5 stories about tea

32335文字

紅茶にまつわる5連作(旧題:紅茶5連作)。 2025/6/15刊を再録しました。

目次

1.はじまり
 …紅茶を初めて飲む話。
2.ブレンドティー
 …紅茶の買い付けの話。
  注:創作の茶商人が出ます。
3.ローズティー
 …初夜の翌朝を迎えたアズジェイの話。
4.ホテルにて
 …アズールが一人で紅茶を入れる話。
5.ミルクティー
 …ジェイドの山小屋とアズールの話。
 
 
 
1.はじまり
紅茶を初めて飲む話。

 こぽこぽと音を立てて、赤く美しい液体が注がれる。
 慣れた手つきのアズールを、ジェイドは興味津々で眺めていた。見慣れない道具を器用に扱うその様は、どこか神聖でさえある。
「これなに? アズール」
 フロイドがそう問うた。ジェイドはその答えを知っていたけれど、ただ黙って目の前の赤い水面を見つめていた。見るのは初めてだ。
「紅茶ですよ。陸の飲み物です」
 その声は随分と上機嫌そうだ、とジェイドは思う。
 陸に上がってから、アズールは随分と上機嫌だ。気持ちは少し分かる。陸では蛸だからと難癖をつけてくる誰かもいないし、死なないように気を張って行動する必要もないし、人魚にとっては初めて経験することだらけで、とても刺激的だし。
 それに陸には、海の中の昔のことを知る誰かもいない。ここの二人を除いては。
「うーん、なんか……変な香りすんね」
 フロイドはそう眉を寄せながら、スンスンとその液体に鼻を近づけた。
 確かに独特な香りがする。変身薬のように激烈に嫌な臭いというわけではないが、嗅ぎ慣れない香り。海の中で知ることはなかった香りだ。……海の中ではそもそも、嗜好品の液体、というものが少ないのだけれど。
「これ、飲み物? ってことは、これを飲むの?」
「貴方のお店にも、出そうとしているものですよね」
「ええ。その予定です」
 アズールが持つティーポットから最後の一滴が垂れ落ちて、小さな水面に波紋を落とす。どうぞ、とアズールが声をかけた。
「もういいですよ」
 ジェイドとフロイドは顔を見合わせて、そろりとカップを手に取り、同時にその液体を口に含んだ。
「…………あっつ!」
「…………ぁ、つい、です」
「そんなに熱かったですか?」
 なんとか吹き出すことだけは避けて嚥下する。信じられない。これはもしかして、アズールの普段の鬱憤晴らしだろうか。横を見ると、フロイドも同じ顔をしている。
 二人のその愕然とした表情に、アズールはフフと嫌な笑みをこぼすと、煽るように優雅にカップに口をつける。その慣れた様子が妙に腹立たしくて、ジェイドはじとりと睨んだ。
「貴方はもう、こういうのに慣れっこなのですね」
「まあ、僕は経験がありますから」
「……うそでしょ……アズールの喉どうなってるわけ? 俺、まだ舌がビリビリすんだけど」
「……僕もです。ウツボにしか効かない毒でしょうか……?」
「えっ……アズール、俺らのこと毒殺しようとしたわけ……?」
「おい、やめろ。乗るな。違いますからね。ただ単に、お前たちがこういうものを飲んだことがないだけでしょう。僕を殺人未遂犯にするな」
 フロイドと二人、ふるふると震え上がっていれば、アズールは大仰にため息をついた。そうしてニヤリと笑う。
「まあ、早く慣れてくださいね。なにせお前たちには、こういう飲み物を嫌というほど入れてもらうことになるんですから」
 フロイドがげーっと声を上げる。ジェイドはやれやれと肩を竦めてみせた。今後またこの飲み物に向き合うことになるのかと思うと億劫で、それでもどこか楽しみでもあった。だって、アズールのはじめることだから。

 それがはじまりだった。
 初めて飲んだ紅茶は、正気を疑うほどに熱くて、変な香りがして、——それでも、何かを予感させた。
 
 
 
2.ブレンドティー
紅茶の買い付けの話。
注:創作キャラががっつり出ます。

「こちらは?」
 そう問えば、目の前の学外からのご客人——茶商人は微笑む。
「薔薇の王国の今年の茶葉です。こちらのロットは、他に類を見ない華やかな香りが特徴的ですね。他には、こちらの茶葉も今季のものです。同じ産地ですが、こちらのロットは優しい香りで良い水色が出るんですよ」
「へえ…… 本当に華やかですね。こちらは、後味がすっきりとしている」
「ええ。他には、目新しさという観点でしたら、変わり種のこちらもおすすめですよ。輝石の国の香草を使ったフレーバーティーです。汎用性には欠けますが、これからの季節にぴったりかと。配合が異なるものが複数ありますから、用途に合わせてお選びいただけますと」
「ふむ。爽やかで独特な風味ですね。焼き菓子によく合いそうです」
 ふうん、とアズールが少し悩んだ様子だったので、すかさずジェイドは口を挟んだ。
「アズール、新メニューと合わせることを考えるのであれば、一番最後のロットにするのがいいかもしれません。肉料理ですから、この渋みがちょうどよく合うかと」
「そうですね。……では、いつものロットと、……ええ、その新作のロットを、定量でお願いします。フレーバーティーの方は、この2つを試しに半量ずつください。評判が良ければ、また仕入れさせていただきたい」
「かしこまりました。では、今日お買い上げいただいたものは郵送にてお送りさせていただきますね」
 商人はにこりと微笑んだ。商談成立だ。

