば、法的な追及の心配事もなくしてしまえる。今後の家からの追放は、よりリスクの少ないものとなる——といいのだが。
ある日、フォルツから受け取った報告書を読んで、召使は目を閉じた。
職務に忠実な子供たちはきちんと兄弟を監視し、裏切り者について事細かに記していた。
そこに一つ、別の情報がある。
「……クリーヴ」
やはり、彼女はそこにいる。
フォルツからの報告を読んだ後、召使は目を閉じて物思いにふけった。月光がその顔を照らし、風が窓を撫でた。その傍らにもうクリーヴはいない。
フレミネ、リネ、リネットは、〝本当の家〟の理想を実践するためにクリーヴを庇い、この家の秩序であるお父様に挑もうとしている。
彼らは、家族とはこうあるべきだという信念を持って、秩序に立ちはだかろうとしている。
(〝本当の家〟……)
それは召使にとって特別な意味を持つ言葉だった。
それは何度も繰り返し反芻し、何度も問うた言葉だった。
それがもう自分には分からず、実現できないということを、彼女は認めた。認めてしまった。
もうあれから十年ほどが経った。十年。それはクリーヴとペルヴェーレが壁炉の家に迎え入れられてから、ペルヴェーレがクリーヴを、そしてお母様を殺すのに要した時間でもあり、召使が壁炉の家を継ぎ、〝本当の家〟を作ろうとしてから経った年月でもあり、そしてその家でたくさんの子供たちが成長した年月でもあった。
召使はその子供たちが、かつて自分がお母様を殺した年齢に近づいてきたのを見た。
かつてのクリーヴと家の子供たちが、かつてのお母様と今の自分自身が重なって見えた。
そして同時期に見た。蒼星の計画が最終段階に入ったことを。
運命の足音を聞いた。旧世界の全てを燃やし尽くす、その炉火に自身がなるだろうことを。
壁炉の家に辿らせる別の結末として、家自体をなくすことも考えた。女皇の手によって世界全てが変わる直前の今こそ、古い王国の時代から脈々と受け継がれ、因果で縛られた壁炉の家を終わらせ、その運命の呪縛を断ち切るよい機会でもあった。
けれども、子供たちはこの壁炉の火が好きだと言う。
壁炉に親しみ、ここ以外に行くべき場所はないと、この家を愛していると言う。
ここが自分たちにとっての家なのだと。
召使は、彼らの言葉に深く揺さぶられるのと同時に——これは決して口にすることはなかったが——彼らにどこか救われたかのように感じていた。
この家を今の形にまで持ってこれたのが、無意味な営みではなかったように感じられた。
まるで、彼らがクリーヴの理想を肯定し、受け継いでくれたかのように感じられた。
アルレッキーノは思う。
家は枝葉を伸ばしていくべきだ。
古い枝は枯れ、新しい芽に席を譲るべきで、家の古い秩序は立て直され、新しい指導者が新たな時代を切り開くべきだ。
私は家族の本当の形を知らず、普通の子供たちが何を望んでいるかも分からなかったが、次の世代の、あるべき家の理想を持っている者こそがその道を切り開き、新たな家を実現できる。
だから自分こそ、彼らに恩義がある。けれどもそれを口にすることはない。
アルレッキーノは壁炉の家の名を残すことに決めた。
この判断が間違っていたか、正しかったかは——それはまた、後に続く者が裁定するだろう。
そしてようやく、そのときは訪れた。
まだ日は沈み、夜は始まったばかりだった。
子供たちには既に処置が言い渡され、クリーヴだけが追放を待っている。
いや、アルレッキーノだけが、このあと追放が行われることを知っている。
けれども太陽が訪れるまでには、まだ猶予がある。
◯
旅人とパイモンが語る外の世界の話に熱中しているクリーヴを見て、アルレッキーノはこれまで得られなかった充足感を感じていた。
ずっとこういう機会を彼女に与えてやりたかった。
ずっとこういう話を彼女にしてやりたかった。
この身の運命とファデュイの理念に縛られた自分が見た景色ではなく、真に自由な者が見た、真に自由な世界の話をしてやりたかった。
アルレッキーノは旅人に感謝した。それと同時に、耐えがたい切迫感も感じていた。
時は刻一刻と過ぎていく。
時は風と同じく、その場には留まらない。
時と共に月は動き、星は動き、やがて空は白みはじめる。
——この夜が永遠であればいいのに。
