線を引く
「アスター所長の母親は業務強化部部長のスカー・アイ夫人である」という癖の強い捏造を元にした、ビジネス寄りトパアスです。 海と星の話、趣味と仕事の話。
『私、海に潜るのは結構好きよ』
暗い海の中で、「ヘルタ」の所長は囁いた。トパーズは微笑む。
何故海の中でも話せているのかといえば、共感覚ビーコンの拡張モジュールを脳に埋め込んでいるから。口を介さず思考を伝達できる、かつてとある惑星の海洋生命体が利用していた手段から生まれた産物。
『宇宙に身一つで漂っている気分にならない?』
『あ、そっち? 故郷に帰ってきた気分になる、って言うのかと思ったよ』
『ああ、あの有名な話ね!』
生命は海で育まれたという、有名な話がある。今銀河を闊歩している生命体のほとんどは、各惑星の水分子の海で成長した生物を祖先に持つのだと。——とはいえ、それが随分と限られた話であったことは証明されて久しいけれど。
『でも、宇宙こそ、もう私たちの故郷みたいなものじゃないかしら』
『え〜、そう〜?』
「ヘルタ」の所長はそんなことを言う。この人にとってはそうなのかもしれない、とトパーズは思う。最初からどの惑星にも属さないところで生まれ、銀河間を泳ぐことを定められていた、こういうタイプの人にとっては。
『私も海は好きだな〜。泳ぐのは結構得意なんだよね、こんなに深くまでは滅多に潜らないけど』
海の中はもう随分と暗い。海面からの光がわずかに感じられる程度だ。かなり深くまで——本来であれば生身の肉体では耐えられない深度まで潜っている。
トパーズはさらに進もうと、足をしならせる。水の中での泳ぎ方も潜り方もトパーズは知っているけれども、さすがにこの水深であるから、今はアシストスーツによって自動的に動きが補助され、水圧も調整されている。けれども最低限の感覚までは遮断されていなくて、まとわりつく水の感覚がひんやりと気持ちよい。
水に包み込まれているこの感覚は、宇宙とは違う、とトパーズは思う。とはいえ、生身で外に出てしまえば、一瞬で命が危うくなるという点においては確かに似ているのだろうか。
ふと視界に光るものが見えて、トパーズは『あ』と声を上げた。
目の前を、小さな光る何かが漂っていく。
それはぴかぴかと明滅し、ふわふわと漂い、やがてこちらに目のようなものを向けて見つめる。『わあ』とアスターの感嘆の声が上がる。
『あ、見て! あそこ』
トパーズは指を指した。
『星々みたい』
そうアスターが囁く。先ほどの生物がたくさん群れになって集まっている。
深海には光を持つ生物も生息している。そして、この海域はそういった生物が多いらしい。今目にしているのはその一種で、この惑星で有名な水精霊と呼ばれる種でもあった。
トパーズの声も弾んだ。
『かわいい……!』
トパーズ達がこの海域まで来た目的は、この深海の水精霊達を見に来ることだったのだ。
*
それは〝休暇〟だった。
トパーズとアスターは、二人の休暇を合わせ、とある海洋惑星に遊びに来ていた。
その惑星は水中遺跡や海洋資源で有名な星で、スターピースカンパニーの手によって観光と商業の両面において成功を収めた星でもある。銀河の富裕層向けの保養地、そして海洋資源を各惑星に輸出するための星として。
あるいは、こう言い換えても良い——この星全体が、スターピースカンパニーのために調整されたプールになったのだ。
仕事でこの星に立ち寄ったことは数度あったけれど、ただ遊びに来たことはなかった、とトパーズは思う。横の友人は、この星に来たこと自体初めてだという。
かつて無名だったこの星が、その海洋資源と観光的価値に目をつけられ、カンパニーによって開拓されたことを、トパーズは知っている。もちろん横のお嬢様も知っている。そのような〝身内の〟星だからこのような機会に選ばれたという背景もある。
