蝋燭の夜語り
リネ+アルレッキーノ(故人になっている)。 家と裏切りについての話。 ※家、理想、裏切りについての独自解釈が強めです ※ほぼアルレッキーノの一人語りで進行します 前提事項: ・gnsnのアルレッキーノ伝説任務及び、召使関連の各フレーバーストーリーのあれこれの要素を含みます。 ・一応2025/5/4既刊軸ですが、全然その要素はないです(単体で読めます)。
「あのとき」
彼女は目を閉じている。
「裏切られた、と。私はそう思った」
そうして目は薄く開かれ、唇は弧の形にかたどられる。滲むのは酷薄さ、あるいは苦い自嘲。
「けれども、それは元より分かっていたことだった。裏切りの種はとっくに芽吹いていた。芽は摘み取らない限り、いつかは隠しきれないほど大きく育ち、光を求めるものだ」
そうして吐息が落ちる。その吐息が燭台の蝋燭の炎を揺らしたように、聞き手は錯覚する。そんなはずはないのに。
ここは執行官『召使』がスネージナヤに所有する邸宅の一室、〝家〟ではない拠点の一つ。
もうとうに室内に夜の気配は満ちていた。穏やかな、けれども静かな緊張を孕んだ闇がこの空間を支配していた。蝋燭の炎が揺らめき、呼応するように壁炉の薪も燃え上がる。語り手の声が落とされ、聞き手の心臓の音が響く。それ以外、何もない。何もないように聞き手は感じる。ただ窓の外から、月だけがこちらを見下ろしている。
「そう、最初から分かっていたことだった。あのとき、それでもそのように感じたのは、私がその脅威を直視することを先延ばしにしていたからにすぎない。あのとき、その対処が遅れたのは——」彼女はわずかに首を傾げる、「私も若かったのかな?」彼女はどこか内省めいた笑いを滲ませ、それは聞き手を動揺させた——「冗談だよ。年齢が言い訳になるものでもない。ただ、予期も対策も甘かった。子供たちにあのように大規模に裏切られたのはあのときが初めてだったし、どう対処するべきかも直前まで決めかねていた」
ひとときの沈黙が落ちる。
彼女が執行官『召使』及び壁炉の家の管理者の地位を継いでから数年が経った頃、壁炉の家で大きな裏切りが起こった。
それは綿密に計画されたものだった。ある任務の途中で、一部の子供たちは壁炉の家から抜け出すための計画を実行した。〝裏切り〟——それは家の規則において最も許されないことであり、裏切り者は結局、追っ手であるかつての家族たち、そしてお父様と戦うことになった。裏切り者、裏切りを止めようとした者、ただ任務の途中で巻き込まれた者、合わせて犠牲は十数人に上った。
裏切り者は全員、家の家族、あるいはお父様の手で処分された。
そのように、聞き手——当時は小さな子供であり、今や大魔術師と呼ばれる者は聞いている。
昨日まで食卓を共にしていた家族が壁炉の家を裏切ったと聞かされ、いきなり家から十数人がいなくなったあの出来事は、まだ当時幼かった聞き手の記憶にひどく鮮明に残っている。
「あれは大きな騒ぎに発展したね。君たちはまだ小さかった。随分と動揺を与えただろう」
いえ、と聞き手は言葉少なく首を振った。
語り手は肩をすくめる。その裏の感情を見透かしたように。
「裏切られるということは腹が立つものだ。あの子たちに対峙したとき、一番最初に感じたのは怒りだった」彼女は目を細める、「君たちを死の手から拾い上げ、新しい生を与えたのはこの家であるというのに、君たちはこのように家を裏切るのかと。けれども」そこで彼女は少し言葉を止める。その静かな瞳は蝋燭の火を、あるいはどこかここではないところを見つめている。「けれども、やがて思い直した——本当に裏切ったのはどちらだったのか? とね」
聞き手は少し目を見開き、唇をわずかに動かし、けれども何も言葉は出なかった。それはかつてお父様の口から語られたことのない言葉。今まで開示されなかったこと。
