陽光の差す先で、あなたと
アルレッキーノが青年期クリーヴと夢の中で会って会話する話。 主に髪についての話をしています。 ※前提: ・アルレッキーノ伝説任務後〜Luna魔神任務前の時系列です。 ・既刊(2025/5/4刊)が前提かつ、既刊の続きのような話ですが、つまりは「アルレッキーノは就任後〜伝説任務の間に、実は度々クリーヴの残影に会っていた」という前提だけ把握していただければ大体OKです。 ・大大大大大幻覚(願望)を詰めています。内容に、ん?と思われるかもしれませんが、基本的に大大大大大幻覚(願望)なので、あまり気にしないでください。
ふと、意識が浮上した。
それは馴染みのある感覚だった。身はまるで灰の中に埋もれているかのように重たく、意識はまるで蜘蛛の糸が絡みついているかのように、どこか縛られ、欠け落ちている。
ああ、またか。
アルレッキーノは理解して、そして少し厭わしく思った。その厭わしささえ、身にまとわりつく倦怠感の中ですぐ薄れてしまった。それは何度も繰り返されてきた、おなじみのことだった。
夢は、このようにアルレッキーノの元を訪れる。
たいていの夢は、同じことの繰り返しだ。果てなく続く荒野と赤い月、そして夢であろうと現実であろうと変わらず聞こえる悲鳴と怨嗟。
アルレッキーノは今回もその訪れを予期した。けれどもそこは、いつもとは何かが違った。
ふいに、風が柔らかく吹き抜けてゆくのを感じた。そのことに疑問を覚えて、重たい瞼を持ち上げる。と同時に、まばゆいばかりの光が目を開けた先から差し込んできて、そのあまりの眩しさに目を細めた。
アルレッキーノは身をゆっくりと起こした。柔らかな木製の机が体の下にあり、どうやら自分はその机に伏していたようだった。机の表面を無意識のうちに撫でて、その手触りを随分と馴染み深く感じる。
やがて、目が明るさに慣れてきた。周囲を見渡せば、そこはどこかの室内だった。アルレッキーノに疑問を抱かせた眩しい光と風は、奥に見える窓から入ってきているようだった。
その窓は大きく開かれていて、レースカーテンが風に揺れている——アルレッキーノは一瞬、大きな蜘蛛の巣のように錯視した。窓の向こうには雲一つない青空が広がっていて、けれどもそれ以外、特別なものは何も見当たらなかった。
——ああ、ここは昔の壁炉の家だと、ふと理解する。
もう焼け崩れて、瓦礫しか残っていないはずの、昔ペルヴェーレが過ごしたあの家。
ここは、本当に夢だろうか?
アルレッキーノは疑問に思う。夢に見るのはたいていは、荒野と赤い月、それから残影の残響だけだった。けれども確かに、とも思い直す——このように穏やかなばかりの夢も、稀に見ることもあった。昔の温かな思い出の夢、それからかつての姿のまま残影としてとどまっている子供たちが笑い、遊び、歌っている夢。
けれども最後には、いつも全ては赤い炎に包まれて燃えてしまうのだが。
だから、ここもそのような夢なのかもしれない。光差す窓辺に、見慣れた赤色が見えるから。
アルレッキーノはそう考えかけて、その赤色がいつもとは全く違うものであることに気づいた。
その赤色は、血と死の色をしていない。
その赤色は、暖かで健やかな色をしている。
その赤色は、カーテンの向こう側で日差しに照らされ、風に吹かれて翻り、やがてこちらを振り返る。
昔、アルレッキーノはこんな赤を何度も目にしてきた。
「……ペルヴィ?」
クリーヴ。
それは、クリーヴだった。
それは、アルレッキーノが最近再び会い、別れを告げた小さな亡霊の姿ではなく、ペルヴェーレが一番最後に見た生前の彼女と同じ姿をしていた。
ペルヴェーレが殺したときのクリーヴと同じ姿。
アルレッキーノは束の間、ひどく視線を奪われ、
彼女のその名前を呼ぼうとして、けれども口がひどく重たく、うまく動かないことに気づいた。
「ペルヴィ」
彼女は笑う。
「目が覚めたのね? あなた、ずっと寝てたんだよ」
それに答えようとするけれど、口はやはりとても重たい。
ふとあのころのことを思い出して、とてつもない郷愁が湧き上がった。
まだ言葉で何かを掴み取るということを知らなかったあのころ。
まださして雄弁に語らずとも世界が回っていたあのころのことだ。