この休暇は元々、ちょっとした雑談がきっかけだ。
「あの惑星の海の中で、精霊達を見てみたいんだよね」とトパーズはある日、世間話を振った。
「あら、奇遇ね」宇宙ステーション「ヘルタ」の所長も相槌を打った。「私もあの星系には、ちょうど観測に行きたいと思っていたの」
元々共通の願望を持っていたこともあり、この休暇の話はスムーズに実現まで至った。二人とも、どこか仕事から遠いところで、日頃の悩みや疲れを忘れて思いっきりバカンスを楽しみたかったのだ。
けれどもトパーズにとって、この休暇には、また別のちょっとした目的もありはするのだが。
*
「ふあ〜〜……」
「はあ〜〜……」
「ちょっと疲れたね〜……」
「私も〜……」
海中の探索が先ほど終わり、今は海から陸に上がってきたところだった。二人でだらりとビーチチェアに寝そべっている。
お互いが弛緩した空気を纏っていた。脇のテーブルにはガイドロボットが調達してきたいかにもバカンスらしい飲み物が置かれている。しゅわしゅわとした爽快感があっておいしい。
この星はほとんどが海洋で占められていて、陸地は点在するのみだが、その一部は美しいビーチになっている。トパーズ達はその一部を貸し切っている。
「さっきの子たち、かわいかったなあ……」
「そういえば、トパーズさんの生態艦って、水生動物はあまりいないわよね」
「そうなんだよ〜。水生動物って、必要な設備も特殊だし、ううん、お金で解決できることならどうにでもなるけど、生育条件にも気を配らなきゃいけないでしょ。生態があんまり分かっていない子も多いから、どうしてもハードルが高いんだ。
それに、水生の子だと、あんまり触れ合うこともできないしね。でも、さっきの子たちはかわいかったな〜……」
ぼーっとした口調で散漫とそんなことを話し、トパーズはドリンクに口を付ける。すごくバカンスっぽい、とも思う。大変珍しいことだ。
「ほらカブ、よしよし」
隣のカブが不満そうに鳴いたのを、撫で回して宥めた。トパーズとしばらく離れていたことが不満なのだ。カブはカブで、この惑星の地脈の探索を楽しんでいたようだけれど。
「また新しい子が増えたら、ぜひまた生態艦に招待してちょうだい」
「もちろん! また宇宙ステーションに来たときにでも、招待するよ〜」
穏やかで綺麗な海が眼前に広がっている。空は抜けるように青く、海の色も同様に青い。砂浜に寄せる波を眺めていると、随分と心が安らぐ。
トパーズは故郷の灰色の海と灰色の空を思い出す。今頃は、もう青色に戻っただろうか。もう長いこと故郷に帰っていない。帰ろうともあまり思わない。
かつてはこの星を、まるごと地中資源のために作り替える計画もあった。そうならなくてよかったとトパーズは思う。この星に元々いた生命体は、まだこの星で生存し、繁栄している。
「はあ……こうやってぼーっとして、時間を溶かすのも、悪くないわね〜……」
「悪くないね〜……」
「でもなんだか、今頃何か問題が起こっていないかって、そわそわしちゃうわ」
「やめて、考えないで! 私も考えちゃうよ!」
トパーズは、部下や同僚から仕事絡みの電話がかかってくることを想像して呻いた。アスターが笑う。ちなみにずっと手元に通信機はあるので、何かあればいつでも手に取れる状態ではある。そこで笑っている「ヘルタ」の所長も同様だろう。
けれども今のところ、そういった連絡はかかってきていない。先ほど株価の動きと共に通知をざっと確認したけれど、緊急連絡はまだ一本も入っていなかった。本当に何事もないのであれば何よりだし、もしかしたらレディ・ジェイドがうまく調整をかけてくれているのかもしれない。
*
夕方、ビーチで美しい夕焼けを見てから、二人はチャーターしていた船内に戻った。