その思考はかつてないほどに強く、けれどももう後伸ばしにしてはいけないことは誰よりもよくアルレッキーノ自身が分かっていた。
永遠の虚偽を、我々はもうとうに知っていた。
◯
ついに、陽光が跡地に差し込んだ。
アルレッキーノはこれまで、クリーヴにきちんと別れを告げたことはなかった。
ペルヴェーレの腕の中で息絶えていったクリーヴにも、かつて何度も遭遇した亡霊のクリーヴにも別れを告げたことはなく、これが最初で最後の別れの言葉だった。
きっと、もっと早くこのようにすべきだったのだろう。アルレッキーノは陽光の中で、これ以上ないほど晴れ晴れと笑っているクリーヴを見てそう思った。やはり、君には陽光が似合う。
「でも、大人になったあなたに会えて本当に嬉しかったよ、ペルヴェーレ」
彼女は振り返って笑う。私こそ。それは言葉にならなかった。
「——元気でね。じゃ、また」
その瞬間、風が彼女を歓迎するように吹いた。もう終わりなのだと、分かった。
「——ああ。来世で会おう」
その言葉を聞いたクリーヴが最後にまた笑い、青い花弁になって空に溶けてゆく。
風がアルレッキーノの頬を撫で、風がその花弁を連れ去っていく。そして全ては跡形もなくなった。
形容しがたい寂寥が彼女を覆った。時が止まったかのように思考が凍るのを感じた。
昇ってゆく太陽は突き抜けるように明るく輝き、今なお世界を照らしている。……けれども、アルレッキーノにとっての太陽は、確かに今消え去った。あのクリーヴは確かにずっと幻影に過ぎなかったが、アルレッキーノにとってはずっと、クリーヴの存在は真実の光だった。
後悔が絶えることはない。それは最後の瞬間であっても変わらない。
もしあのとき、もっと早く自身の感情に気づいていたら。
もしあのとき、もっと早く幻影を消すことを決断していたら。
そうしたら、何か未来は変わっていただろうか。
もしクリーヴに、スネージナヤのオーロラが綺麗だったことも伝えられていたら。
でも、それを伝えるのは来世にしよう。
後悔のたびに歩みを止めていては、我々は前に進めない。
アルレッキーノは、先ほどまでクリーヴが立っていた場所をじっと見つめた。
これまでの歳月がすべて、アルレッキーノの脳裏に押し寄せた。お母様を殺して運命を変えるまでの十年を、運命を変えてから家を引き継いだ十年を、女皇陛下のこの先の計画を、そして最後に交わした約束のことを思った。
そうしてもう一度、つぶやいた。その声は風に乗って消えてゆく。
「……ああ。また来世で」
その約束は、必ず果たされる。
また来世で、私たちは再会する。
拾われた直後はただ安堵していた。
暖かい部屋、暖かい食事、温かい毛布。
壁炉が燃える家は、今までいた場所に比べればまるで楽園のように思えた。
「君はもうこの家の子だ」私を拾ったお父様はそう言った。
「歓迎するよ、ここを君の家だと思っていい」当時の年長の子供はそう言った。
けれどもその楽園が実は普通の孤児院ではなく、表沙汰にはできない秘密を隠していることに、気づくまでにそう時間はかからなかった。
食事が分け与えられるのと同じように、その家の子供たちには任務が分け与えられた。フィリオールは監視の任についた。それは神の目を持つ子供たちや、何かしら特殊技能に長けたり戦闘に長けた者と比べれば軽く、危険の少ない任務だったが、それでも世間の道理から背くことになる使命はフィリオールには重かった。
(……私は、こんなところにいたいわけじゃない)
そう不満をこっそり漏らすと、顔に傷がついた彼は仕方ないと笑った。
「生きてるだけましさ。お父様に拾われなかったら、俺はの垂れ死んでいたことだろう。それに俺は、あんたみたいに……そんなに〝普通の生活〟に憧れがあるわけじゃないしな」
そんな彼も、どういう因果か俗世に愛する人を見つけた。フィリオールは彼からその恋の話を聞き、家の中では滅多に聞けない甘酸っぱい恋模様にわくわくするのと同時に、未来を恐れてもいた。何故なら結末は明白だったからだ。
結末はもちろん訪れた。ある日彼はお父様に呼び出され、そしてもう二度と戻らなかった。
彼が恋をしていたことも、裏切り者の末路も、みんなよく知っていた。みんな沈黙を保った。その日以降、誰も彼のことをおおっぴらに語らなかった。彼はまるで、最初からいなかった者のように扱われた。
(生きているだけまし、なの?)