「あの子たちが求めたのは暖かな壁炉だけだった。あの子たちが必要としていたのは暖かな食事であり、暖かな毛布であり、安心して眠り、帰ることができる家の屋根だけだった。あの子たちにとって、ファデュイの任務など預かり知らぬものだった。ファデュイの理想などどうでもよいものだった。それよりも目の前の生存の方が重要で、目の前の生活の方が大切なものだった」
彼女は微笑んだままこちらを見る。その赤の斜め十字を灯す黒い瞳は、全てを見透かしているかのよう。
「君たちもそうだっただろう。兄弟姉妹たちの平穏な暮らし、そして命が何より重要だった。そのために君たちは与えられた任務を必至でこなした」
聞き手は何も返せない。その言葉は真実の尻尾を掴んでいたから。
「我々を繋いでいたのはそういうものだ。お互いの間を繋いでいたのは、信頼や愛着という名の細い糸にすぎない。……それでも利害が一致し、対価と見返りの天秤が釣り合っている限り、我々は家族でいられただろう。家は生活の基盤を与え、あの子たちは見返りとしてファデュイの一員となり、任務を果たす。けれども迫り来る死への恐怖は、やがて天秤を傾けた」
わずかばかりの沈黙が落ちた。その沈黙は、聞き手と語り手の間に重く横たわった。かつて、その事実をお父様の口からそのように語られたことはなかった。
「天秤が傾ききり、やがて片方がその重みに耐えられなくなったとき、あの惨事は起こった。私はそうなることを予期していたが、対処は遅れた。それが誤ちだった。……打った手は間に合わず、また十分ではなかった」
吐息とともに言葉は落ち、彼女はまた瞼を閉じる。お父様が目を閉じるときは、その目に乗った感情を見せたくないときであると、聞き手はもう知っている。
「君もよく知っていると思うが、壁炉の家では裏切りは許容されない。裏切りは大勢の死を招くからであり、——その最たる例が、あの大規模な惨事だった」
あの反乱のときも、裏切った子供とともに、大勢の家族が巻き添えになった。
壁炉の家は世間の暗部に存在する組織であり、時と場合によっては各国の法を犯し、人の倫理から背く。そのため壁炉の家は各国の公的機関から目をつけられており、利害関係者も敵対組織も多い。この家はスネージナヤのために、ファデュイのために、執行官『召使』のために動く——家がどこに存在し、構成員がどこの出身であろうとも。壁炉の家の方向性は、壁炉の家がファデュイの傘下にある限り、決して変わりえない。
であるから、家を裏切るということは他の家族の死に直結する。例えこの家の外に出たいと思っていたとしても、何も知らないまま壁炉の家に引き取られたのだとしても、家の構成員がこの家から抜け出す術はない。……少なくとも、表向きは。
「〝裏切り〟ね——」
彼女は含みを持たせてその言葉を発する。家で何度も問題になり、随分と重たく取り扱われてきたその言葉を。
「壁炉の家は蜘蛛の巣のようなものだ。いや、だった、と語るべきかな?」彼女は少し笑う、「厳しい規則という縦糸の下、我々は互いの間にある愛情や信頼、あるいは利益、あるいは惰性、そういった複雑に絡んだ横糸で織り成された家を維持していた。あの家は秩序を維持するための強固で厳しい規則から成り立ち、けれどもあの家を家たらしめ、家族を家族としてつなぎとめていたのは、お互いの間に結ばれた関係の糸でもあった。……いや、『雄鶏』が好むような言い方をするのであれば、」彼女はそこで皮肉げな笑みを浮かべた、「その横糸を利用して、我々は家族になっていたと言ってもいい」
嫌な言い方だった。聞き手は、皮膚の中に決して抜けない棘が突き刺さっているかのような感覚に陥った。ある種の露悪的で見下された、あるいはある種の事実がそのまま投影された表現。
語り手は窓の外の雪原を見やる。
