月光が降り注ぐとき

6616文字

コロ+アル(+サン)。 ナド・クライ魔神任務第八幕後の、見送りの話。

 コロンビーナ・ハイポセレニアは、時の流れとともに月の影を歩いている。
 現在から過去へと続く長い道のりを遡ってきたように、
 過去から現在へと続く長い長い道のりを、数千年の時の流れと共に歩いている。

 時の流れと共に、コロンビーナはたくさんの地上での出来事を見た。
 古い詩でしか聞いたことのなかった昔々の物語を、地上のさまざまな生と死を見た。

 各地の魔神たち同士の争いを、
 各国の人間たちが繰り広げる内乱を、
 500年前に全土で起こった漆黒の災いを、
 それから、今に至るまでの旅人の軌跡を、すべて見てきた。

 そうして、かつて地上にいた自分の真横で起こっていた、自分が気に留めず知ることもなかった数々の出来事に思いを馳せた。
 かつての「少女」には、そのようなことを考える心の余裕などなかった。世界からの拒絶の中、ただ遠くに感じられる自身の月との繋がりだけがよすがだった。

 数千年の月日をそうして過ごしていく中で、たまに、よく知っている人たちも月から見つけた。

(……あ、サンドローネだ、)

 ある日、サンドローネはその目を開いた。
 その日から彼女は、普通の人と同じように呼吸をし、食事を取り、ノートを書き、そして徐々に、コロンビーナが知っている通りの彼女になった。
 彼女は確かに「奇械公」の造物たる機械人形だったけれど、普通の人間とまるで変わらない生活を送っていた。月神が人間に交じって暮らしているのと同じように。
 彼女のゼンマイは、そのときからずっと動き続けている。止まることなく、規則正しく。

 彼女と彼女の父親から成る小さな世界は満ち足りた穏やかなもので、けれどもそれは長くは続かなかった。
 ある日、彼女の父親——サンドローネにアランと呼ばれていた人は亡くなった。有限の時間を持つ人間に必ず訪れる結末だった。
 雨がひどく降りしきる中、サンドローネは随分と長い間、彼の墓の前で立ち尽くしていた。コロンビーナはその様子をじっと見ていた。サンドローネも、その後ろにコロンビーナがいると分かっていたわけではないだろうが、ふと顔を上げ、偽りの月を縋るようにじっと見つめた。その表情に、コロンビーナの胸は締めつけられた。

(……ここにいるよ、サンドローネ)

 彼女が月を見上げるたびに、コロンビーナはその視線を受け止めた。

(私は、ここにいる)

 機械である彼女は、それから長い時を経ても老いることも死ぬこともなく、ただ周りの人々を見送るばかりだった。月の神と同じように。

(だから、キミは一人じゃない)

 けれども、サンドローネはそんなことは気にしないだろうなとも思って、コロンビーナは微笑んだ。
 周りのことなんて構わず、常に前へと探求を進めていくのが彼女だったのだから。

 物語のページをめくるかのように、時は過ぎていく。

 コロンビーナの肉体も月光の粒となって、少しずつナド・クライに降り注いでいく。
 無数の点と点は、やがて軌跡となり、これまでの変えられない必然とこれから辿る未来を描く。
 でも、あの先に待ち受けている未来がどんなものになるのか、私はまだ知らない。
 やがて、私たちの線はまた交わる。
 また、キミと再会できる日が来る。

 そう、思っていた。
 その日を、待ち望んでいた。

   ◯

 時計の針の音が、静かな部屋の中にただ響く。
 
 機械が告げる規則正しい音。コロンビーナは随分と久しぶりにそのような音を聞いたけれど、それはコロンビーナが聞きたかった音ではなかった。
 聞きたかったのは、あの歯車の音。ゼンマイが回り続ける音。何があっても途絶えることはなく、変わることのないリズムで響き続けるその音。それら全ては随分と懐かしくて、親しみ深いもので、月では聞けなかった音で、もう一度聞けることを、ずっと、ずっと楽しみにしていて、けれども、もう二度と。