まだ隣に、ペルヴェーレの横でよく喋る少女がいたころのこと。
ペルヴェーレの世界がまだ一つだったころのこと。
こちらが何も返さないことを見てとって、目の前のクリーヴは少し困ったように首を傾げて笑い、続ける。
「なんだか、久しぶりだね? うん、久しぶりの気がする。……不思議だね」
アルレッキーノは小さく頭を振った。何度か言葉を出そうとして、けれどもそれは成功しない。言葉を発するという行為自体がとても重たいことのように感じられる。
アルレッキーノはひときわゆっくりと息を吸い、ゆっくりと息を吐き出した。もう一度、深く吸う。その吐息に乗せて、
「…………クリーヴ」
ようやく、その名を口にする。
一度その名を口に出してしまえば、なんだか随分と言葉を発するのが楽になったような気がした。まるで、その言葉がここと自分をつなぎ止める楔になったかのような。
「ああ、久しぶり。君に会ったのは、確かに久しぶりだ」
「……うん、久しぶり、ペルヴィ」
彼女は破顔した。その笑顔にアルレッキーノは目を細めた。
クリーヴは腰掛けていた窓辺から降り、こちらに近づいてきた。光に溶けていた彼女の輪郭がより明瞭になる。
そうしてこちらを、珍しいものに会ったかのようにまじまじと見た。
「ペルヴィ、なんだか、随分と大人になったね」
その言葉からして、彼女にとって自分は見慣れない姿で映っているのだろう。確かに手元に見える服の装飾は、この身によく馴染んだ執行官服のものだった。
アルレッキーノも改めて彼女を観察した。今となっては年長の子供たちと同じぐらいの年齢であろう彼女は、あのころ与えられていた家の服を着ていて、髪も見慣れた長さまで伸びていた。
その声も、最近会った亡霊の彼女とは違っていて、その少し大人びた声が随分と心地よく響いて、けれどもアルレッキーノは、彼女がもうこんなふうには話さないことを知っている。
「君は……どこまで覚えている?」
アルレッキーノは少し逡巡し、言葉を選んだ。彼女が夢か亡霊か、その類いであることは疑いようもなかったが、この状況は初めて直面するものだった。この頃の姿をしたクリーヴとは初めて会った。だからこの事象に関して、何の断定もできはしなかった——ここはただの夢なのかもしれないし、もしかするとより特殊な現象なのかもしれない。特殊な夢境、悪趣味な実験に、地脈から生まれた記憶の残像。テイワットには、夢を現実にするかのような、不可思議な事象が溢れていることをアルレッキーノはよく知っていた。
もしかすると、あの小さな亡霊を殺したから目の前の彼女が現れたのだろうか、と憶測にすぎない考えがよぎる。あるいはここが全く別の世界であるとか、あるいは実は立場が逆で、アルレッキーノ側が夢だったという可能性もありうるのだろうか。
目の前のクリーヴは、眉を下げて微笑んだ。
「たぶん、全部覚えているよ。ペルヴィが私を殺してくれたときまで、かな。……だから、私はもう死んでいるんだよね」
「ああ」
アルレッキーノは頷いた。であれば話は早かった。
「君が死んで、あれからもう十年ほどが経った。私はお母様を殺し、執行官の座を継ぎ、壁炉の家を継いだ」
「そっか」
クリーヴは笑った。安堵しているような、少し寂しそうな笑み。
そして、こちらを見つめる。憧憬が混じったような目で。
「うん、分かってる。なんだか全部知っているみたいに、しっくりくるの。……あなたが王になったんだね」
「ああ」
アルレッキーノは頷いた。クリーヴも頷く。
「うん、そうなると思ってたんだ。あの頃にはもう予感してたの。あなたなら、って思ってた。……あの家が、いい方向に変わったのならよかったな」
「……それはどうだろう」
そこには苦いものが滲んだ。いつまでも果たせない理想と、いつまでも晴らせない疑念。
「君の理想がどのようなものなのか、私には結局分からなかったのだが」
彼女はふと目を瞬かせてから、おかしそうに笑った。何を馬鹿なことを言っているの、というように明るく。人の心を晴らし、絶望を払い、希望を分かち合うための、灯火のような笑み。
「ううん、ペルヴィならきっと大丈夫だよ。あなたがお母様のようになることはない」
