踊る、火の海の中で/淑召

 淑←召のほんのり淑召。
 旧世界を燃やし尽くすこと、そして踊ることについて。

 注意事項:
 ・gnsnのver5.7までの各種ストのネタバレを含みます。
 ・また、各種ストから発展した妄想を含みます。
 ・特に氷神・氷国関連の捏造が含まれます。

 ※主に、淑女・召使関連のクエストストーリー及び、書籍・物産誌・装備図鑑・生物誌の各関連ストーリーを元にしています。
 ※ふわ〜とした既存情報を元にふわ〜と妄想を膨らませて書いた産物なので、ふわ〜と訳が分からないかもしれないですし、明らかに既存情報の読み取り方が間違っているかもしれないです。

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 狭く暗いトンネルを、小さな燭台を持って歩いている。

 そこは見知らぬ場所だった。アルレッキーノはいつからかそこにいた。記憶は随分ぼんやりとしていて、何故ここにいるのかは思い出せなかったが、この暗いトンネルを通り抜けなければならないという確信だけはあった。何故そうしなければならないのかは思い出せなかった。けれども分からなくても、それはある種の当然のことのようにアルレッキーノの思考に浸透していた。家の維持に、理由などいらないように。
 その道は随分と暗く、明かりは手元の燭台以外なかった。この小さな灯火で辛うじて近くが見渡せた。空気はどこか重く、埃っぽく、足元には塵のような灰のようなものが随分と積もっているのが見えた。
 明かりの向こうに何があるかは、果てしない暗闇に包まれていて見通せない。けれどもアルレッキーノはどこかで、これはただの一方通行の道であることを認識していた。前に進むしかないことも。
 アルレッキーノは歩みを進める。手元の燭台には一本の蝋燭が燃えている。その蝋燭はもう随分と短く、どこか異質に黒い。その蝋燭の側面には何かの模様が刻まれているけれど、何が刻まれているかは判然としない。アルレッキーノはその蝋燭にどこか見覚えがあるように思う。けれども分からない。
 その蝋燭は燃え続け、自身の熱で蝋を溶かし、またその背を縮めていく。もはやいつ消えてしまうかも分からないその火は、けれどもまだ一定の強さで燃え続けている。少なくとも、周囲を照らすという用には耐えている。
 足元の灰は、歩みを進めるにつれて随分と分厚く積み上がってきた。ときたま、いつもの残影が通り過ぎた。知っている顔。知らない顔。知っている声。知らない声。残影たちはいつものようにアルレッキーノの周囲を漂ったり、どこかに駆けていったり、ただそこにじっと佇んでいたりした。進んでゆくたびに、次第に知らない残影が増えていった。彼らを知らないのは自分が忘れてしまったのか、それともこのトンネルに住んでいる見知らぬ亡霊なのだろうか?
 アルレッキーノはときたま足を止め、彼らの様子を観察した。けれどもそのたびに、この心臓が燃え上がるかのように熱くなり、その存在を主張した。……決してこの道を引き返すことはできないのだと、そんな確信めいた理解だけがこの心臓に浸透している。この蝋燭が燃え尽きるまで、この道を歩き続けることしかできないのだと、そんな認識だけがこの心臓に刻まれている。

 やがて道の先に何かの明かりが見えた。それはゆらゆらと揺らめく赤い光だった。明かりといえど安心できるようなものではなく、それはどこか不気味で、得体のしれない輝きを帯びていた。アルレッキーノは一度足を止めた。その光の向こう側から、何かがこちらを見ているようにも思えた。その視線には既視感があった。
 徐々にその光は強くなった。その背後に、アルレッキーノは錯視した——巨大な赤い月、あるいは巨大な瞳を。
 それはとてもよく知っているものだった。
 ——死。その視線。

 手元の蝋燭が一際激しく燃え上がり、赤黒い閃光が視界を覆い尽くした。アルレッキーノは目を瞑り、ややあって《《その目を再度開いた》》。

 ◇

 そこは、もう暗いトンネルなどではなかった。
 そこは、一面に広がる火の海だった。

 視界を遮るようなものは何もなく、見渡す限りあらゆるところで火が踊っていた。赤く染まっていないところなどどこにもなかった。全てが燃え上がり、全てを灰燼に化そうとしている。
 アルレッキーノは目を細める。火の海の中に、何かが立っている。それは何かの異形のように見えた。けれども人のような形でもあった。アルレッキーノは、ナド・クライの伝説を思い出した——人の形をしたアビスの異形。
 アルレッキーノはその異形へと歩みを進めた。地面の灰には炎が燻っていたが、熱は感じなかった。この身の方がよほど熱かったからだろう。