私たちは、普通の日常を送れないの?
ただ拾われたのが、お父様だったというだけなのに?
お父様には……確かに感謝している。
彼女がいなかったら、自分はもう死んでいただろう。
けれども同時に、ひどく憎らしい思いもあることも事実だった。
けれどもお父様に刃向かう勇気はなかった。できたのはこっそり不満を口にして、もしお父様のことを問い詰められたら、もしこの家を変えられたらと口にすることだけ。実際に実行する勇気はなかった。それは寄り集まった全員が同じだっただろう。
——けれども、この家ではそういった反抗の芽さえ罪なのだと、この家の子供たちはみんなお父様の手駒なのだと、再認識したのはあのときだった。
そして、例え自由がない日々であろうと、死よりも怖いものもないと。
◯
今、フィリオールは灼熱の中にいる。
その身は焦がれるように熱く燃え、これまでの日々の中で最も苦痛に満ちていた。
けれどもその感覚はどこか安らかで、フィリオールは燃え上がるような希望を感じていた。
かつての希望のない日々は終わりを告げた。
お父様は約束した、この炎が消えるとき、君は自由だと。
フィリオールはその夜、ずっと泣いていた。その涙がどういう涙なのかは、もう分からなかった。歓喜。希望。寂しさ。悲しさ。やるせなさ。もし全てが嘘だったらという恐怖。
けれども、もし嘘だったらと考えることはそのうちやめた。考えてもどうしようもないことだった。例えあの言葉が嘘だったとしても、希望と共に死ねるのだ。それよりも、もうすぐこの身から消えるという思い出を抱きしめたかった。
——それにお父様は、約束事で嘘をつかない。
フィリオールは、ここに来てからずっと過ごしてきた部屋の中を見た。そこには全ての思い出が溢れている。フィリオールは比較的私物の多い方だった。服、化粧道具、小説、お気に入りの舞台のポスター。けれども、これらを持っていくことは許されないだろう。記憶すらも持ち出すことは許されないのだから。
リネたちはこの家から出ないという。
フィリオールはその選択を、炎を飲む直前に本人から聞いた。
(馬鹿ね)
フィリオールは彼に本当に感謝すると同時に、哀れにも思った。
あんなマジックの才覚があれば、きっとどこにだって行けるのに。
けれども彼らは言う。
ここが彼らの家なのだと。
家を捨ててまで、行くべき場所などないのだと。
(本当に、馬鹿ね)
この家の秘密が憎らしかった。
任務が嫌でたまらなかった。
でも、この家を、家族たちを愛していた。
それは本当だ。
本当だけれど、
(——でも、私はこの家を出ていく)
ようやく、出ていける。
ようやく、この重荷から解放される。
その自由は、フィリオールがこれ以上ないほど望んだものだった。
今までの家に関する記憶を、全て失うことになっても。
そして、家族たちをみんな失うことになったとしても。
◯
気づいたら、見知らぬ部屋にいた。
「目が覚めた?」
声がかかった。知らない少年が、こちらを心配そうに見つめている。
「君は……えっと……道端で倒れていたところを保護されたんだ。あんなところで寝ていては危ないよ?」
「あれ……ありがとう。私……」
自分のその声は、まるで随分と遠くから響いてくるかのように聞こえた。フィリオールは戸惑いながら、声を発した。
「帰らなきゃ……」
帰る。どこに?
一瞬その思考が強くよぎって、フィリオールは頭を振り直した。決まっている。今住んでいる場所にだ。フィリオールはちょうど新しい仕事を始め、引っ越しをしたばかりのところだった——はずだ。
その記憶は何故かおぼろげで不安にもなったが、フィリオールは頭を振り直した。私はフィリオール。最近、劇場のスタッフとして雇ってもらった。歌劇が好きで、次の週末にある大きな歌劇の公演を楽しみにしていた……あれ、そういえば、今は何日だろう?