この惑星に訪れる観光客がよくそうするように、トパーズたちも宿泊施設代わりの船ごと調達してある。
トパーズは自分の客室に戻り、大きく息をついた。休暇はやはり刺激的で楽しく、随分とリフレッシュもできたけれど、一人に戻ると高揚感が少しトーンダウンする。少し意識が仕事モードに切り替わる。
通信端末を見る。星間市場の動向情報、同僚たちのSNSの投稿に、クローズドチャット。あらゆる通知が一瞬で溢れ、トパーズはその中から見ておく必要があるものとそうではないものを選り分け、最低限必要そうなものにだけ目を通し、返信する。
ふと、とある投稿が目に入る。市場開拓部の社員の投稿だ。こう書かれている——『市場開拓部は、新たな53の星系の開拓に成功しました!』
トパーズの眉間に、少し力が込められる。
『休暇を楽しんでね、エレーナちゃん』
この休暇前に会った、レディ・ジェイドの笑みが脳裏に浮かんだ。
「……ええ、もちろん、ジェイドさん」
普通であれば、十の石心と宇宙ステーション「ヘルタ」の所長の予定が合うわけがない。お互い多忙の身だからだ。
トパーズとアスターは確かに、休暇を一緒に過ごす話をする程度には親しい。けれどもそういう話が出ても、彼女と日程を合わせることは大変難しい。これまでにも何度か似たような話はあり、何度も頓挫した。トパーズは星間を渡り歩く仕事の都合上、休みが不規則だし、ヘルタの所長も同様だ。
今回も同じく、本来ならトパーズには別の出張の予定が入っていた。この休暇は実現されないはずだったのだ。
だから、今ここにトパーズがいるのは、偶然と言うよりは——特定の意図によるものと言った方が正しいだろう。
『宇宙ステーション「ヘルタ」の所長でしょう? そして、あの一族の娘』
レディ・ジェイドはそう言った。あの「ヘルタ」の所長には二つの身分、二つの顔がある。そしてスターピースカンパニーの関係者、特に上層部からは、彼女は大抵後者の身分で認識されている。
『行ってらっしゃい、エレーナちゃん。この仕事は別の誰かにお願いすれば良いわ。〝お友達〟との関係は大事よ。あなたの〝お友達〟との交流を深めるのは、あなたにしかできないことだもの』
あのレディ・ジェイドのことだから、〝お友達〟にはそのままの意味も、それ以外の戦略的な意味合いもあっただろう。
その戦略的な意味合いを、トパーズも理解している。
今戦略投資部が置かれた状況を鑑みても、彼女には——もっと言えば彼女の母親には、接触しておき、良い接点を作っておきたい。
戦略投資部部長が役員理事の席につき、より大きな権限を得ることができるようにするために。
彼女はあの一族——業務強化部を牛耳っている巨大な一族の直系であり、そして七人取締役会の役員理事である業務強化部部長の娘なのだから。
*
『はじめまして、トパーズさん。私はアスター。宇宙ステーション「ヘルタ」の所長よ』
初めて知り合ったとき、彼女はそう名乗った。
けれどもそれとは別の身分を、トパーズは既に知っていた。
スターピースカンパニー——銀河経済を支配する巨大企業に、古くから根を張る一族の一人。
七人取締役会の現理事である、業務強化部部長の直系の血縁者。
彼女は生まれながらに数多の星系を掌握する立場にいる。
彼女は生まれながらに途方もない富を所有している。
彼女は生まれながらに数多の生命体の運命を左右することができるだけの、強大な権力を持っている。
いや、厳密には、それらを持つ資格がある。
星海において名のない星に生まれた者では、ほとんどが一生をかけても到達できないような高みに、彼女は生まれながらに位置している。
そこは、トパーズのような実力と運がないと辿り着けない場所。
世界には格差があるというのが世の理だが、彼女と出会って、トパーズはそのことをこれでもかと思い知った。