彼女が昔よく浮かべていたその笑みを久々に目にして、アルレッキーノはそっと目を伏せた。
その笑みに、きっと自分も救われていた。今でさえ、どこかその言葉に救われるような思いでいる。あの亡霊から、今の壁炉の家への肯定の言葉をもらったときのように。
けれども結局、過去の亡霊には現在を測りえず、その肯定が真の意味で肯定たりえないことも、もう分かっている。何故ならば、今の家があの理想に届かないことは、アルレッキーノ自身がもう分かっているから。
その沈黙をなんと受け取ったのか、彼女はなんだかおかしそうに笑いをこぼれさせて、目を細めて笑った。
「ペルヴィ、変わったね。でも、全然変わってない。きっと未来では、今の私には想像もできないようなことがたくさん起こるんでしょうね。だって……あれ、ペルヴィ」
そうして彼女は目をまん丸に見開いて、こちらを興味深そうに見つめた。
「髪、伸ばしたんだね。ずっと伸ばさなかったのに。なんで?」
その唐突な疑問は、どこか懐かしく響いた。あの小さな亡霊にも似たようなことを問われたことがあったからだ。
結局、亡霊のクリーヴにはその理由を言わなかった。アルレッキーノ自身にとっても、その理由の輪郭はもうぼやけていた。けれどもそれは自明な選択であり、今までもこれからも、髪を切ることはないだろうとも思っていた。切り離せないまま、もうとっくにこの身に馴染んでしまった感傷の一つ。
「なんでだろうね。ただもう、髪を切ろうとは思えなかったんだ」
目の前の彼女はおかしげに笑った。
「この髪は跳ねやすいから、伸ばしてもいいことなんかないって、ペルヴィ、言っていたじゃない」
「君もかなり跳ねっ毛だったけれど、伸ばしていただろう」
長い髪の手入れは、確かにかなり面倒だということを、アルレッキーノはこの長く伸ばした髪と付き合うようになってから身を以て知った。
ある同僚のように、あちこちに無造作に座ったり寝そべったりしても何故か髪がさほど乱れない力も持ち合わせていなかったので、この髪の扱いはきちんと考えなければならなかった。
別の同僚のように都度綺麗に結い上げるのも面倒で——そもそも結い上げるのはアルレッキーノの好みではなかった——、とはいえ垂れ流したままというのも鬱陶しくて、結局アルレッキーノの髪は、シンプルに後ろで1本に括られている。
今でもアルレッキーノは、クリーヴは毎日このようなことをしていたのか、と考えることがある。あの殺伐とした、身を飾ることが意味を成さなくなった家の中で。
「そういえば、君はどうして髪を伸ばしていたんだろう」
「ええ? うーん、そうだね、……」
彼女は少し考え込んだ。
「だって、長い髪って、素敵でしょ? ……それに、ペルヴィも言ったじゃない」
「私が?」
「うん。私が、この髪の長さをどう思うって聞いたときに。ペルヴィは『いいと思う。明るくて見つけやすいから』って。もう結構昔のことだけど、そう言ってくれたよね?」
「……そうだったか?」
「そうだよ! 忘れてたの?」
「……すまない」
アルレッキーノは少し動揺して、記憶を探ってみたけれど、そんな思い出は見当たらなかった。恐らく、随分昔のことだろう。彼女はずっと昔から、もうとっくに決めたことかのように髪を伸ばしていたから。それは誰かに髪を切ればいいのにと言われても変わらなかったし、ペルヴェーレもとりたててそのことに言及したことはなかった。
「私は、君が髪をずっと長く伸ばしていたのは、あの家への、お母様への反抗なのだと思っていた」
「えっ、そんなに大した考えがあったわけじゃないよ。でも、まあ、……そうだね、私はやっぱり長い髪が好きだったんだ。それを決闘なんていう馬鹿げた理由のために諦めるのは嫌だった、それだけ」
「十分、大したことだと思うが」
そういったことを諦める子供も当時多かった。その方が合理的だからという、至極妥当な理由で。
「ふふ、でも、ペルヴィもピアスを開けたりしてたでしょ? 髪は伸ばしてくれなかったけど。……でも、わあ、髪ももう、私と同じ長さぐらいなのかな?」
「伸ばしきったのだから、おおよそそうなんだろう」
「じゃあ、今はおそろいだね。なんだかうれしいな」
彼女はそう笑ってから、ふと思い出したように続ける。