「あの家において、子供たちは庇護の羽に包まれて夜を過ごし、成長する。もう寒さに震える必要はない。もう家の外の厳しい生存闘争の環境に身を置かなくてよい。……けれどもその蜘蛛の巣は、家の規則に逆らってはいけないと教え、家の目的に貢献しなければならないと教え、家を裏切ってはいけないと教えた。その蜘蛛の糸は、子供たちが家から抜け出そうとした瞬間に死の刃と化した。
——結局のところ、蜘蛛は鳥にはなれない。蜘蛛は子供たちをその糸で保護することはできても、そこから飛び立つ術を教えてはやれない」
語り手はどこか陰鬱な笑みをこぼす。
「思えば、裏切りの予感を見たとき、私は少し失望した。失望したのはあの子たちにであり、この家の理想そのものであり、あるいは理想を成せない自分そのものだった」
壁炉の薪が、音を立てて崩れ落ちた。淡々と告げられたその言葉を、聞き手はただ硬直して受け止める。驚きも動揺も、もう麻痺してしまっている。ただ、思考のどこか外側で、どうしてこの人はこれほど開示してくれるのだろう、と不思議に思う。
「私は、当初」低い声が落とされる、「この家の維持に子供たちが貢献することを当たり前のことだと思っていた。子供たちがこの秩序に従い、この家の発展に貢献することを、当たり前のことだと思っていたんだ。かつて、この壁炉の家の秩序に刃を向けたのは私であったというのにね。
あるいは、そうではないことに気づいた後も、しばらくは——」瞼が閉じられ、「ただその場で息絶えるよりはマシだろうと、そう思って子供たちを拾っていた」また開かれる。「裏切りの種はそこから芽吹いた」抑制された声音とともにその言葉は落とされ、聞き手はその裏に滲むものにどこか驚きを覚える。
「子供たちはそれぞれが異なる考えを持っているからして、私が思っている通りに動くものでもない。まあ、考えてみれば当然のことだが」
息が吐かれる。
「想定通りに物事が運ばないというのは、この立場からすると厄介なものでね。あの頃、私は物事が、そして子供たちが思い通りにいかないことに苛立ちを覚えていた」そこで彼女はフ、と笑い声をこぼした。その瞳の奥に、どこか得体の知れない笑みが満ちる。「前任と同じだろう?」その瞳はまっすぐこちらを見つめ、聞き手は底知れない怖気にとらわれる。
やがて、お父様は奥で燃え盛っている壁炉を見遣った。どこの〝家〟にもありふれた、聞き手がよく馴染んでいる形式の壁炉を。その視線にはどこか厭わしさが混じる。
「君たちは壁炉が好きだったね」
ぽつりとその言葉は落とされた。
「壁炉の家の来歴は複雑だ。この家は、かつて存在した王国から連綿と続く壁炉の家の歴史の上に成り立ち、前任の召使、そしてそれ以前、ずっと以前から脈々と継がれてきた歴代の管理者たちによって成された数多の血と灰燼の上に成り立っている。
……とはいえ、過去の歴史が現在にそのまま影響するわけではない。君たちが育ったあの家を作ったのは私なのだから。あの壁炉の家は、私の定めた秩序から成り立っていた」
そう言う彼女の瞳には炎が映っている。壁炉の炎が、その赤月を宿す瞳に。彼女がお父様であったときから、変わらずにずっと。
「けれども、君も自問したことがあるだろう、〝本当の家とは何か〟という理想について、私は結局、自らが納得できる答えに辿り着けなかった。あの家がまだ理想には及ばなかったことを、私は知っている」
燭台に刺さった黒い蝋燭の炎が奇怪に揺らめく。その言葉は随分な衝撃を聞き手にもたらしたけれど、語り手はそれに気づいているのかいないのか、構わず言葉を続ける。
「あの決闘の日、君は言ったね。フィリオール達の行いは、果たして裏切りと見なすべきかと。
いや、あれは確かに裏切りだった。あの子たちは家の規則を犯し、家の秩序を脅かした——けれども、また別の側面から見れば、あの家そのものがあの子たちを裏切ったともいえる、そうだろう?」
聞き手は目を見開き、思い出す。あの全てが変わった日のことを。
そうして今初めて、この目の前の人の心中を覗き込む。