 もう二度と、目の前の人のゼンマイは動かない。

 コロンビーナは想像した。目の前の彼女が、何事もなかったかのようにふと目を開き、「ふん、なによ」とか「なに、コロンビーナ。じろじろと見ちゃって」とか、悪態をついてそっぽを向く様子を。
 コロンビーナは期待した。自身の持つ三月の力が、目の前の人を目覚めさせることを。

 そうあってほしいと思った。
 そうなってほしいと願った。
 彼女の止まった時が再び動き出してほしいと、祈った。

 けれども、だめだった。

 三月の力は、目の前の友人を生き返らせてはくれなかった。

 室内には、しんとした静かな圧迫感だけが満ちている。
 ただ壁に掛けられた時計のカチコチという音と、コロンビーナ自身の忙しい鼓動の音だけが聞こえた。

 彼女の時間は止まってしまったのに、自分の時間はもう止まってはくれないのだ。ただその事実がコロンビーナを打ちのめした。
 自分の時間は無慈悲に未来に向かって進み続け、もう過去に遡ることはできない。
 サンドローネのいる過去に時計の針を巻き戻すことは叶わないし、サンドローネのいる過去に行くことも、コロンビーナにはもうできない。

 自分には目の前の彼女をどうしようもできないと分かってもなお、コロンビーナはしばらくサンドローネが納棺された棺に、縋るように身を預けていた。
 ふとまたそのゼンマイが動き出し、その眼が開き、その視線がこちらに向けられないだろうか、と思った。
 けれども、もうそんなことは起こらないのだ。
 彼女の閉じられた瞳を見て、その奥の瞳の色を想像して、彼女は自分を見るときに、どのような表情をしていたのだろう、とも思った。
 けれども、もうそれは分からないことなのだ。

「サンドローネ……、」

 吐息と共に乗った自分自身の掠れるような声が、随分と大きくその部屋に響いた。その声にふと揺れる気配があって、コロンビーナは意識をそちらに向けた。
 壁際に、ひっそりともう一人の友達が佇んでいる。その友達——アルレッキーノは何も言わない。ただ静かにこちらを見守っている。彼女がこれまで、コロンビーナとサンドローネの口論に滅多に口を挟まなかったように。
 彼女は表情をほとんど動かさなかったが、同じように深い悲しみに沈んでいた。そのことが、コロンビーナにははっきりと分かった。
 彼女も内心奇跡を期待しているのだ——月の神による奇跡を。でも、それが成しえないことも、薄々分かっている。

「コロンビーナ」
 視線が合った。彼女は問いかけるように呟いた。
「できそうか?」
「……ううん」
 コロンビーナはうなだれた。そのことを口に出すのは、ひどく苦しかった。
「私には、無理みたい」
「そうか」
 彼女はただ首肯した。
「無理もない。人を生き返らせるなど、俗世の神々の手にも余る所業だ。……特に彼女は、機械であったのだから」

 そう、サンドローネは機械だった。
 フォンテーヌの「奇械公」であり、サンドローネの父親である、アラン・ギヨタンの最高傑作。
 ならば、生と死の定義が、普通の人間とは違ったりしないのだろうか。
 時計も修理すれば再び動き出すように、ライアーも美しい音を再び奏で出すように、サンドローネもまた動き出したりしないのだろうか。
 ツノシカや人間と同じように、死んでしまったらもうそこで終わりなのだろうか。
 けれども確かに、ファデュイの指折りの機械技師であっても、彼女の機体を修理することはできなかったようだった。