 モストロ・ラウンジの茶葉の買い付けは月一だ。
 定期開催のフェアは月一交代であること、茶葉の鮮度は一ヶ月目安であること、贔屓にしている茶商人はなかなか捕まらないこと。もろもろを鑑み、このようになっている。
 定期買い付けの日には、こうやって茶商人がやってきて、時期に応じたさまざまな産地の紅茶を紹介してくれる。茶葉に特化した商人である彼は、普段あちこちの産地を飛び回って自ら選定し仕入れた茶葉を顧客に売り歩いている人間で、アズールが自前の伝手を辿って取引するようになったのだった。紅茶界隈では有名人である彼が学生の小さなビジネスに付き合っているのは、ひとえにその伝手の経緯と、彼自身もアズールに将来性を見込んでいるからにほかならないのだろうとジェイドは思っている。
 最近はこの定期買い付けに、ジェイドが同席することも多くなってきた。アズールに紅茶の知識を見込まれたのだ。
「最近は輝石の国の名をよく聞きますね。面白いブレンドが多くて、大変興味深いです」
「ええ。元々茶葉の栽培は行われていたのですが、最近は香草と合わせたブレンドが一気に注目され始めたところなんです。今後も色々と出るでしょうから、気に入られましたらまたお持ちしますね」
 彼は、商売人として付き合いやすい相手だった。学生相手であろうと商売人としての振る舞いを崩さず、茶葉の知識や今のトレンドを丁寧に教えてくれる。にこにこと楽しそうにこちらを見ているのだけは「少し気味が悪い」が、そういう人なのだろう。ジェイドもよくそう言われるのだし。
 アズールがさらさらと注文書を書いている横で、ジェイドは声をかけた。
「すみません、茶葉を少々私用にも買い付けさせていただけませんか?」
「ええ、もちろん構いませんよ。気になりました銘柄は?」
「では、今回購入しなかった分の茶葉二種と、こちらのフレーバーティー三種で。一缶ずつでお願いしたいです」
「ええ。手元にある分でよろしければ、この場でお渡ししますね。ああ、こちらとこちらのサンプルも、おまけで入れておきますので、よければお試しください。
 ……ではまた何かありましたら、いつでもお声がけください。末永くご贔屓に」

     ○

「また色々と買い込みましたね」
 紅茶商人の見送りを終えた後、よそゆきの仮面を脱ぎ捨てたアズールから声をかけられた。少々気恥ずかしくなる。浮かれすぎたかもしれない。
「興味深いものが多かったものですから。……それにしても、よい商売をしてくださる方ですね」
 アズールは呆れたように、フンと鼻を鳴らした。
「ええ、すごいお方なのは同意しますが。ただ、あの方は単純にお前が気に入ったんですよ」
「おや、さしもの僕もアズールには敵いませんが」
 さすがですねえ、なんて少し意地悪げに言われたものだから、眉を下げてそんなことを言ってやった。ジェイドからしてみれば、その商人と定期的に商談を取り付けられているアズールの方がすごいと思うのだが、本人は「ただの伝手です」とでも言うのだろう。
「では、僕はもうラウンジに行きます。お前は? 非番ですけど」
「そうですね……予備のスタッフルームをお借りしてもよろしいですか? いただいた茶葉を試したいので」
「……好きですねえ、紅茶」
「ええ。後でアズールにもお持ちしますね」
「お願いします」
 アズールは肩越しにひらりと手を振った。その、あまりにもジェイドが紅茶を入れることを当然としている様子に、思わず笑みがこぼれる。
(今日は何の紅茶を入れましょうか)
 新しく仕入れたものにしようか、それとも以前反応が良かったものにしようか。そんなことを考えた。

     ○

 誰もいないスタッフルームで、ジェイドは茶葉の仕分けをしている。
 ひっそりと空気を吸い込み、匂いを嗅いでいく。たくさんの茶葉の香りと、そこに混じる果物の香り。薔薇の香り。スパイスの香り。干ししいたけの香り。
 陸の匂いの区別がつくようになったのは本当に最近のことだ。
 今のジェイドならば当然だろうと苦笑を漏らしてしまうようなことを、あのころのジェイドは知りもしなかった。

