1877文字

淑+召。邪眼の元素の選択について。 新任召使の就任後、少し経ったぐらいの時系列です。 ※現公式設定との食い違いがあります。 ※就任当初の時系列のため、召使の淑女への解像度が低いです。  また、それはそれとして、召使は淑女の根本を真に理解はできないだろう というところがいいな〜と思った産物です。

 額に、氷のように冷たいものが触れた。

 それは実際、氷といっても差し支えないものだった。体の中で暴走していた灼熱が、徐々に、徐々に収まってくるのを感じた。召使は瞼を少し開けて、その何か冷たいものを見た。
 ひたりと押し当てられていたのは、しなやかな指先だった。その指先から凍えるような冷気が漂っている——そこで召使は、この手の主がわざわざ氷の権能を使っていることに気づいた。
 さらに視線を上げる。最近見慣れた、薄い紫の瞳がつまらなさそうに傲慢にこちらを見下ろしている。
「……すまない、淑女」
 彼女はフン、と鼻を鳴らした。
「執行官が軽率に詫びるんじゃないわよ」
 召使は深く息をつき、崩れていた体勢を立て直した。同時に、その容赦ない冷気から少し身を離した。大分落ち着いてきていた。
 召使は視線を下げて、自身の腕を見た。黒い境界は少し上がっていた。それは大海の水位が少しずつ上がっていき、もう元には戻らないように、じわじわと身の内を焦がし、決して後退はしなかった。その浸食がどこまで進んでいるかは、随分と目に見えて分かりやすかった。
 同じようにその腕を無表情に見つめて、やがて淑女は言った。
「あんたも氷の邪眼を賜ればよかったのに。女皇陛下は今からでも希望に応えてくださるわ」
「……あの感覚は、あまり好きではない」
「あら、そう。なら、好きにすれば」
 若干の呆れと苛立ちをもって、ぴしゃりと断ち切るようにその声は落とされ、淑女は顔を背けた。
 召使はふたたび目を閉じた。意識して呼吸を整える。既に力の暴走は収まり、体の感覚も常通りに戻ってはきていたが、それでも炎が身の内を焦がすような、そんな感覚がまだ付きまとっている。
 邪眼の制御に、召使はまだ慣れていなかった。その神の目を模した人造の道具は、身を削る代償を伴う代わりに出力が過大で、召使はしばし力を暴走させた。
 執行官ともなれば邪眼の元素の選択は各人に委ねられている。召使が願ったのは炎の邪眼だった。扱いに慣れているから、というだけだ。それ以外の元素はしっくり来なかったから、という、ただそれだけの理由。

 とりわけ、氷は。

 あの感覚は好きではなかった。
 女皇陛下の氷は全てを凍らせてしまえる。時を停滞させ、記憶を封じ込めてしまえる。
 召使も陛下に付き従う執行官として、あの氷雪で覆い尽くされる感覚を経験したことがあった。自身の存在全てが凍てつき、自身そのものが遠くへと後退していくような感覚を。

 あの、記憶全てが遠く凍てつくかのような感覚は好きではなかった。
 あの、自身を形作る根源が分からなくなるような感覚は好きではなかった。
 それに、そこまでを代償に差し出して、この命をいつまでも存続させたいというだけの意志もなかった。いつまでも存続するということは呪縛にもなり得るということを召使は十分に知っていたし、それを恐れてもいた。

 だから。

「行くわよ。いつまでもこんなところで立ち止まっていられないの」

 彼女はもうこちらのことを気にした様子もなく、コツコツと歩みを進めていく。
 嘆息で返答を返して、召使も同じように歩を踏み出した。歩きながら、淑女の後ろ姿を見つめる。かつて、彼女に過去を開示されたときのことを思い出す。
 目の前にいる彼女はきっと、もうそのときのことを覚えてはいないだろう。女皇陛下の氷とはそういうものだ。
 平時、彼女はその身の炎を陛下の恩寵で制御している代わりに、過去のことを薄らとしか覚えていない。彼女が自身の来歴を思い出すのは、何らかの拍子でその身の炎が氷を溶かしてしまったときのような、そういったごくわずかな例外の瞬間だけ。

 ときたまこうして、目の前の人を測りがたく思うときがある。
 目の前の人を、どこか恐ろしく思うときがある。

 過去の大切なものにまつわる記憶を全て忘れたとしても、その執念を成し遂げようとする意志はどのようなものだったのだろう。
 全てを燃やし尽くそうとする炎の意志を氷の中に閉じ込め、スネージナヤの反逆の駒となり、例え何年生きようとも、例え何年かかろうとも、例え何に手を染めようとも、神々の秩序の転覆を見届けたいという執念はどのようなものだったのだろう。
 元々はただの人間に過ぎなかった人が、どれほどの魔物を殺し、どれほどの同胞を見送り、500年もの長き時間を過ごしてきたのだろう。

 ふと、淑女はこちらを振り返った。召使の視線がうるさかったのかもしれない。

「なに?」
「なにも、淑女」

 召使は首を振る。
 そして思う。
 やはり理解しがたい、と、そう恐ろしく思う。