 やがて、その姿はよりはっきりと見えた。
 それは、随分と懐かしい人だった。
 彼女を見て、アルレッキーノはここがどこなのかを理解した。

 彼女は振り返る。こちらを認める。獄炎の中、その薄い紫の瞳がこちらを射抜く。
「ああ、あんたも来たの」
 そうして彼女——かつて|淑女《シニョーラ》と呼ばれた人は皮肉げに唇を吊り上げてみせる。
 随分と懐かしい顔だった。随分と懐かしい声だった。そして、あまり目にしたことのない姿形でもあった。彼女の半身は烈火に巻かれ、燃え上がる炎の蝶のようなドレスを身に纏っている。氷の戒めは、もうそこには存在しない。
「ここは……」
「見れば分かるでしょ?」
 もちろん、理解していた。アルレッキーノは頷いた。
 いつの日か、旧世界は燃やし尽くされる。
 この火の海が、旧世界の全てとなり、
 やがて残る灰燼から、新世界が誕生する。
「君は、ずっとここに?」
「そうよ」
 彼女は頷き、手を掲げた。
「私がこの世界を燃やし尽くす。私はここで燃え盛る劫火となって、灰燼とともに踊るの」
 雷神にその身を断ち切られ、それでも最後にこの世に残った彼女の残滓は、今ここで旧世界を燃やしつくさんとしていた。見渡す限り、火に巻かれていない場所などどこにも存在しなかった。これらすべてが彼女の強固な意志によるものだった。無想の一太刀から辛うじて逃れた残滓は再び燃え盛り、その残滓でさえ旧世界を燃やすには十分だった。
 500年前、彼女がアビスの魔物を燃やし尽くしたというときも、このように世界は燃え上がったのだろうか。このように、彼女自身をも燃やし尽くしたのだろうか。
 淑女が眉をひそめる。召使の口数が少ないことを、不審に思ったのかもしれない。
「そっちは今、どうなっているの?」
「ああ、——順調だよ。神の心は既に六つ集まった」
 恐ろしいほど順調に女皇陛下の計画は進んでいる。
 もう計画の遂行は目前に迫っている。
 そして、世界の争いの中心である旅人の足音は、もうスネージナヤに近づきつつある。
「……ロザリン」
 少しの躊躇いとともにその名を呼んだ。それはまだ慣れない響きだった。生前、彼女をその名で呼んだことはなかった。ファトゥスはその命が尽き果てるまで、女皇陛下から与えられた名を使うのが習わしだったから。
「君よりも多くの神の心を集めた執行官はいなかったよ」
 彼女は満足そうに笑みを深めた。
「あら、そう。あんたたちも大したことなかったわね」
 淑女が手を振れば、呼応して炎が舞い踊った。アルレッキーノはその炎を見つめた。
 氷に覆われていた彼女の炎を目にする機会は滅多になかったけれども、数度見ただけのそれは鮮烈に印象に残っていた。薔薇の棘のように近寄るもの全てを刺し、蝶のようにどこまでも遠くへと飛んでいき、全てを燃やし尽くそうとする苛烈な炎。
 血や涙の代わりに、彼女の体にはこの炎が流れていた。全てを燃やし尽くすという強い意志から生まれた烈火は、その身さえ焼き尽くそうとしていた。そして、それはアルレッキーノも同じだった。違う起源の炎は同じように体の中に流れ、同じようにこの身を燃やし尽くそうとしている。
 ……いや、既に燃やし尽くされたのかもしれない。
 アルレッキーノが持っていた小さな燭台と黒い蝋燭は、いつしか手元から消え去っていた。代わりに、今や蝋燭となっているのはこの身だった。それはきっと初めからそうだった。蝋は溶けきり、黒灰が彼方に消え、この地に最後の蝋燭の火が落ちようとしている。

 いつか、この身が灰燼と化すことを知っていた。
 いつか、自身も旧世界を燃やす火になると知っていた。
 そのとき、彼女のその火と共に踊ることになるのなら、悪くないと思っていた。