最初から世を支配する理を知っていて、それは生まれたときから近くに存在する。
並の星系が持つ〝価値〟とは比較にならないほど巨額の富を持ち、数多の星系の運命を左右できる。
そんな立場に初めからいる人は、本当に存在する。
業務強化部は、スターピースカンパニーの星間ネットワークの管理と拡大を担っている部門だ。
市場開拓部が開拓してきた新たな星々を星間交易網に組み込み、また既存のパイプラインを強化する。スターピースカンパニーの星間ネットワークは、そうやって規模を広げていっている。
数多の星々との交易を扱い、カンパニーの巨大な星間ネットワークを維持・拡大するという役割を背負っている以上、必然的にあの部門はしがらみが多い。航路一つを決めるのにもさまざまな思惑が絡みつき、数多くの利権が生まれる。
戦略投資部は比較的若い組織で、経歴や出自に囚われず様々な人材を集めているが、業務強化部はその真逆だ。既存の星々を扱う関係上、古くから付き合いのある家系がどうしても有利になる。
その筆頭の家系が、アスターが生まれた家系であり、今の業務強化部のトップが彼女の母親である理由。
だからカンパニー内部では彼女は雲の上の存在であり、様々なゴシップの対象だ。
よってトパーズは、宇宙ステーションのスタッフのほとんどが彼女の出自を知らないことを知って、本当に驚いた。
宇宙ステーションのスタッフが注視し、畏敬の念を抱くのはミス・ヘルタのような天才達であり、スターピースカンパニーにまつわる噂話はここでは遠い。
「ああ、別にいいのよ。私はカンパニー関係者としてではなく、ミス・ヘルタに任命された管理者としてここにいるんだから。……それに、今の環境は結構楽しいのよ」
確かに、立場を意識せずに交流できるのは、彼女のような人からすれば貴重だろうけれど。
そもそも彼女自身に、家業を継ぐ意志はないらしい。
その話を、トパーズはいつかの食事の席で、彼女から世間話の一環として聞かされていた。恐らくそれには、牽制も込められていた。『これ以上自分に近づいても何も得るものはない』という意味の牽制が。
トパーズはその話を意外性とともに聞き、半分納得もした。彼女が本当に今のポジションに満足しており、星の研究を続けたいのであれば、家業のしがらみは彼女にとって障害にしかならないだろう。
(でも、後継にも向いていそうだけどな)
管理者としての彼女は随分と優秀だ。宇宙ステーション「ヘルタ」の管理者の枠に留まっているのがもったいないほどに。あるいは彼女だからこそ、「ヘルタ」は秩序を保っていられるのだろうか。
だからきっと、全宇宙の交易ネットワークの手綱も、面倒な既得権益や古い一族のしがらみも、彼女であれば十分に御してみせるだろう。彼女の母親と同じように。
トパーズとしては、もし彼女がその跡を継ぐのであれば、いろいろとやりやすくなるだろうからありがたい——が、そこは友人であるのだから友人の意向を尊重すべきなのだろうとは思う。
(それにアスターさんって、結構頑固だからな〜)
それはそれで、トパーズにとっても良いことかもしれない。
彼女が家業を継いだら、今の関係はどこか変わってしまう気がする。
少し遠い距離にいる、立場を気にしなくてよい友人というのは、案外得がたいものだ。
*
夕食は、船内で取る予定にしていた。
チャーター船なので、席はトパーズとアスターの二人分しかない。
窓から海が見えた。先ほどまで潜っていた海は今や真っ暗で、星々の光だけに照らされている。綺麗で、底知れず、少し恐ろしい。確かに星海と似ているかもしれない、とトパーズは思う。
船内の落ち着いた音楽に混じって、どこからかこの惑星の精霊たちの歌声が船にまで聞こえる。きっと誰かが海面まで上がって歌っているのだ。
「食前酒でございます」