「混乱している?」
心配そうな見知らぬ人に見つめられて、はっと息を飲んだ。
「いいえ、いえ、大丈夫……」
「本当に大丈夫かい? ……あの、そうだ、しばらく休んでいく? それとも……朝食だけでも食べていくかい?」
「いいえ、遠慮するわ……大丈夫。ありがとう。もう家に帰るから」
その言葉のどこに驚いたのか、彼は息を飲んだ。「そっか」その人は瞳を斜めに落としてつぶやいた。
「じゃあ、気をつけて。入り口まで送るよ。……もうここには戻らないようにね」
フィリオールはその少年に案内され、その家の入り口までを歩いた。随分と広い家だった。どこを見渡しても掃除が行き届いていて、綺麗な家だった。大きな部屋では、壁炉の火が燃えていた。その炎の傍を通るだけで暖かく感じたけれど、何故かあまり長居したいとは思わなかった。なんだか——この家の雰囲気が厳粛すぎるからだろうか?
玄関のステンドグラスからは、まぶしい白日の光が差し込んでいた。
フィリオールはその重たい扉に手をかけて、
——その扉を通り抜ける。
扉が閉じられる直前、少年が手を振った。「じゃあね。元気で」その表情はどこか泣きそうにも見えたけれど、すぐに扉は完全に閉じられ、もう彼の姿は見えなくなった。
フィリオールは数歩歩いて、一度その保護されていた家を振り返った。そこは陽光に照らされ、随分と輝いて見えた。そこは見知らぬ家のはずなのに、何故か随分と見知っているように思えた。
(……いえ、気のせいだわ)
このあたりの家に足を踏み入れたことはないはずだった。
フィリオールはもう振り返らなかった。前へと歩みを進めていく。
そしてフィリオールは、もう二度とその家に足を踏み入れることはなかった。
リネはその閉じられた扉を見た。
その日、あまりにも多くのことが変わった。
フィリオールたちは壁炉の家を出ていった。
リネたちはここに残る選択をした。
◯
お父様が僕に何を見出したのか、リネは今までよく理解できていなかった。
『君と私たちの利益は一致しているはずだ。壁炉の家は君を歓迎しよう。君は、ここで裏切られることはない。そして、裏切りも一切容認しない』
「…………」
あの言葉をずっと覚えている。
あの言葉は救いであり、同時にずっとリネを縛るものでもあった。
始まりは、妹を売り払った貴族と、連れ去った貴族にどうにか一撃を加えたい一心だった。
その貴族を殺し、また没落させ、リネの怨念を削いでくれたのはお父様だった。
その報告を受けた夜、リネはあの恨めしい貴族たちへの溜飲を下げた。それと同時に、かつて自分たちが抗えなかった者の死があまりにもあっけなく成されたことへの驚きと、それを成した目の前の人への薄らとした恐怖を覚えた。
それからずっと、リネは壁炉の家にいる。
リネが今までこの家と折り合いをつけて暮らしてこれたのは、壁炉の家が果たしている役割がリネの目的——行き場のない孤児たちを拾うことと、この国の法をかいくぐって悪事を働く貴族を罰することと一致したからだった。そして、お父様のやり方は確かに厳しすぎることもあったが、同時にその判断基準は明白で、高潔で、芯が通っていたからでもあった。
お父様が獲物を逃したことは一度もない。お父様が殺すと決めた者は、ことごとく死んだ。ターゲットになった者は凶刃から逃れられることはなく、それは子供たちでさえ例外ではなかった。
フォンテーヌに孤児は多いが、真っ当な孤児院はそれほど多くない。
そして、孤児の立場の弱さにつけ込んで犯罪を行う者はかなりの数存在する。孤児は厄介なトラブルに巻き込まれてしまうことが多い——そのことに関しては壁炉の家も言える立場ではなかった。他ならぬ壁炉の家が、最たる厄介なトラブルだからだ。
けれどもときに、孤児たちにとって壁炉の家は唯一の選択肢だった。それ以外に孤児たちが拾われる機会は往々にしてなく、生き延びる道はなかった。
お父様は孤児たちをよく拾ってきた。確かにお父様は一定の情を子供たちに持っているように感じられたが、それだけが理由ではなく、ファデュイの理想に貢献するためという別の目的も兼ねているのだと、リネはそう考えていた。