「——、」
 淑女の周りに舞っていた炎の蝶がこちらに近づいてきた。その炎の蝶に誘われるように手を伸ばし、淑女に向かって歩を踏み出した。
 淑女はその手を見た。彼女の口元から笑みがかき消えた。代わりに眉がしかめられ、しばし何かを考え込むようにじっと視線が注がれた。その目は召使の背後、何か別のものを見ているようだった。
「馬鹿じゃないの」
 瞬間、彼女の大きな翅が、召使のその手をはたき落とした。叩かれた手は、燃え上がるように熱くなった。
 何故、と視線で、唇を震わせて問うた気がする。
「まだそのときじゃないわ」
「しかし、私はもうここに来てしまった」
 そう言い返す。戻り道はなかった。この道の行く先は一つだけだった。
「もうここから戻れはしない」
「それ、あんたに見えていないだけじゃないの?」
「そうかな?」
 淑女が何を言わんとしているのか、分からなかった。
「私がいつかここに来ることは、陛下の計画のうちだっただろう」
 それに、と思う。決して早すぎることはない。
「それに、私はもう随分と長くこの身の炎と付き合った。もうこの身は焼け崩れつつあるし、それだけの時も流れた。流れすぎたぐらいだろう。私が執行官になってから、……君と会ってから、もう十年は経った」
 あの新たに名を授かった新生の日から、もう随分と歳月が経った。
 十年も経てば、子供は育ち、家は枝葉を広げる。
 十年も経てば、この身は燃え上がり、黒く染まる。
 ……十年も経てば、彼女とは友人のような仲になる。
「もう十年も経ったんだ、ロザリン」
 彼女はくだらない戯言を耳にしたかのように眉を跳ね上げ、言い放った。
「たった十年じゃない」
 召使は眉間に皺を寄せた。この身の覚悟を軽いものとして扱われたように感じた。この身に刻まれた年月を否定されたように感じた。
 彼女はそれを見てフ、と笑う。
「来るのが早いって言ってるの。ここにあんたはまだいらないわ」
 嘲るように、一縷の哀れみとともに、どこか諭すように。長く生きた者らしい傲慢さを以て、その言葉は上から落とされる。こういうときだけ、彼女は年長者のように振る舞う。
「それに——私が、この私が、この旧世界を燃やし尽くすの。まだあんたなんかの手助けはいらないわ」
 その声に壮絶な気迫が乗った。彼女は口元を歪めた。
「あんたはせいぜい、まだしばらくは現世で女皇陛下のために尽くすことね。ほら、まだやり残したことがあるんじゃないの?」
 彼女は片眉を上げる。口端を吊り上げる。
「後ろを振り返ってよく見てみなさい。あんたには、まだ、」
 そして、烈炎の翅が再度振り下ろされる。
「この火の海は、早すぎる」
 君こそ早すぎただろう。そう思ったけれど、それは言葉にならなかった。
 衝撃で地面が崩れ落ち、直下の獄炎に呑まれていく。
 意識がかき消える直前に、炎の蝶が近くに見えた。それは召使の手に接吻を落とし、そのまま共に燃え上がった。

 ——でも、遠くない未来に、またここで踊りましょう。

 最後に届いた声は、そのまま虚空に溶けていった。

 ◇

「——お父様!!」
 子供の声が、どこか遠くから響いた。
 この身が一度燃え上がって、灰の中から再生したかのような感覚をアルレッキーノは覚えた。
 実際に焼け焦げて灰になっているのは、目の前の大きなアビスの異形——今回の任務の目標だった。
「お父様、ご無事ですか!?」
「……ああ」
 脇にいた残党の首を鎌に引っかけるのと同時に、召使は短く返答を返した。その子供の表情を見れば、彼にも何が起こったのかは分からなかったのだろう。
 全ては瞬きの間に起こったことだった。
 (——白昼夢?)
 それとも、実際にあのトンネルを抜け、あの世界に辿りついたのだろうか?
 あれは本当にあったことか、それともただ、例えばこの目の前の怪物が見せた虚像に過ぎないのか?
 それともあれは、未来の運命の予言なのか?
 アルレッキーノは心臓を服の上から抑えた。まだここまで呪いは到達していない。けれどももう随分と腕は黒く染まっていることを、そのときがそう遠い未来ではないことをアルレッキーノは知っている。
 そして、つい先ほど、全てが燃え落ちた感覚はまだ鮮明に残っている。
「お父様? 本当に、大丈夫ですか?」
「なんでもない。気にしなくてよい。
 ——伝令しろ。作戦は終わった、撤退する」
 召使はただ首を振り、不安そうな子供にそう命じた。先ほどのことには言及しなかった。

