「僕も初めて見た時には驚いたなぁ。でも食べたらみんな、こういう美味しさは初めてだって言うんだ」
―― 588「星飾りと燃えるケーキ」
*
綺麗な深緑色の扉が、からりと音を立てる。
甘く香ばしい匂いとともに、一礼をして客人を出迎えた妖精は、こちらを見ると途端にしかめっ面をした。
「やあ、モンド。彼女はどうかな?」
「……お前さんなあ」
「えー、また駄目なの?」
首を振ったモンドに苦笑してみせ、何も知らない今の恋人に微笑みかける。
「彼がね、かわいい子がいたらぜひ紹介してくれっていうからさ」
「あらまあ、そうなの?でもネイ、私にはネイがいるでしょう?」
「……ネイ、俺にも伴侶がいるんだが」
「あはは、冗談だってば」
奥から出てきて、怖い顔でこちらに首を振った可愛い妖精にも笑いかけ、案内された席についた。
豊かな森の系譜の気配で満ちた、きらきらと美しい内装に、恋人が感嘆の声を上げる。
今の恋人は、クロッカスの妖精だ。
巻き毛がかった髪はきらきらときらめき、瞳はくりりと美しい。
花の妖精らしく気紛れで残忍だが、ノアベルトが今しているほどの悪い遊びはしないし、もちろんノアベルトが塩の魔物であるということも知らない。
ウィームとノアベルトの関係も、この店とノアベルトの因果ももちろん知らない。
美しくて一緒にいればそこそこに楽しいが、それだけだ。
(……また駄目かぁ)
見かけ上そつなく微笑んだまま、それでもふうっとため息をつきたくなった。
あの統一戦争の後、炎を扱うここの妖精たちの存在が気に入らなくて、もろとも壊してしまおうとした日のこと。
ノアベルトをなんとかやり込め、対価として魔術契約を科したのは、この店主のモンドだった。
いつかきちんと長く付き合う相手をこの店に連れてきて、彼らに認めてもらえれば、この店特製の燃えるケーキが振る舞われ、契約は清算される。
なんてことのないような約束だが、相手ができずいつまでも認めてもらえない場合、契約はずっと残ったままになってしまう。
未完のままの魔術契約は魔術の傷になってしまい、万が一のときの致命傷にならないとも限らないので、好ましくはない。
だから今はときたま、そのときどきの恋人と共に、気まぐれのようにここに足を運ぶ。
しかしどうにも、清算への道筋は見えなかった。
「お待たせしました」
水と軽いデザートが振る舞われ、遅れて例の白いケーキが運ばれてくる。
彼は毎回首を横に振る代わりに、特製のケーキは律儀に振る舞ってくれるのだ。
遠くから、ケーキ皿の上で瞬く炎をちらりと見て、そっと認識疎外の魔術をかけた。
静かに肩が強張ったことに、モンドは気づいただろうか。
微かに皿が置かれる音が響く。
「まあ、本当に燃えているのね!なんて不思議なのかしら……あなたは本当にいらないの?」
「……うん。甘いものは得意じゃないしね」
「こんなに素敵なケーキなのに!」
連れてきた恋人の誰もがこんなおいしさは初めてだというケーキを、ノアベルトはまだ食べたことがない。
燃える炎は今でも嫌いで、温かい食事ももう取れなくなった。
以前のようにおいしいものをおいしいと感じなくなってしまったので、別にどうでもいいことなのかもしれなかった。
それでも、手間と苦痛を秤にかけても、ときたまこの店を訪れるのは、確認のようなものだ。
確かにそこにあるはずの炎を見つめ。
あの燃え盛る絶望の炎が頭をよぎる。
身が裂けるような絶望と憎悪は今でも鮮明に覚えることができるけれども、いつしか淡い淡い絶望だって増えた。
淡々と。
淡々と、絶望は降り積もり重なるように。
(――僕はずっと、このままだ)
昔から。
楽しいときは楽しいし、涙を流す恋人に同情することもある。
しかしそれが長く続くことはなく、いつの日か興味はなくなっていく。
いつだってそうだった。
たくさんの恋人も、たくさんの友人も、いつだって最後まで一緒に寄り添うことはない。
いつの日か飽きてしまうし、いつの間にか傍にいなくなっているのだ。
昔は何も考えずに、心臓がないせいだと笑って言っていたけれど、心臓があったころだって振り返れば同じだった。