「君に話したかな」彼女はそう言い、どこか顧みるように目を細める、「あの家の理想を最初に描いたのはとある人だった。その理想に向かって私は進んだ。けれどもその理想は随分と遠いものだった。その理想は霧のように曖昧なものだった。結局、その理想に私は辿り着けなかった。……その理想は、私を裏切った。ある日、その理想に辿り着けはしないと悟り、……同時にそのとき、私は彼女が描いた理想を裏切ったんだ」
彼女は微笑む。どこか聞き手を宥めるような、あるいはどこか達観を含んだ微笑み。
「なに、そう驚くようなことでもない。理想とは、人とはそういうものだ。変容の過程でひび割れ、切り裂かれ、新たに生まれ直すものでしかない。
そう考えてゆけば、裏切りは至極当然に為されることだ。程度の大小はあれどね。誰もがずっと同じままではいられない。誰もがずっと同じ時には留まれない。生者であれば、なおさらね」
彼女は窓の方に視線を移し、どこか遠くを、窓の外の月を見つめる。幾分か長い沈黙が続く。
「私の場合は、やがて」少し言葉が途切れ、「……やがてこの失望が、未来への期待に変わるのに、そう多くはかからなかった。私は、〝本当の家〟の実現が自身には成しえないことであると認めた。その実現を成せるのは、私を裏切る誰かになると考えた。私はやがて訪れる変容に期待した。若き芽が育ち、新たな光を求めて、この家の天幕を突き破ることを期待したんだ」
彼女は少し視線を下げる。何かを思うように。「そのことが楽しみだった」そう言葉が落とされる。
「だから、君には期待していたよ」
彼女はどこか柔らかく微笑む。そこに含まれるのは慈愛、未知への期待、統治者の冷徹なまなざし。
魔術師は思い出す。その自らには分不相応な期待に、恐ろしさと不安と、同時にどこかその期待に応えなければという重圧を感じていたことを。
「リネ、君の作り上げる〝家〟を見てみたかった」
やめてくれ。その言葉はどこか惜しそうな憧憬とともに落ち、けれども魔術師はひたりと背に悪寒と恐怖が走るのを感じる。
その期待に応えられないのではないかと、自分はまだどこかで恐れている。
その期待通り歩いていけるのだろうかと、自分はまだ疑念に駆られている。
どうして彼女がこの立場にいないのだろうと、まだ途方に暮れている。
「しかし、それはもう叶わぬことらしい」
その言葉はどこか重く低く落とされ、この静かな部屋にしんと満ち、——そうして魔術師は、その言葉の意味するところに目を見開く。
「…………気づいておられたのですね」
「こういった事象は、私こそよく知っているからね」
その赤月の瞳はまだ燃えている黒い蝋燭をちらりと見やり、魔術師をひたと見つめる。そして、鮮やかに微笑まれる。
魔術師は息を吐いた。半ば予期していたことではあった。彼女はいつもこの真実に気づいた。
——目の前のお父様は、亡霊にすぎない。
もうこの世から去った人の残影が、蝋燭の影から現れ出ただけにすぎない。
「それに、もし君がそういう立場でないならば、君にこういったことは話さなかった」
「……アハハ。確かに、想定以上のことまで話していただけるなとは思っていました」
燭台で、黒い蝋燭がずっと燃えている。
◆
魔術師はこの蝋燭を、お父様が亡くなった後にお父様の自室から見つけた。それは黒い箱に保管され、封蝋で閉じられている、黒い蝋燭だった。
共に残されていたノートによると、これは「瓶中の炎」と同じく、極秘実験の産物なのだという。
これは特殊な蝋燭で、灯すと過去の幻影を映し出すのだという。
その蝋燭の処分に迷い、詳しく調べようと考え、机の上に置きっぱなしにしていたところ、その夜彼女は現れた。蝋燭はいつのまにか燭台の上に置かれており、火はひとりでについていた。
『——お父、様?』
『リネか。どうした?』