 死に至る道を歩いた。
 この身は心臓まで燃え上がった。
 そして、——懐かしい人と、会った。

 ◇

 アルレッキーノの私室は各地にたくさんあるが、その中で最も広いのが、スネージナヤ・パレスに割り当てられた一室だった。お母様が使っていた部屋をそのまま引き継いだそこは、どこか前任者の名残が漂っている。であるから、アルレッキーノがここを使うことはあまりない。ここを使うのは、スネージナヤ・パレスに滞在する必要があるときぐらいで、たいていは部下や子供たちと一緒に郊外の邸宅を使う。
 だからここは、一番他人の居場所のような冷たい部屋だった。
 アルレッキーノは珍しくぼんやりと物思いにふけった。部屋には最低限の夜灯だけが灯っていた。目の前には従者が入れていった紅茶が残っており、それはもうとっくに冷めていた。
 召使の帰還に対し、女皇陛下は表情を動かさずに告げた。「アルレッキーノ、戻ってきたのですね」と——それだけ。その言葉は戻ってきたことに安堵していたようでもあったし、戻ってこないことを期待していたようでもあった。けれどもその眼差しは常と変わらず鋭く冷酷であり、その声音には何の感情も乗らなかった。
 神の振る舞いから個人的な感情の揺れ動きを読み取ろうとすることを、知り合って早々に召使はやめた。彼女は理想を追求する公人にすぎない。その身は全て旧世界の転覆のために捧げられており、それ以外のことは全て、彼女にとって代償にできうるものにすぎない。彼女は心から犠牲となった者を悼んではくれるけれども、その理想の前に一人一人の犠牲は些末事であり、個人の感情は余事にすぎない。そしてアルレッキーノは、古くから名を連ねる執行官達よりも氷神との関係は薄く、むしろお互いの間には薄らとした確執と疑念さえある。
 であるから、どちらであってもよかったのだろう。この身が死のうが生きようが、どちらにせよこの国の計画は進行していく。氷国の計画は既に、一人の執行官の死で止まるようなものでも、覆るようなものでもない。かつて前任「召使」が現「召使」に殺されたとき、随分と速やかにその首がすげ替えられたように。
 けれども。
「……君にあんなことを言われるとは」
 乾いた笑いがこの空虚な部屋に響いた。それはおかしさから来るものでもあり、自分自身に向けた嘲りでもあった。彼女こそ。淑女こそ、後ろなど振り返らず、遠い理想に向かって苛烈に前に進むことしか知らない人だったのに。
 確かにアルレッキーノには、まだやり残したことがある。直近の計画で召使が欠ければ、氷国は少々手こずるだろう。自分が抜ければ、家にもその皺寄せが行くだろう。それは避けたいのも事実だった。家に面倒事を持ち込む同僚や要人の清算もまだではあるし。
 自身の顔がティーカップの中の水面に映る。もうこの国で、アルレッキーノと紅茶を飲んでくれる人は随分と少なくなった。
 残りを飲み干して、アルレッキーノは立ち上がった。まだ夜は始まったばかりだったが、寝台に入る準備をすることにする。
 今日はもう、早めに休んでしまった方がいい。このざわつく感傷を、翌朝までに平らに均してしまった方がいい。

 カーテンを閉める際、外で吹き荒れる氷風が視界に映った。
 今ここに、先ほど見た炎の影は微塵もない。女皇陛下の氷は炎を覆い隠してしまえる。けれでもそれは、この氷の国に炎が存在しないことを意味するわけではない。逆だ。
 炎は氷の中で、ずっと燃え盛っている。
 この氷の国に、炎はずっと存在し続けている。
 ——女皇陛下の中に。統括官の中に。各執行官の中に。そして末端のファデュイ全員の中に、スネージナヤ国民全員の中に。