給仕が運んできた、海の底で醸成されたという海精霊の酒は深い海色をしていた。海旅の安全の祝福が得られるという逸話のある酒だ。
「では」
トパーズは軽く咳払いをした。
「私達の貴重な休暇に乾杯〜!」
「あはは、貴重な休暇に乾杯!」
グラスが持ち上げられ、コースの序奏が奏でられる。一口料理、それに前菜が順々に運ばれてくる。
トパーズとアスターはしばらくたわいない世間話をした。今日見た海の話に、カンパニーの噂話、宇宙ステーションの噂話。話題は尽きない。お互い銀河を駆け回る身で、お互い様々なことを見聞きする立場だ。
そしてトパーズは、その話題のカードを切り出す機会を伺っていた。
今日のゴールはもう決めていた。今日はただ、約束を取り付ける。彼女と、彼女の母親と約束を。この先〝仲良くなる〟ための足がかりとして。
やがてメインの魚料理が運ばれてくる。今や近辺の星々でも有名な、この惑星の魚が美しく盛りつけられた料理。
給仕が下がり、再び二人きりになる。
「そうだ、お母様はお元気?」
話の流れで、トパーズはそう切り出した。できるだけ、自然に、さりげなく。
「ああ、元気そうよ」
アスターは肩をすくめる。
「この前、プローヴァ・ト星系に視察に行ったそうよ」
「ああ〜、あの星系は最近惑星間紛争があったばかりだね」
「あの星系周辺の運輸網を正常に戻すために、今は大変みたい」
市場開拓部が開拓した星を、業務強化部がカンパニーの貿易網に組み込む。そうして星々はカンパニーの信用体系に組み込まれる。そのラインから不良債権化した投資の回収や清算を、戦略投資部が担当する。いつものカンパニーの業務の流れ。
戦略投資部は今、機を伺っている。業務強化部を、市場開拓部ではなく戦略投資部の方に接近させる機会を。
「そうだ、うちの部門もあの星系には関わろうとしているんだ。あの星に貸した投資の回収をしようとしているんだよね」
「あら、そうなの」
「だから、うちの部門でも沈静化を手伝えるかもしれない。荒事に慣れているのは戦略投資部の方だからね〜。そうだ、」
この休暇の本題を切り出す。表情を変えずに。軽い思いつきの提案のように。
「お母様に少しお話を聞かせてもらえないかな? ねえ、また今度三人で食事にでも行かない?」
「へえ?」
彼女は微笑み、少し目を細めた。浮かぶのは慎重な思案と、少しの警戒、そして計算高さ。普段は隠されている、カンパニーの古い一族の一人として当然持っておくべき一面。彼女はいつも、足をすくわれる立場にいる。
「いいわね」
彼女はそうして微笑みを乗せたまま、そう答える。暗に仕方ないわね、とでも言うように。彼女はあえて、こちらが垂らした糸をはねのけずにいてくれている。
「確かにその件には困っていたみたいだし、あなたのことはお母様も気に入っているもの。きっと誘いに乗ってくれるわ」
そうして付け加えられる。「耳が早いわね? 私も詳細なことは知らないのよ」少しの探りと、棘とともに。
「カンパニー内部でも噂にはなっているからね〜。私の耳にも届いただけだよ」
「でも私達だもの、予定が合うかしら。お母様に聞いてみるわね」
「うん、大丈夫。私はいつでも都合をつけるよ」
「あら、そう?」
アスターは目を細めた。全てを見透かされている、と思う。見透かされた上で、まだ許容されている。
実はこういった実家関連のうまみを付け狙われることには案外苛烈な彼女は、通常であれば、このあたりで随分と鋭い拒絶の言葉を投げつけるだろう。
だからそれは、アスターとトパーズの仲だから許されているということで。けれども、何もかもが許されているというわけではない。
トパーズも、線引きはわきまえている。この線引きを間違えてはならないし、長期的な利益を見据えなければならない。そのためにはもう、誠実に開示してしまった方がよさそうだった。