彼女は振る舞った。まるで、何も起こっていないかのように。時間があのころに巻き戻ったかのように。彼女がまだ家のお父様であるかのように。
けれどもそのとき魔術師が見せた動揺で、あるいはその魔術師の装いで、その事実はすぐにお父様に気づかれてしまった。
亡霊の彼女は淡々と子細を説明した。そしてこうも付け加えた。
『煩わしいならば、その蝋燭を元々しまわれていた箱に戻しておけばよい。その箱は特殊な素材でできていて、この蝋燭の効果を無効化する。あるいは、禍根ごと断ちたいならば、日中に蝋燭に火をつけて放っておけばよい。残影は、日の当たるところには現れないだろう』
言われた通りだったのだろう。この事象を早く解決するのならば、そうしてしまえばよかったのだ。
けれども結局魔術師は、その蝋燭をしまうことはせず、火をつけることもせず、ただその部屋に置いておくままにした。
蝋燭の火が夜に勝手につき、勝手に消え、共にお父様が亡霊のように現れ、消えることを分かっていながら、そうした。
この屋敷はもう滅多に使われなくなったから、そうしておいても支障はなかった。あれから情勢はかなり変わり、壁炉の家がスネージナヤに赴く必要性も滅多に発生しなかった。
けれども魔術師が蝋燭をそのままにしておいたのは、それだけが理由ではなく、むしろそのとき消える直前のお父様がどこか珍しい感傷を浮かべて窓の外に広がるスネージナヤの雪原とオーロラを見つめていたということと、それから。
それから。
自分の中に、随分と形容しがたい感情が渦巻いている。
「…………申し訳ありません、お父様。あなたをこうして、現世に呼び戻してしまいました」
「今の私はそのようなものではない。ただの過去の残影にすぎないだろう」
「けれども、……亡くなったことを認識しながらこうして存在されるのは、苦しく辛いものではありませんか」
彼女は少し目を細める。
「分からないことを無理に推し量ろうとするものではない」
少し硬質さを帯びた声でそう告げられ、そこに魔術師は安易に差し出した理解への拒絶を見る。
「その蝋燭を処分しておかなかったのは私なのだから、君が気にする必要はない」そうして付け加えられる、「それにこの蝋燭も、いずれ燃え尽き、消え去るだろう」
魔術師は瞳を揺らした。少し、言葉に躊躇う。
「……あなたは、こうなることを望んでおられたのでしょうか」
「いや、」亡霊は首を振る、「こうなればよいと強く思っていたわけではない。だが、いささか興味があったのは事実だ。自身が過去の亡霊であるという状態はどのようなものなのか、そして私自身がどう感じるのかね」
「……どう、思われましたか」
彼女はフ、と笑う。
「君には勧めない」
黒い蝋燭がバチ、とひときわ激しく燃え上がった。
それは、もうかつてから随分短くなっていた。
◆
しばらくの間、室内には沈黙が落ちた。壁炉から、パチパチという薪の音だけが断続的に室内に響き渡った。やがて彼女は再び口を開く。
「歴史はよく繰り返されるものだ。君がこんな話を聞きたがるということは、」
亡霊はこちらを見て微笑む。
「君も同じ霧の中で迷うかもしれない。あるいは別の迷夢に入るかもしれない。あるいは全ては杞憂で、そうはならないかもしれない——もう随分と世の中は様変わりしただろうからね」
言葉は続けられる。
「けれども、前の者の轍が見えたとして、それに囚われてはいけない。遠い理想は現実に見える風景とはまるで異なり、ときにはこの足取りが全く無意味なものに思えることもあるかもしれない。……理想は理想であるからして、その性質からして、そこには永遠に辿り着けないものなのかもしれない。
けれども君であれば、変わらない信念を持って前に進み続けることはできるだろう。それこそが大切なことだ。
——だから、リネ」
もう過去に属するものとなった、古い名が呼ばれる。それで魔術師は、この目の前の人が過去の中に立ち止まっている亡霊にすぎないことを思い出す。