「ねえ、覚えてる? ペルヴィが、私の髪を綺麗に編んでくれたことがあったよね」
「……あったね、そんなこと」
あのころの壁炉の家では、大抵の日は戦闘訓練や決闘が行われていた。お母様は手中の計画通りに、着々と決闘を執り行った——けれども、そのような日々の中でも、何も予定が入っていない休みの日もあった。それは大抵は事前に決められている〝飴〟だったけれど、たまに本当に、何かの外的要因でお母様の予定が変わって生まれた、ぽっかりと穴が空いたような休日もあった。
あれは、そんな日に起こった一幕。
「私にとっては……ちょうど一年ぐらい前かも。急に何も予定がなくなった日があって、ペルヴィが私の髪を結ってくれた。ねえ、あのときのこと、まだ覚えてる?」
「覚えているよ」アルレッキーノはそう返す。
「あの日、君は随分と眠そうだった。このように窓辺の陽光の下で、本を読もうとして、けれども全く文字を目で追えずにうたた寝をしかけていた」
あの日の彼女は随分と暗かった。窓辺から差す明るい陽光の下でも、まるで暗がりの中に浸かっているかのようだった。いや、正確には、あの日だけではなく、もうずっとクリーヴはそうだった——クリーヴだけではない、あの家の子供たち全員がそうだった。それは何も予定がない日でさえ変わりはせず、明るい太陽の光の下でさえ、私たちにはずっと暗闇が覆っていた。あの陽光は、例えずっと私たちを照らしていたとしても、私たちからずっと遠く、冷たいものだった。アルレッキーノはそう思い、けれども言葉には出さなかった。
「あのとき、ペルヴィが髪を結ってくれたんだよね」
「少し不格好な出来になったけれどね」
「ううん、あの髪型、すごく素敵だった。……私、あのときは嬉しかったな」
あのときのことを、アルレッキーノもよく覚えている。
結い上げた髪を見て、クリーヴが久々に嬉しそうに笑ったことを覚えている。
◯
あのころは、決闘が本格化する少し前だった。家の子供たちは次第に未来への絶望に覆われ、けれどもまだ希望は潰えておらず、一部の子供たち——主にクリーヴは、口裏合わせで決闘を遅らせ、じりじりと先延ばしにすることで家全体の延命を図っていた。けれどもそれは結局延命措置にすぎなかったし、その計略と末路はひどく彼女を消耗させた。
その日は、唐突に予定がなくなった日だった。お母様が急に出かけることになり、直近の予定が全て白紙になったのだった。
子供たちは密かに喜び、今朝の朝食の席の雰囲気は少し明るかった。けれども結局、今日行われるはずだった予定がいつか執り行われるだろうこと自体は変わりはしなかったから、どこか不穏な空気自体はずっと家の中に立ちこめていた。
朝食後、クリーヴはいつもの窓辺に腰掛けていた。彼女は直近の課題として出された、教本を読もうとしていた(けれども決闘を前にして、目の前の宿題をやり遂げることにもはや意味などなくなることを誰もが分かっていた)。
クリーヴはしばらく手元の教本を虚ろに眺めていたかと思うと、やがて視線をこちらに向けて、くしゃりと笑った。力のない笑い方だった。
「ペルヴィ、だめだ。今日は全然集中できないみたい」
「君は夜更かしのしすぎだ」
最近、彼女は窓の外の月を見て過ごすことが多くなった。しばし、それは随分と夜遅くまで続いた。眠れないようだった。
「ペルヴィも一緒に起きていたじゃない……」
「君は結局ベッドに入った後も、全然眠れていなかっただろう」
「そうだけど……」
クリーヴはため息を吐いた。
「ああ、何で私、こんなにうまくやれないんだろう」
その言葉は、随分と気鬱そうな声音で落とされた(ちょうどこの前日に、クリーヴの仲間であった一人の子供が怪我で脱落した)。けれども彼女はそう口にしたことをすぐさま後悔したようで、覆い隠すように笑みをこちらに向けた。それは当時何度か繰り返されたことだった。クリーヴは内に抱えた陰鬱さを隠し、できる限り明るく振る舞おうとした。この家の闇を遠ざけ、希望をもたらすために、同胞を導く迷いのない反抗の先導として立った。当時のペルヴェーレが、クリーヴの内なる暗闇に直面することも、その闇を取り払えることもほとんどなかった。クリーヴがその闇を隠そうとするのもいつものことだった——それをクリーヴが隠せなくなり、ペルヴェーレに絶望を吐露するのはもっと後のこと、もう希望の殻を維持できなくなり、この家の子供たちの行く先が——お母様の言う『王』となる者以外は——ただ一つの死への道であることが隠しようがなくなるころだった。