「うん……」
 コロンビーナは悄然と頷いた。
「死んだ人を生き返らせようとするなんて、生と死への冒涜だよね。でも……三月の権能があれば、できるのかもしれない、って思ったんだ」
 コロンビーナは少し逡巡して、息を吸った。冷たいものが身の隅々に入り込んで、この喪失によって生まれた自身の中の空洞を撫でた。
「……でも、…………できなかった。……月の神の力が、生と死の領域には届かないから? それとも、彼女が機械だからかな? ……機械を生き返らせるって、どういうことなんだろう? 機械の死って、なんなのかな?」
 アルレッキーノは首を横に振った。彼女にも分からないのだった。彼女はこういうとき、とても誠実に振る舞い、慰めのための嘘を吐くことはなかった。
「残念ながら、私にも分からない。……サンドローネに聞いてみたかったね」
 コロンビーナは眉を下げた。自分には何も分からないことが悲しく、苦しかった。
「……人って、死んだらどこに行くのかな? 月から見ていても、死んだ人がどこに行くのかはよく分からなかったんだ。サンドローネも、人と同じところに行くのかな?」
「……地脈に還るんだろうね」彼女は淡々と告げた。「この世界の記憶となるんだ」
「地脈……また、会えたりするかな?」
「……ああ。たまに見かけるよ、過去の姿のままの彼らを」
「過去の……」
「その通りだ、コロンビーナ」
 コロンビーナの躊躇いを察して、彼女は言い含めるように告げた。
「もし地脈からサンドローネの影が現れ出たとしても、それはただの過去の残響にすぎない。……だから、感傷のためだけに過去に囚われて、地脈の残影を探し回るのはおすすめしないね」
「うん……そうだよね」
 アルレッキーノは少し眉を下げて、悼むように懐かしむように目を伏せた。彼女の表情の揺れ動きを目の当たりにするのも初めてだった。彼女も自分と同じだ、とコロンビーナはふと思い当たる。彼女も目の前の別れに、この喪失に途方に暮れているのだ——
「……アルレッキーノ。後悔に駆られないで」
 気づけばそう声をかけていて、アルレッキーノは随分と驚いたような表情を見せた。
「サンドローネがそう決めて、こうなるように計画したんだ。キミが自責の念に駆られることはないよ」
「……ああ」
 彼女はまだ驚きから立ち直っていないかのように呆然と呟いて、それから苦く微笑んだ。
「彼女は事態の収束のために、君のために全力を尽くした。……私としては、彼女の策略を見抜けなかったことが悔しいよ」
 お互いに苦い微笑みを交わして、少し、見つめ合った。少し、沈黙が落ちた。
「……ねえ、すごく寂しいよね。私も、すごく、すごく悲しいんだ。この喪失感って、いつかは埋まるのかな? それとも、この先ずっと、心のどこかが空っぽのままなのかな? ……ううん、彼女のことを忘れてしまうくらいなら、このままの方がいいのかな」
 アルレッキーノは目を伏せ、慎重に言葉を紡いだ。
「時の流れは確かに、ある程度は記憶を風化させてくれる。当時の鮮明な情景も感情も、いつしか遠くから振り返られるようになり、飲み込んでしまえるものになる。けれども……、時間が経ったとしても、その人と共に自分の中で失われてしまったものが元通りに戻ることはないし、欠け落ちてしまったものが完全に埋まるわけではない。それをそのまま抱えていくしかないんだ。……ロザリンのときも、そうだっただろう」
「……うん。うん、そうだね、アルレッキーノ」
 お互いに微かに微笑み合った。二人とも、お互いの内にあるその痛みをよく分かっていた。

 コロンビーナは再び棺の中のサンドローネを見た。静かなサンドローネは、いつまで経っても見慣れなかった。
「……ねえ、アルレッキーノ。残りの時間って、どのくらいあるかな? 私、まだサンドローネの傍にいたいんだ」
 サンドローネの遺体を彼女が引き取る旨は聞いていた。彼女は頷いた。
「移送の手配は済ませている。……我々は、あと1日後の昼にはここを出る。それまでであれば、構わないよ」
「うん、……うん。ありがとう、アルレッキーノ。……サンドローネはこのあと、どこに行くの?」
 彼女は首を横に振った。
「言えない。すまない。だが、彼女が望まない使われ方をすることはない」
 ファデュイが持つ土地のどこかなのかな。そうコロンビーナは推測する。その可能性が1番高かった。
「ううん、無理に聞かないよ」
 ロザリンがそう望んだのと同じように、サンドローネもスネージナヤの墓地に収められるのだろうか。であればきっと、そこに自分は行けない。
 これが最後の別れなのだ。