「うん、正直に言うとね、このビジネスはとっても重要度が高いの。アスターさんのお母様と直接話せると、すっごく助かるんだよね」
「やれやれ……」
仕方ないわね、とでもいうように彼女は眉を下げて微笑んだ。
「カンパニーの勢力争いに巻き込まれるのは、私の本意じゃないんだけど」
「うん、大丈夫。アスターさんにそこまで迷惑はかけないよ。ちょ〜っと仲介を頼みたいだけだから!」
「はあ、わかったわ。あなたにはこの前の出張の件で借りもあるものね」
「ああ、あんなの大したことじゃなかったけど、助かるな〜」
ちょっと嘘をついた。もし交渉が難航したら持ち出そうと思っていた件だった。逆にそのカードは、暗に『これであの件は貸し借りなしね』というアスターの抜け目ない清算で失われてしまったが、ことがうまく運んだのだから構わない。
「でも勘違いしないで、アスターさん」
最後の魚の一切れを切り分けながら、トパーズはそう口にする。一応、そう言っておく。波風は立てたくないし、彼女との関係はこれからも良好に継続していきたい。
「このためだけに君を休暇に誘ったわけじゃないから」
「もう〜。このためでもあったんでしょ?」
彼女は頬を膨らませた。こうした表情は、彼女を年相応に見せる。
「でもそうね、勘違いしないで、トパーズさん」
彼女は微笑む。
「こういったことは正直困るけど、私、あなたのことは結構好きなのよ。お母様も同じ。だからこうやって、あなたを遊びに誘ったり、誘いに乗ったりするの。どうでもいい人だったら、誘いの時点で断っているから」
ふっと笑みがこぼれた。
それはそうだ、自分だって、肌の合わない人間とプライベートでリラックスして過ごせるような、器用な人間ではない。
「奇遇だね、私もだよ〜。気が合わない人に遊びになんて誘わないしね!」
*
夜更け、二人で船から星を見ようという話になっていた。
文字通り海に浮かぶ船から星を見るという行為は、星間旅行に慣れ親しんだ人間からしてみればむしろ物珍しい。トパーズからすれば特に珍しくはない、日常の一部である星空が、世界の上半分にだけ広がっている。
星を、星だけをまじまじと見る機会はあまりなかった、とトパーズは思う。
(ああ、でも、初めて星海に出たときは感動したっけ)
故郷——今となっては小さな一惑星の、灰色の空の向こう側に、こんな世界が広がっていたなんて、と。
「この惑星から、星々がどう観測されるかに興味があるの」
アスターはスコープを覗きながらそう言った。
「この星系のすぐ傍に、巨大な次元通路があるんじゃないかっていう仮説が今学会では盛り上がっているのよ。だから、この星から観測できる他の星々の位置と、実際の星々の位置のずれを検証すれば、周囲の空間を歪めている隠れた巨大天体の位置が特定できそうでしょ?」
目の前の友人はそんなことを言う。初耳だ。トパーズは、新たな次元通路が見つかるならこの近辺の新航路の開拓に役立つだろうなと考える。とはいえ実用化はまだ先の話かもしれない。
「でもそれは、また今度の正式な観測でやる予定なの。今日は、この星から見える星空を覚えに来たのよ」
そのひとときの間、トパーズは彼女の説明と共にしばらく星空を見た。
「見て、あのひときわ輝く青い恒星が、ケラーシ星系の主星。172の惑星がカンパニーの貿易網に属している巨大な星系ね」
「ああ〜! 何度か仕事で行ったな」
「その左横の、赤い恒星が輝くのが、ロ・ヴァ・クジリ星系。星核の影響で、カンパニーの航路が廃止された星域ね」
「ああ……結構昔にプロジェクトが失敗して、そのままの星系だね。今は反物質レギオンが跋扈している、危険域」
実際の星々のデータと紐づけて説明されれば、トパーズにも把握しやすかった。ただ同じような星の光が瞬くばかりだった星空が、馴染みを持って見渡せる。