「ああ、何にもうまくいかない!」
クリーヴは盛大にため息をついた。今度は外向けの、少し冗談めかしたため息だった。
「見て、今日は髪も跳ねちゃったままなの。直そうとすごく頑張ったのに、これが限界だったのよ」
確かに、三房ほどがかなり不格好な跳ね方をしていた。元より髪が長くて、髪質も癖があるクリーヴにとっては珍しいことでもなかったし、それはペルヴェーレも同じようなものだったけれど。
「……私が結ぼうか? 髪を編み込めば、少しはマシになるだろう」
それは思いつきの提案だった。この目の前の、せっかく予定が何もなくなった貴重な一日だというのに、何かをしようとする心意気もなくしてすっかり落ち込んでいる目の前の友人に、何かしてやりたかったのだった。どうにかしてその心を晴らしてほしかった。
クリーヴは目をまん丸にした。
「え、……でも、いいの? 図書室に行こうとしてたんじゃないの」
「いいよ」
ペルヴェーレは頷いた。
「どうせ今日はもう何もないし、お母様だって帰ってこないだろう」
ペルヴェーレは黙々とクリーヴの髪を編み込んだ。髪の房を複数に分け、それを順繰りに編み込んでいく。いつかにクリーヴに請われて同じようなことをしたから、ペルヴェーレは人の髪を結うのは初めてというわけではなかった。けれども、すごく慣れているというわけでもなかった。その黒く節くれ立った手は、剣を握っているときとは打って変わって、若干不器用に動いた(当時の家において、髪をゆっくり丁寧に結える機会は稀だった。あの家で毎日髪を綺麗に結っている人間は、もはやお母様ぐらいだった。たいていはそのための時間などなかったし、例えこのような休日があったとしても、わざわざ一日限りのおしゃれのために時間を使うようなことはしなかった。そんな機会があれば、他にやるべきことに時間を使った——少なくともペルヴェーレは)。
準備をしているときから、クリーヴはわくわくと目をきらめかせていた。そのことは多少ペルヴェーレの心を落ち着かせた。
「ペルヴィ、どんなふうに編んでくれるの?」
「君はどうしてほしい?」
彼女は少し考え込んで、やがて笑った。
「ううん、ペルヴィの好きにして!」
その久々の曇りのない笑顔に、こちらが内心どのように感じたかは、彼女にとっては与り知らぬことだろう。
彼女は髪結いが始まってもしばらくはそわそわとしていて、それは背後からでも隠しようがなく分かったが——やがて眠気が訪れたようで、クリーヴはしばしば頭をかくんと落とし、目をしぱしぱと瞬かせた。
「寝てしまっていいよ」
「うん、でも……」
「眠いんだろう?」
「うん……」
クリーヴはやがて目を閉じ、微かな寝息を立て始めた。ペルヴェーレはこっそり息を吐いて、ゆっくりと丁寧に、彼女を起こさないように髪を結った。窓から差し込んだ陽光が、二人の背中を暖かく照らした。
やがて髪結いは終わり、ペルヴェーレはクリーヴの寝顔を見た。少し緩んだ表情だった。このように隙のある表情を、クリーヴが見せることもほとんどなくなり、最近の彼女はよく、どこか切羽詰まったような表情を浮かべているか、無理に明るく振る舞っているかだった。
いつもこうであればいいのに。そうペルヴェーレは思って、けれどもこの穏やかな幸福が長く続かないことは知っていた。知っていて、ただそのときだけは、クリーヴと一緒に目を閉じた。
それは、あの家にまだいくばくかの子供たちが残り、あの家にまだ辛うじて陽光が差していたころの話。
まだクリーヴが、絶望に染まりきるより少し前の話。
あの家が灼熱に焼き払われる前の話だ。
◯
あのころのように、クリーヴは笑う。
「私、ずっと同じことをペルヴィにやってみたかったの。あなたの髪を自由に触ってみたかったんだ」
「君はよく、私の髪を触っていただろう。違ったかな?」
「でもペルヴィ、ずっと短かったじゃない! 後ろでくくれもしないくらいに。だから、髪の流し方を変えてみるとか、小さな編み込みを入れてみるとか、そのくらいしかできなかったのよ」