いつだって、ノアベルトの傍にずっといてくれる者はいなかった。
ようやく見つけたような気がしていた。
ようやく見つけたような気がしたのに。
あの手を取り逃して、自分はこのあとずっと、どこに行けるだろう。
自分の愚かさで永遠に失ってしまったのだ。
あの日からずっと、動けないままだ。
店から出ると、雪がひらひらと降っていた。
その清廉な光景に、目を細める。
いつだって、ウィームの雪景色は美しい。
あの日の荒れ果てた姿から随分と綺麗になりつつあるウィームに対し、自分は酷く薄汚れて変わってしまったように思えてならなかった。
恋人とは適当に理由を付けて別れ、雪が舞い降りるウィームの街中をあてもなく歩く。
雑踏のにぎやかさが、幸福そうな笑い声が、遠い遠い世界の御伽噺のように響いた。
(もう、ここに来ることはないかもしれない)
何度かここに通って、ようやく理解したことがある。
今の自分の関わり方では駄目なのだ。
であれば、魔術の傷がいつまでも残るとしても、ずるずると試し続けるよりも、もう諦めてしまおうか。
自分とぴったり合って、ずっと一緒にいてくれる者など、もう現れることなどない気がした。
(ああ、でも――)
『……僕に何をかけるんだい?』
『魔術契約だ。お前さんがいつか大切な相手をここに連れてきたら、俺達はケーキを振る舞う。それで契約が果たされ、お前さんが俺の伴侶を殺そうとした罪は清算される。妖精の呪いの代わりだ、悪くないだろう?』
『……意地悪だなあ。その大切な相手が、できなかったらどうするんだい?』
『できるさ。できるに決まってる』
『随分と、確信を持って言うんだね』
『ああ。――お前さんにも、大切なものはまたきっと見つかるさ。俺はそう思う』
確証などないはずなのに、まなざしをぴたりと合わせて、何故か彼はそう言ったのだ。
だからこそ、彼らを壊そうとした手を止めたのかもしれなかった。
「でも、このざまだよ、モンド」
一人、呟く。
この契約が、いつか果たされることなどあるのだろうか。
自分にもいつか、大事な人などできるのだろうか。
この憎しみが和らぐことなど、あるのだろうか。
いつか、炎が怖くなくなるときが、くるだろうか。
それでも、いつか救われたいと思うと同時に、彼女をいつまでも忘れたくないとも思ってしまうのだ。
あのラベンダー畑で、不思議な煌めきで微笑んだ、彼女のことを。
*
ウィームの川沿いの、細い路地の先に、その深緑色の扉はある。
永遠の刻をたたえているかのように、もう遠い昔の記憶となった頃から変わらないまま、確かにそこにある。
「見つけました!あそこです!」
ネアが大はしゃぎで扉を開け、三つ編みを引っ張られているシルハーンがうっとりと続き、ノアベルトは苦笑して後ろを振り返る。
「ほら、エーダリアもヒルドもおいでよ」
「あ、ああ。この店は初めて知った……」
「私も、ここは初めてですね」
ここに来るのは初めてだという家族たちと、モンドの店を訪れているのだ。
ネアとシルハーンと訪れてから少し経ち、何かと忙しいエーダリアとヒルドとも一緒に行きたいかもとネアにこぼしたところ、いいではないかと全員の休みを一致させて行くことになったのだ。
決行前夜はそわそわとして人型では眠れなかったので、銀狐姿でヒルドの元に駆け込んだのは記憶に新しい。
出がけの際に元の姿に戻ることを忘れていてけばけばになるという一幕もあったが、ぬくぬくとした温かさに満ちていて幸せだった。
「いらっしゃいませ」
出迎えてくれたモンドは、微笑みを深めて一礼した。
深い森の気配で満ちた空間に、エーダリアとヒルドが目を瞬かせたのが分かる。
いつ来ても細部まで磨き上げられ、十分に手入れされているこのお店は、森の年月の重なりで満ちていて、巨木のうろに入ったかのような安らいだ心地になる。
家具や小物もこだわりのものを取り揃えていて、エーダリアが興味深そうに覗き込んでいる一部が結晶化した机も、ネアがお気に入りだと大はしゃぎをしている宝石のような木の革のメニュー表も、一介の妖精が手に入れようとすれば結構な労力がかかるだろう希少なものだ。