「あの二つの星と、その上の七つの星をつないで」彼女は指で線を引く、「この惑星の人は大鯨座を作ったの」
トパーズはアスターを見た。彼女は変わらず星空を見ている。
「星座ってやつ?」
「ああ、私達の立場だと馴染みが薄いものね。そう、星座」
かつて、それぞれの惑星には星座という概念があったらしい。
その星から見える天球上の星々を線で繋ぎ、その惑星の人々にとって馴染み深いものに見立てたという。身近な動物や日常の道具、過去の偉人、あるいは歴史上の逸話や神話に、信仰や概念そのもの。そういった、惑星ごとに異なる世界の見え方が反映された、星空を観察するための枠組み。
「この星系の星座も? よく知ってたね?」
「各星系で独自に発展した伝承や学問は、基本的にカンパニーと学会の手でサルベージされて、データベースに蓄積されているのよ。星にまつわる伝承も同じ。だから、前もって読んでおいたの、結局のところ——」
彼女はこちらに瞳を向けた。
「一惑星から星を観測するなら、その惑星から見える星座を知っておいた方が便利だから」
「そういうもの?」
「そういうものなのよ。例えば」彼女は星を指した。
「〝青く輝く星〟とだけ言われてもどれのことか分からないけれど、〝大きなクジラの形をした星座の左上の星〟って言われれば、どの星を指しているか分かりやすいでしょ? 星と星の相対関係でその星の位置が把握できる。どの星のことなのか、他の人と共通認識が持ちやすい、それって大事なことなの。カンパニーが自動的に振り分けた星番号だけを、あるいは星の名前だけを教えられても、それがどの星を指しているのか、識別することは困難でしょ?」
彼女は熱心に続ける。指で星空をなぞり、星と星の間に線が引かれる。
「あの三角形がシャチ座、あの十字が星クラゲ座。あの連星が——」
彼女の説明を聞きながら、トパーズも天球を目でなぞる。星と星の間に、線を引く。平面の星空に、具体的な生き物の形が浮かび上がり、星空が今度は海原のように見える。ここは海洋惑星だから、やっぱり海の生き物の星座が多いのだろうか。
「それに星座には、その惑星の歴史や文化が秘められているもの。星座からその惑星のことを知るのも面白いのよ。でもうっかりすると、膨大な惑星の膨大な歴史に入り込むことになっちゃうんだけど」
「ああ、確かに全部把握しようとするのは無理だな〜。一生が終わっちゃう」
きっと膨大な量の神話が、この星海には眠っている。膨大な数の星々それぞれに、膨大な量の神話が。
「そうだ、昔の船乗りたちは、星座を頼りに航路を決めていたらしいね」
「そうなのよ! だから、船から星を見るっていうシチュエーションには憧れもあったの。なんだか素敵でしょ?」
よく知られた話だ。星々が開拓の銀軌によって繋がれていなかった時代、生命体は空に浮かぶ星々の位置から自らの位置を把握し、航路を決めていた。
例えどこにいようとも、カンパニーの技術で自身の位置を正確に把握できる今の時代においては、神話のように遠い過去だ。あるいは、まだ開拓されていない星系や、船を日常的に使う惑星では、同じような方法が未だ受け継がれているのだろうか。
トパーズは星空と、そこに引かれた仮想の線を見る。
この天球において、星々は平面上に位置している。実際の星間距離はそこに表れないし、問題にもされない。この水分子の海の上だけを旅し、星海に飛び出さないならば、星々への認識はそれで良かった。けれども。
(けれども、天球上は近く見える星も、……実際にはとても遠い)
あの大鯨座の背に三つ並んだ青い星々は、確かにこの惑星から見れば随分と近く、三つ子のように見えるけれど、実際は全く関わりのない、別の星系に位置する星たちだ。確か、交易関係もなかったはず。