そうして目の前のクリーヴはきらきらとこちらを見た。
「今のペルヴィの髪なら、どんな髪型でもできそうだね。ねえ、触ってみてもいい?」
「……君の好きにしてよいけれど」
少し返答を逡巡したのは何故だろう。この先起こることがどこかで分かっていたからかもしれない。
「わあ、この後ろの髪飾り、どうなっているの?」
クリーヴが歓声のようなはしゃぎ声を上げて、彼女の手がアルレッキーノの後ろに回る。アルレッキーノは目を閉じかけて、けれども予期したような甘やかな感触は訪れず、代わりにクリーヴの動きが止まった。
アルレッキーノはいぶかしげに目線をそちらに向けた。硬直したクリーヴがそこにいた。「あ、」そんな声が、うっかりこぼれ落ちたかのように落とされる。受け入れたくないことを理解してしまったかのような、そんな絶望のニュアンスを帯びた、ひび割れた声。
やがて彼女はこちらと視線を合わせて、切なそうに微笑んだ。その瞳の中には、いいようのない悲しみがあった。
中途半端に伸ばされたままになっていた手が、ややあってアルレッキーノの頬に伸ばされ、触れようとする。けれども、あってしかるべき感覚は何も訪れず、——代わりにクリーヴのその手は、アルレッキーノの髪の先を、アルレッキーノの輪郭をただ通り抜けていった。
ぞわりとした感覚が這い上がった。アルレッキーノは反射的に彼女の手を掴もうとして、——その手はクリーヴをすり抜け、ただ空を切った。
確かに彼女はそこに存在しているのに。
まるで二人が違う世界に属するかのように。
いや、分かっていたことだった、これは夢や幻影のようなものだと。
夢はときに蜜酒に浸るかのように甘やかで、ときに切り裂かれるように残酷なものなのだと。
「クリーヴ、」
反射的にその名を呼んだのは何故だろう。この目の前の友人をつなぎ止めたかったのかもしれない。
クリーヴは懐かしい微笑みを浮かべる。
それは懐かしい、諦観の微笑み。
「……ああ、でも、今の私は、あなたに触れられないんだね」
その絶望を払いたかった。
その諦観を否定したかった。
ただ心の底から笑ってほしかった。
けれどもそれは、結局叶わなかった。
だから、この夢はここで終わらせなければならない。
「クリーヴ、……君は亡霊だ。もうこの世からいなくなった存在の影だ。君はもう死んだはずだから、これは恐らく、私の夢の中だ」
手をゆっくりと下ろして、クリーヴは頷いた。
「うん。分かってる。分かってるよ、ペルヴィ。……私はもう死んでいるんだものね」
そうして、笑った。切なそうな苦しそうな微笑みだった。
「ああ、でも、あなたに触られたらよかったな」
そうして彼女は、こちらを抱きしめるかのように覆い被さってきた。まるであのときの再現のようで、アルレッキーノは密かに息を止めたけれど、やはり何の感触もしなかった。生者と亡者との関係は、本来そういうものだった。
「ペルヴェーレ」
まだ去らない亡霊は、随分と近くで囁く。
「まだ随分と、やりたいことがあったの。……やりたいことがあったって、今気づいたんだ」
彼女は続ける。触れられない輪郭を撫でるかのように、声が肌を伝う。優しくて、穏やかな声音だった。ペルヴェーレは彼女のこんな声音も好きだった。
「あなたにまた会えたら、またあなたを抱きしめたかったんだ。こんなふうにね。
それから、あなたにありがとうと、ごめんなさいを伝えたかった」
「君が、何を謝る必要があるんだろう」
「ううん、そうかな、ごめんね、ペルヴェーレ。たった一人で残していって」
「……君が、そう思う必要は全くない」
「ううん……でもこれは、私の後悔だから。……だからあのとき、私を殺してくれてありがとう、ペルヴェーレ。
おかげで、私は家の外に出られた。あの家から、あの檻から解放された」
彼女は夢想とまどろみの中にいるかのように、その声を漂わせた。
「それから、また会ったら、たくさんあなたにお話を聞かせてもらいたかったんだ。たくさん、本当にたくさん、あなたのお話を聞きたいの。そうして、あなたと一緒に日差しの下に出るんだ……」