「サンドローネ……」

 もう、言葉は思いつかなかった。
 代わりにふと浮かんだ旋律があって、けれども歌うには、かつての彼女の言葉が思い留まらせた。

『歌わないでって言ったでしょ!』

「君は、ロザリンの葬儀のときも歌っていたね」
 その躊躇いを見透かしたかのように、アルレッキーノは呟く。
「歌わないのか?」
「……歌っていいのかな?」
 そう問えば、アルレッキーノはなんだか意外なことを聞いたかのように眉を上げ、そして少し口角を上げた。
「サンドローネも喜ぶだろう」
「……そうかな? うるさいって、怒られちゃうかも」
 ふふ、とアルレッキーノの口から、こぼれるような笑い声が落ちる。
「うるさいくらいがいいんじゃないかな」
「……そう?」

 アルレッキーノがそう言うのなら、そうなのかもしれない。
 ずっと、ずっと胸の奥から込み上げてきている旋律がある。

 月の神の歌が、室内に響く。

 静かな室内に、変わらず時を刻む時計の音と共に。

   ◯

 そうして太陽が沈み、月も昇っては沈み、そうしてまた新しい太陽が昇って、その別れの時は訪れた。

 サンドローネの棺は港に運ばれていって、その影響でファデュイの拠点には慌ただしさが漂っていた。ナド・クライに駐在していたファデュイの臨時部隊も、そろそろ撤退の準備をするのだという。それは、ナド・クライからファデュイの影響が薄くなることも意味していた。
 コロンビーナは、目の前のアルレッキーノを改めて見つめた。彼女をこの目で目にするのも今回が初めてで、その気配は確かに、この数千年に渡る旅路の始まりに出会った人と酷似していた——けれども彼女は確かに、姉のソネットではなく、アルレッキーノだった。
 彼女にどのような過去があるのかも、コロンビーナはあの月の上から見て、初めて知った。
 そして、彼女にも同じように、仮面の下に本当の名前があるのだ。

 だから、アルレッキーノって呼ばない方がいいのかな?
 コロンビーナは少しそう考えた。もう彼女の本名を知っていたし、その名前を彼女がひっそりと大事にしていることも知っていた。けれども、静かにその考えは打ち消した。

 だって彼女は、まだこの役を演じているから。
 それに、コロンビーナがいちばん呼び慣れているのもこの名前だから。
 それにそれは、勝手に友達の過去を覗き見たということでもあるから。
 彼女には彼女の計画がある。
 彼女がいつかその名前を教えてくれたら、そのときはそう呼ぼう。

「じゃあね、アルレッキーノ。元気で」
「ああ、コロンビーナ。君もね」

 そうしてやがて、アルレッキーノは小さな小さな一点になっていく。
 その後ろ姿を見つめながら、コロンビーナは久々に、ナド・クライには滅多に訪れない氷風の息吹を感じた。
 彼女は氷風に導かれて、氷風の望む方向へと去って行く。
 厳しい、厳しい冬が、スネージナヤにはやってくる。

 本当は引き止めたかった、とコロンビーナはつい思った。思って、そっとその心を押さえつけた。
 コロンビーナは知っている、彼女には彼女の計画があって、彼女には彼女なりのファデュイに属している目的があるのだと。
 アルレッキーノも知っている、コロンビーナは家をここに定めたのだと。もうファデュイには帰らないのだと。

 だから、ここでお別れなのだ。
 だから二人とも、引き止めの言葉も再勧誘の言葉も口にしなかった。

 あの友達とまた会えるだろうか、とコロンビーナは思った。ロザリンもカピターノも、遠い遠い地で亡くなってしまった。そしてサンドローネも。女皇の掲げるスネージナヤの計画が終幕に差し掛かっていることを、コロンビーナは元々は執行官であるから薄らと知っていた。
 あの友達は、月の狩人のように、そしてソネット姉様のようにならないだろうか、とも思った。それは内心すごく恐れていることだった。彼女はずっとアビスの侵食と戦っている。強靭な精神で律してはいるけれども、今回の件で彼女もそれなりに力を使ったはずだ。

 ううん、きっとまた会える。
 私は私の友達を信じるし、彼女の意志を尊重する。

 キミと、キミの未来が、昇る月のように明るいものであることを祈っている。
 私たちの行く先が、昼も夜も月光に照らされんことを。