「過去の残影の昔話に耳を貸すのは、控えた方が良い。往々にして、過去の者の視点は未来には当てはまらないものだ」
それは随分と懐かしい忠告のように落とされる。もうこの大魔術師に、このように上の立場から教え導いてくれる人はいなくなった。
「私なら絶対に、例えこのような機会があろうとも、前任の言葉には耳を傾けなかった——まあこれも、亡霊の意見だが」
「それは……、あなたの代で、家も変わったということだと思います」
魔術師は辛うじてそう答える。
亡霊は数秒こちらを見つめ、少し視線を落とし、そして目を閉じる。
「そうだとよいのだが」
◆
さて、と亡霊は言った。蝋燭は幾分かさらにその背を短くし、夜はそろそろ明けかける頃だった。
「そろそろこの邂逅も終わりだろう。……こうして君に出会えてよかった。壮健そうで何よりだ、リネ。けれども、もう会わないことを願っている。まあ、また会ったとて、私はもう今日のことを覚えていないかもしれないが」
彼女は微笑む。その微笑みが鮮烈に、魔術師の瞳孔に焼きつく。
「おやすみ。では、よい夜明けを」
ひときわ高く蝋燭が燃え上がり、その火が消えた。
もうそこにはお父様の亡霊はいなかった。まるでマジックのように、跡形もなく彼女は消え去ってしまった。先ほどまでここにいたという痕跡さえ残さずに。
黒い蝋燭から、か細い煙が立ち上っている。この蝋燭の光が消えて、魔術師は自分が随分と暗いところにいるように錯覚する。部屋の奥で燃え続ける壁炉の明かりだけが、ただ部屋を照らしている。
燭台に刺さったままの黒い蝋燭を見て、魔術師はどこか途方に暮れた。その蝋燭は、往時よりも随分と短くなった。
ここにこのまま置いておけば、いつかそう遠くない未来にこの蝋燭は燃え尽き、消えてなくなってしまうのだろう。それはあの亡霊の終わりであり、彼女は今度こそこの世から残滓さえいなくなってしまうだろう。
それとも。
けれども。
もしお父様とまた会えるのなら。
会えるのなら、お父様と話したいことはたくさんある、と魔術師はぼんやり思う。
この立場に立ってから理解できるものがあり、僕はあなたのことを何一つ知らなかったのだと、そう思ったのだと。
託されたものの重さに、今途方に暮れているのだと。
あなたと、あなたがまだ生きているうちに、こういった話をしたかったと。
けれども結局今日この夜でさえ、そういった話は欠片しか言葉の形にできなかった。ひどく口を重たくさせ、ひどく言葉にするのが難しく、発言すること自体を躊躇わせる、そういった話題。ひどく慎重に取り扱わなければ、どこかで何かの運び方を間違えてしまえば、一生残る心のひび割れになってしまうような、そんな話題。
そして、あの蝋燭の残影は過去のまま立ち止まっている亡霊にすぎず、そう認識して行う会話がどこかひどく虚しく、身を切りつけられるようなものになることも知っている。
結局のところ、彼女はもう現世にはいない。いなくなってしまった。あのずっと家を照らしていた、全てを支配する力強い光は消えてしまった。まだそこに、ずっと変わらず立ち続けていてほしかったのに。
「……どうして、いなくなってしまったのでしょうか」
責めるような声が漏れ、けれどももうその問いに何の意味もないと知っている。
蝋燭はもう何も答えない。
亡霊ももう何も囁かない。
ただ蝋燭から立ち上る煙だけが家の天井まで漂い、立ちこめ、消える。
あなたなら、それでも歩みを止めるなと、そう言うのだろうが。
大魔術師は窓の外を見る。空の端はもう白みはじめていた。そろそろ夜が明け、朝が始まる。けれども今はまだその手前、夜でも朝でもない境目の時間帯、最も空気が冷え込む時間帯。
けれどもこの家の中で、寒さを恐れる必要はない。
一本の蝋燭が消えても、壁炉はまだ燃えているから。
やがて、夜明けが訪れる。
その輝かしい光を、大魔術師は目にし、そして目を閉じる。