 寝台の中で瞼を閉じる。
 瞼の裏で、先ほど見た鮮明な炎が踊る。

 やがて、全てを燃やし尽くす。

 ◇

 両手で数えられるほどの機会だけ、淑女と踊ったことがあった。
 実際、初めてその作法を教えられたのも彼女だった。

「……ダンス?」
 名を与えられたばかりの『アルレッキーノ』はその言葉を繰り返した。その頃、それはあまり馴染みのない行為だった。それはこれまでの人生で、ほとんど必要のないものだった。
「あまりよく知らない。正式な作法であれば、特に」
 淑女は呆れ果てたように盛大な溜息をついた。
「全く……こんなことまで、私があんたに教えなきゃいけないの?」

 新任「召使」の正式な就任までの召使の教育と監督を、執行官「淑女」がすることになっていた。その中には、この組織での立ち振る舞い方や、この世界や氷国の一般常識や礼儀作法も含まれていた。
「違うわ。そうじゃない」
 伴って、ダンスの講師も淑女となった。基本的なステップを教えられ、召使は淑女と踊った。
 召使は何度か淑女の裾を踏み、そのたびに氷のように冷たい視線と叱責を浴びた。けれども元より体を動かすのは得意だったから、繰り返すうちに次第に動作には慣れた。定められたステップを踏み、手を取り合って室内をくるくると回るだけの行為はどこか滑稽にも感じられたが、召使は不平を言わず従った。この先執行官として生きていく中で、礼儀作法を身につけることが必要不可欠だとは理解していた。
 淑女自身は、その薔薇の棘のような傲慢な態度からは信じられないほどに、随分と優雅で美しいステップを踏んだ。その所作は堂々としていて、けれどもやはりどこか苛烈さをうかがわせた。
 しばらく指導を続け、ややあって淑女は頷いた。
「……初日にしてはまあまあかしら。じゃあ、最初からもう一度」
 彼女が指を鳴らすと、曲が一番最初に巻き戻った。二人はもう一度、初めから通しでステップを踏んだ。
 ダンスという行為は、確かに体が動きを覚えてしまえば難しいものではなくなるのだろうが、けれども油断をすれば途中で落とし穴にはまるかのようなものだった。召使は、少なくとも淑女の服の裾をこれ以上踏まないように注意を払った。まあ、例えこの落とし穴にはまったとして、死ぬわけではなさそうなのはよいことだったが。

 指導は数日に渡って続けられた。召使がほとんどのパターンをスムーズに踊れるようになった日、彼女は満足そうに頷いた。
「なかなか上達したじゃない」
 召使と踊りながら、淑女は笑った。その笑顔を召使はなんとはなしにじっと見た。初めて見る彼女の表情かもしれなかった。上機嫌そうで、どこか少し楽しそうだった。
 そのまましばらく二人は踊った。リズムに沿って決められた動きを繰り返すだけのダンスは、けれども動きがぴったりとはまれば体内に高揚感が満ちた。召使はその行為を自分が快く感じていることに気づいた。それは久方ぶりに味わった、肯定的な感覚だった。
 その日、召使は淑女に合格判定をもらい、ダンスの指導はそれで終わった。
 そして確かにこの技能は、さまざまなパーティに招かれたときなどに役立った。