この家に適性のある子供ならば、拾われることは最も良い選択肢だろう。けれども適性のない子供にとって、この家に所属することは耐えがたい苦痛を意味する。それは家に馴染めない兄弟たちを見ていれば分かった。
壁炉の家に属したが最後、生きてそのまま家から出ることは許されない。その道理をリネも認識していた。それは壁炉の家がファデュイの諜報機関でもあり、機密情報を外に持ち出すことは許されないからだった。
そう、リネは思っていたけれど。
「お兄ちゃん、私、ずっと思ってた。最近見かける新聞売りの子は、オレールに似ているって」
「……うん」
それはリネも内心思っていたことだった。けれどもあの新聞売りは、かつてリネたちが見知っていた彼よりも随分と明るく、普通に——別人のように笑うようになった。
あの追放の後、目覚めたフィリオールたちはもう記憶を失っていた。
今まで家から消された子供たちは、実はあの手段で〝追放された〟のかもしれない。
それは半分憶測にすぎず、自分たちに都合の良い考え方をしただけにすぎなかったが、リネはそれでも随分と気が楽になるのを感じた。
リネは改めて見下ろした。高い塔の下にある裏切りという霧を。その霧は随分と姿を変え、別の選択肢をリネに提示した。
お父様は問うた——瓶中の炎は三つ余分に用意した。どうするかは君たち次第だと。
けれども三人は、その選択肢を取らなかった。
その昔、リネも考えたことがある。例えば壁炉の家に所属した後に出会った、あの魔術師に拾われる未来があったのなら、と。それは家への裏切りに相当する行為だったのかもしれないが、考えずにはいられないことだった。
その夢想を実現する機会は、つい先ほど訪れた。
けれどもリネもリネットも、そしてフレミネも、その選択をしなかった。
何故なら、この壁炉の家が自分たちの家だから。
僕たちは、この家族の輪を手放すことはできない。ここは僕たちの家だから。
そう言うと、フィリオールは呆れたように顔をしかめた。「……馬鹿ね」と。
(……馬鹿なのかな)
けれどもリネたちにとって、もうこの壁炉から離れることは考えられなかった。ここは紛れもなく自分たちの家であった。例えその炎が、この身の将来を規定したとしても。
◯
その厳格な方針に思うところもあるが、お父様のことをリネは尊敬している。
そして、お父様がリネを次の王にと考えていることも知っている。
そのことは、なにもつい先日知らされたことではない。けれども、その到来を間近に考えたことはなかった。
リネからすればお父様はやや早急だった。自分はまだ何の準備もできていない。けれども。
(家への信念を持って、前に進めと)
その役責が、自分に務まるだろうか?
もしお父様が明日いなくなったとして。リネはぞっとした。その可能性を考えたことはほとんどなかった。けれどもここはファデュイだった。
壁炉の家全体を負う責任を考えるだけで身がすくみ、空気が薄くなったかのように感じた。
本当に、この先やっていけるだろうか?
「……お兄ちゃん」
「リネ」
ふと、肩に、背中に、温かなものが触れた。自分を抱き締めてくれる温かな存在がそこにはいた。
「私たちが一緒にいるわ」
リネはその温もりを抱きしめ返した。
「うん……うん。そうだね」
この温もりが失われない限り、自分は孤独ではない。共に試練に立ち向かってくれる仲間がいる。
仲間たちがあのとき、お父様に一緒に反旗を揚げてくれたように。
未来はどうなるのだろう。まだ全く分からない霧の中に居る。
けれども、この温もりが失われない限り、僕は前に進めるだろう。
リネは家の壁炉の火を見た。薪はほとんどが白い灰となり、熾火が赤々と燃えていた。
リネはそこに、新しく薪をくべた。やがてその薪を火が覆い、大きく燃え始めた。
この壁炉の火はこれからも燃え続ける。
この炎の形が、将来どうなるかは——まだ誰にも分からない。