あの日は何の感慨もなく、これらを壊してしまおうとしたのだった。
「私は、春結晶の水と、花雫の紅茶にします!」
「夜明けの水と、流星の紅茶かな」
「私は氷林檎の水と、夜虹の珈琲だな」
「では私は、晴れ間の水と、雪残りの森の紅茶にしますね」
「僕はね、木漏れ日の水と、星宿りの珈琲で」
水と一口デザートが振る舞われ、いつものようななんてことのないおしゃべりをする。
このなんてことのないおしゃべりは、いつかの昔にはこんなものが得られるとは思ってもみなかったもので、その昔、復興しつつあるウィームを歩いたときに感じた、見知らぬ誰かにとっては当たり前の幸福を遠い遠い御伽噺のように感じる感慨は、いつしかなくなっていた。
「あ、ケーキが来ましたよ!」
やってきたケーキに、ネアが感嘆の声を上げる。
エーダリアが目を輝かせ、ヒルドも珍しく目を見開いている。
たたずまいは優美な白いキャンドルのよう。
ここに来て初めて目にすることができたときには、そのシンプルだが考え抜かれた造形に感嘆したもので、もうすっかり自分を脅かすものではない炎は怖くなくなってしまった。
「本当に燃えているのだな……不思議なものだ」
「ええ、うちの自慢のケーキなんですよ。どうぞ、お召し上がりください」
モンドはウィームの領主にも自分達のケーキを食べてもらえることが嬉しいらしく、目元の皺を深めた。
契約者が大事にされているその様子に、ノアベルトまで嬉しくなる。
「モンド、こないだは紹介できなかったけど、この二人とも一緒に暮らしているんだ。僕の家族なんだよ」
もう契約は清算されたので必要はなかったのだが、これは儀式のようなものなのだ。
エーダリアとヒルドをそう紹介すると、彼は喜びを噛み締めるかのようにくしゃりと笑って頷き、ノアベルトの肩をばしりと強く叩くと、一礼をして去っていった。
五つの皿が丁寧に置かれ、ケーキの上の炎が蝋燭のように揺れる。
優しい優しい五つの光がテーブルの上に満ちて、森の隠れ家のような空間のあちこちにも、イブメリアの祝福のようなきらめきを落とす。
「……ノアベルト。大丈夫なのか?」
しばらく机の上を見て固まってしまったからか、心配げにこちらを見やるエーダリアに、微笑んで首を振った。
「……ううん、こういうのはもう平気なんだよ。…………なんだろう、すごく、……すごく、幸せなんだ。…………ありがとう」
そう告白すれば、皆がふっと顔を見合わせて微笑んで、つられてノアベルトも微笑みを深めた。
ここにいるのは、大事な家族たちだ。
この温かい炎は幸福の象徴だ。
自分がようやく見つけたものだ。
その幸福さに、たまらない気持ちになる。
200年間の悪夢の頃は、こんな形に辿りつくとは思っても見なかったけれど、今の自分は間違いなく、とてつもなく幸せだ。
「さて、それではいただきますね……じゅるり」
「えー、もう食べちゃうの?もったいないなあ……」
「おいしいものはいただいてこそですからね!」
しゅるりとケーキにスプーンを通せば、炎がじんわりと消える。
ぱくりと口に含めば、じゅるりといとおしい甘さが口の中を走り、心が満たされる香りが鼻腔を駆け巡った。
ここに辿りついてから、おいしいものが増えた。
自分に向けられる愛情込みの食事は、なんて甘美なものなのだろう、ということも知った。
この味のことも、もう絶対に忘れることはないだろう。
帰り際、モンドはまたくしゃりと微笑んで、よかったな、とだけひっそりと告げた。
あまりにも優しい温度のその微笑みに、ついつい泣きたくなる。
ここに居着いてから、心のどこかが柔らかくなりっぱなしだ。
「……ねえ、またみんなを連れてさ、ここに来てもいい?」
「……本気の相手ならな。いつでも歓迎する」
「もちろんだよ!」
今日こうして家族たちと幸福なひとときを分かち合えたのは、あのときこの妖精達を壊してしまわなかったからで、それは少しでも、ほんの少しでも、モンドの言葉を信じてみたかったからかもしれなくて。
だからノアベルトは、あの日、モンドが賭けてくれた言葉に、つい最近まで未完のままだった契約に、心から感謝している。