「トパーズさん?」
「ああ、ううん、ちょっと考えていただけ。あの星と星の間は、実際はすごく遠いから、なんだか違和感があって」
「ああ、そうね」
アスターは相槌を打つ。
「でも、だからこそ星座って興味深いのよ。暦も寸法も、各惑星間で統一された規格が広まったけれど、この星間交流時代にあっても〝統一された星座〟なんて存在しない。だって作れないもの。各惑星から見た星空は全く別の見え方をするから、作りようがないのよね」
「ふうん……」
じゃあ、代わりに星々を繋ぐ、どの星から見ても変わることのない線は航路かもしれない、とトパーズは思う。
星々は今や、もっと実際的な線——星間交易路によって繋がれている。それは星々を実際につなぐ航路であり、その大部分はカンパニーが決め、引いているものでもある。
トパーズ達が最も慣れ親しんでいる星々の関係の捉え方。
この世界の見え方。
「この時代の共通の星座は、カンパニーの航路なのかもね」
そう言ってみれば、アスターは首を傾げ、納得のいかない顔をした。
「さすがに夢がなさすぎない?」
「そう?」
「だって、なんだか当たり前すぎるし、現実的すぎるわ」
「え〜、星と星を実際につなげる航路って、実はかなり夢のある話じゃないかな?」
「それはそうかもしれない、けど」
アスターは眉をしかめた。
「でもそうなると、ピアポイントから星座を見ようとしても、もう視界が線で覆い尽くされちゃうわ」
「それは確かに!」
トパーズは笑う。
「じゃあ、星穹列車の銀軌かな?」
「ああ、それは良いわね。……でもそうなると、列車の銀軌ってどういう航路を描いてきたのかしら?」
「うーん、列車は随分あっちこっちに飛んだりしているから……なんだか、結構ぐちゃぐちゃの線になっちゃいそうだね。難しいなあ……」
そんなたわいもない話をしつつ、夜は更けていった。
星々の位置の移り変わりはゆっくりだ。
トパーズは星空を見ることに少し飽きて、横のアスターを見る。彼女は変わらず瞳を輝かせ、星を追っている。
星を追うことの代償は、彼女にとってどのようなものだろう。
あるいは、星の観察だけに没頭できないということが、彼女にとっては代償なのかもしれない。
研究にかける情熱は、トパーズには分からない。トパーズも数字ゲームは確かに得意だけれど、だからといって何かの数学的難問を解き明かしたいという欲も熱心さもない。星間市場で株を操るのは確かにかなり好きだけれど、けれどももう仕事で得られるお金には十分満足している。トパーズはただ、生態艦の皆と平穏な暮らしが送れればそれで良い。
仕事で成し遂げたいことは一つだけだ。故郷のように、破滅の危機に瀕した星々を救いたい。例えば、この星のように。
その意志があるから、トパーズは今十の石心にいる。
それによって失われる価値も代償も、プロジェクトが成功しなかった場合に星がどのような末路を辿るかも、もうトパーズは理解していたけれど、それでもなおそう思っている。
トパーズは観測用の寝椅子に横になって、星空をぼうっと見上げた。
こんなにたくさんの星を、スターピースカンパニーは繋いでいる。
いや、この天球上に見えているよりも、もっと巨大な星図を——もっとたくさんの星々を繋ぐ線を、カンパニーは引いている。
宇宙に存護という絶対秩序を築くために。
少し、意識が遠くなってきた。
少し、瞼を閉じる。
星々の瞬きが見えなくなって、真っ暗な闇の中に落ちる。
波のざわめきと、精霊たちの微かな歌声だけが聞こえる。
そのままふっと意識が遠のく感覚がして、横のアスターが微かに笑う気配がした。
*
たぶん、夢を見た。
暗い海の中で、トパーズは泳いでいた。
光る星々を追いかけて。
星と星の間に、線を引くために。
この星々の光を絶やさず、つないでいくために。