そうして彼女はアルレッキーノから身を離した。それから、ステップを踏むかのような足取りで窓の方に歩いて行き、日の光が差し込む下でくるりと踊るように回った。
「もう何にも思い悩むことがなくなった状態で、太陽の下に出るのって、きっとすごく素敵でしょうね。青い空の下で、もう私を縛るものは何もなくて、私は本当に自由に、自由に、走りたいように走れて、……きっとあなたは後ろから呆れ顔でついてくるんだろうな」
彼女はおかしそうに眉を下げて笑った。
「ねえ、行ってみたいところがたくさんあるんだ。外の世界をずっと見てみたかった。自分の目で見て、歩いて、感じてみたかった。……ねえペルヴィ、そうしたらお互いうんとおめかしして、外に出かけようよ。こんな服はもうたくさん。ねえペルヴィ、私に似合う服を選んでくれる? それから、私が選んだ服を着てみてくれない? あ、スカートは選ばないようにするから!」
彼女は最後に慌てたように付け加えて、それからおかしそうに笑った。
「それから、あなたに私の髪を結ってもらいたいの、あのときみたいに。代わりに、私にあなたの髪を結わせてほしいな。ペルヴィなら、どういう髪型がいいかな? ……あっ、そうだ、おそろいの髪型って憧れだったんだ! もうそんなことだってできるよね? 私たち、長さも同じぐらいになったし、髪質も似ているものね」
私の髪で遊びたがる人なんて、君ぐらいだ。そうアルレッキーノは思ったけど、ただその言葉を静かに聞いていた。
「そうして、あなたと一緒に、外の世界を見に行きたい。あなたと一緒に、約束のオーロラを見に行きたいの。でも、……」
言葉がそこで途切れて、彼女は切なそうに笑った。いっそ空虚なまでに、風が二人の間を吹き抜けた。その言葉の先に続く現実を、二人はもう分かっていた。
「でも、今じゃないってことなのかな」
「……ああ。今じゃない」
クリーヴは頷いた。そうして手を伸ばす。陽光を掬い上げるかのように。
「あのとき、また来世で、って言ってくれて、嬉しかったよ、ペルヴェーレ」
アルレッキーノは目を瞬かせた。ああ、やっぱり、これは夢だ。彼女がこんなことまで知っているはずはないから。
「また会ったら、今度こそちゃんとあなたを抱きしめるよ。それまでは……」
彼女は笑う。
「ペルヴェーレ」
明るく。眩しく。陽光のように。
「私はきっと風になって、世界中を自由に飛び回りながら、ずっとあなたの一番傍にいるよ」
それは。
「じゃあ、またね」
その言葉に気を取られて、アルレッキーノが続く言葉を失っているうちに、窓から陽光がより輝きを増して差す。
ひときわ強い突風が吹き抜け、カーテンが翻った。
見覚えのある青い花びらがどこからか舞い踊り、風に連れ去られていく。
そうして彼女はいなくなり、ただ吹き抜けていった風の名残が、頬を掠めた感触だけが残った。
「……ああ、また」
◯
目が覚めた。
それはこれまでで最も動揺深い目覚めだった。
アルレッキーノは深く息を吐いた。既に日は昇っているらしく、微かな光が帳の向こう側から差し込んでいた。
アルレッキーノは身を起こし、立ち上がった。窓辺に近寄り、カーテンを開ける。薄明かりが室内を満たし、けれどもこの時間帯に、こちら側の窓に直接陽光が差すことはない。
そのまま窓を開けようとして——ただ無性に風を浴びたかった——、ふと手を止める。
窓の中に、アルレッキーノ自身が映っていた。特に何か変わったところがあるわけではない、おおよそいつも通りの自分。ただ髪だけがまだくくられず、後ろに流されている。
髪をそのままにして立っている自分を見て、先ほど夢の中で会った人を幻視して、窓に映った強ばった自分の表情に、少し笑う。
この髪は確かに、もうすっかりかつてのクリーヴのように伸びきった。あれから随分と年月は経ち、それまでの間にアルレッキーノは数々の出来事と苦難、それから新しい家族たちとの思い出を積み重ねた。
そして、髪の長さが彼女と同じになったころには、アルレッキーノはこの手があの理想に届かないことをもう理解していた。結局のところ、この身は彼女ではなかった。
だから。
「……似ても似つかないよ、君とは」
窓を開けていなくてよかった、とアルレッキーノは思った。
風はこの言葉を拾わなかっただろうから。