 その後もときたま淑女とは踊った。何らかのパーティで地位に伴う義務として踊ることもあれば、互いの興が乗ったときに二人きりで踊ることもあった。

 ◇

 淑女と最後に踊ったのは、淑女が岩の神の心を持ち帰ったことを祝して開かれた祝賀会のときだった。
 このような祝賀会は、基本的に執行官はもちろん、中枢の要人や末端のファデュイにまで開かれ、盛大に執り行われた。それは戦果を祝うという名目の元、氷国の威信を高めるためのものでもあり、戦意を高揚させるためのものでもあり、そして裏側で各派閥が思惑を巡らす場でもあった。どの大国もそうであるように、氷国にも大小様々な派閥にそれぞれの思惑があり、華やかな舞台劇の裏では陰謀が渦巻いていた。また、こういった会は、通常であれば接触する機会がないような者と知り合うよい機会でもあった。
 召使は目当ての要人との歓談を終えた後、改めて本日の主賓——淑女に近づき、一礼した。背後では楽団が音楽を奏で、一部の者たちは音楽に合わせて中央で踊っていた。
「1曲いかがかな?」
 淑女は笑みを深めて、手を召使に差し出した。承諾の意味だった。
「あら、いいわね。社交辞令ばかりの挨拶にはもう飽き飽きしてたの」
 召使はその手を取って、甲に口づけた。楽団が気を利かせたのだろう、二人が中央に出るとちょうど曲が切り変わった。一層壮麗な曲だった。
 執行官二人のダンスは注目を浴びた。二人は曲に合わせて優雅なステップを踏んだ。もう召使が足さばきを間違えることはなかったし、踊りは随分と慣れた行為になっていた。動きに合わせて二人の裾が翻るさまは、二輪の薔薇が咲いたかのようだった。
 そしてダンスは、このような場で些細な会話をするのにも適していた。
「親愛なる淑女様には、大変感謝している。君が迅速に事態を進めてくれたおかげで、随分とこちらもやりやすく物事を運べた」
 それは社交辞令でもお世辞でもなく、真実だった。率先して神の心の奪取に向けて動く淑女がいなければ、あるいはそれが別の執行官だったならば、情報管理は召使の領分であるからして、各地の|壁炉の家《ハウス・オブ・ハース》はより面倒な調整と消耗を強いられていただろう。
「彼らの緊張感も高まっただろうね」
 召使は視線で特定の一団を指した。口元に皮肉っぽい笑みが浮かび、淑女もそれに呼応してあくどい笑みを浮かべた。
 淑女が二度も戦果を上げたことは、執行官内で別の緊張を引き起こしていた。それはくだらない派閥争いの一環だった。
「ふん」淑女は鼻で笑い飛ばした。
「公子にも手柄を分けてやったのに、それだけじゃ足りなかったのかしら?」
「結局、神の心を持ち帰ったのは君だからね」
 同じ旗の下に集う同僚といえど、決して一枚岩ではない。国の中枢で動く執行官と、淑女や召使のような執行官では、立場も考え方も違いすぎた。こちら側に均衡が傾くことは、向こう側にとって望ましいものではなかった。
 けれども、淑女は各勢力の思惑とは関係なく動く。ただ一個人の意志として、女皇陛下の理念に限りなく忠実な執行官として。
「本当にくだらない。私が神の心を全て集めてやるわ」
 壮絶な気迫がその目に乗った。鮮烈な野望でその唇は弧を描いた。
 つられて、召使も目を細めた。そう宣言できる淑女が少し眩しかった。口元は特に意識せずとも弧を描き、笑い声が自然とこぼれでた。

 一曲目が終わり、二曲目も終わり、その次の曲が始まっても、二人は踊り続けた。執行官二人が踊っているからだろう、会場の視線は元より集まっていたけれど、三曲目に入っても切り上げる様子がないことを見るとさらに会場の耳目は集まり、少しざわつき始めた。
 けれども切り上げなかったことに、特に深い意図はない。ただこの時間を終わりにするのが惜しかったから、それだけだ。淑女と踊るその時間は純粋に楽しく、心躍るものだった。高揚感が二人を包んでいた。このまま永遠に回っていられるかもしれないと、召使がそう錯覚するほどに。
 けれどもやがて、時計の針がいつかは12時を告げるように、この時間も終止へと向かう。
 三曲目の最後に、召使は淑女に一礼をした。終わりの合図だった。
「あら、もう終わり? くたばるのが早いのね」
「これ以上君を独占してしまうと、さすがに顰蹙を買ってしまうからね」
 淑女は肩を竦めた。とはいえ彼女は、例えお世辞や打算込みでも、人々に囲まれ賞賛を浴びるこの機会が好きだっただろう。子供たちに囲まれているときと同様、満更でもなさそうだったから。
「ではまた、淑女」
「ええ。またここで会いましょう。次は雷の神の心だわ」
 彼女は不敵に笑った。召使がその場を離れると、やがて彼女は人の波に囲まれて見えなくなった。

 それが召使が覚えている、最後の淑女の全て。

 ◇

 『あんたと一曲踊ってあげるわ』
 彼女は最期の一幕で、そう言っていたと旅人から聞いた。
 彼女が最期に共に踊ったのは旅人であり、その踊りという名の戦闘の末、彼女は死をその身に刻まれた。
 それがどこか苛立たしく、呪わしく、召使は自分がそう感じたことそのものに心を揺らした。

 あの火が、瞼の裏にひどく焼きついている。
 あの火の海に、自分はどこか焦がれている。

 いつかそこで彼女と共に踊ることを、どこかで待ち望んでいる。
 旧世界への手向けとして、新世界へのはなむけとして、彼女と共にそこで灰燼と化すことを、
 今世のこの身にとって悪くない結末だと、そう思っている。