     ○

「ジェーイド? 締め作業終わったけど……なにやってんの?」
「フロイド。個人的な作業を、少々」
 もう帰ろうかと思っていたフロイドは、奥の部屋に片割れの姿を認めてどすんと対面に腰掛けた。ジェイドの作業を見たい気分だったのだ。
「それなに? 新しい紅茶? 見たことねえんだけど」
「ええ。今回、ラウンジでの仕入れに合わせて、僕が個人的に買い付けたものです。あと、サンプルの頂き物も」
「あー。今日だったんだ」
「ええ。ですからいろいろと試したくて、ここを使わせてもらっているんですよ」
 机には試飲用のシンプルなポットがずらりと並んでいて、その横にメモ書きがある。さらりと目を通して、フロイドはそれ以上見ることをやめた。どうせ全部ジェイドの頭に入っている。
 片割れはしばらくとても熱心に、紅茶の研究に取り組み続けていることをフロイドは知っている。そのやり口は自分たちによく馴染んだものだが、側から見ている分には紅茶の魅力はよく分からない。まあジェイドにとってのパルクールも似たようなものだろう、とフロイドは思った。そして、山趣味よりはマシだ。
「ねえ、オレも飲みたい」
「おやおや……もちろんいいですよ」
 フロイドにとってジェイドの紅茶は飲みたい日も飲みたくない日もあるが、今日は前者の日なのだった。

「こちらが今までの紅茶、こちらが今日買い付けたものです」
「あー。新しいやつの方が、すっきりしてんね。次の新メニューに合いそう」
「でしょう? ……こちらは、新しく仕入れたフレーバーティーです。輝石の国の香草が入った新作なのだとか」
「ふうん……変なにおい」
「お気に召しませんか?」
「うーん……キノコみたいにものすごくいやってわけじゃねーけど。陸ってにおい独特だよね」
「こちらは? 同じ産地のものですけど」
「あ、これは好き」
「なるほど。ではこちらは? 複数の茶葉を配合してみたんですが」

     ○

「で? なにしてんの」
 そう聞いたのは、あらかたフロイドの気が済んでからだった。よくよく見ればジェイドは、市販品を入れるにとどまらず、あれこれと茶葉を混ぜている。片割れは散々フロイドの繊細な舌——ただし気分のときに限る——を実験台にしてくれたらしい。別にいいのだが。
「オリジナルの紅茶を作れないかと思いまして。ブレンドの勉強をしていたんですよ」
「ふーん」
 ブレンド。あれか。異なる茶葉を混ぜて、独自の銘柄として仕立てること。アズールも言っていたような。そうしてフロイドは当然の疑問を口にした。
「アズールには見てもらわないの?」
「僕がもう少し、満足するものを入れられるようになってから、でしょうか。あれこれと付き合わせるのも悪いでしょう?」
 何となく理解した。完璧なものしかもっていきたくないのだ、この片割れは。試行錯誤の形跡を見られることを、妥協品を人前に出すことを、このジェイドはことさらに嫌う。フロイドがここにいるのを許されたのだって、フロイドは気分屋だからまあ仕方ありませんねと思われている節もある。
 アズールはこのジェイドの癖を知らなさそうだ。ジェイドは隠すのがうまいし、アズールはそれを気にとめる余裕もないのだろう。そういうふうに変なところですれ違い続けるのがこの二人なんだろうな、とフロイドは思った。そして、フロイドはこの二人のことが好きなのだった。だっておもしれーから。

     ○

 フロイドはあれこれと感想を述べて、満足した段階で去って行った。さすがにこれ以上は付き合い切れないらしい。
 取り残されたジェイドは、フロイドの感想を書き留めつつ、再び大量の試飲ポットに向き合う。
『いつか、店独自のブレンドをつくりたいですね』
 アズールがそう言ったのだから、ジェイドがそれに向き合うのは当然のことだった。

     ○

「アズール、お持ちしました」
「……ああ。今日は遅かったですね。何をしていたんです?」
「あれから、いただいた茶葉を試していました」
「ずっと?」
 アズールは眉をひそめて、ジェイドが差し出したカップを手に取った。一口含み、はっと表情を綻ばせる。
「……うっま……茶葉の配合を変えましたか? さすがですね」
「おや、それはよかった。恐縮です」
 ジェイドはふふ、と笑みをこぼした。アズールのその言葉が好きだった。
 
 
 
3.ローズティー
初夜の翌朝を迎えたアズジェイの話。

「おや、アズール。お目覚めですか?」
「じぇいど……?」
 その涼やかな低い声に、重い目蓋を開ける。窓辺から、ちらちらと朝のきらめきが差していた。……なんとなく、いつもよりも綺麗で、新鮮なものに感じる。
 身動ぎして上体を起こして、目をこする。体には気だるさが残っていて、その倦怠感から昨夜あったことを思い出す。初夜だ。ジェイドとの初夜は昨夜、無事つつがなく成功した。成功したのだ。
「……おはようございます。お前……、まだ寝ていていいのに」
「おや、朝寝坊を推奨とは、貴方にしては珍しいですね」
「……、」
 ジェイドは完璧な佇まいでそこに立っていた。寮服をきっちりと着こなして、隙のないメイクで武装した、いつもと変わりないジェイド・リーチの姿。
 お前、なんで、朝っぱらからそんな格好、と言いかけた言葉を飲み込んだ。視界に入った時計の針から、普段より遅い時間に起きた自覚をしたのだ。まあ、今日は休日ではあるのだが。
 まだ覚醒しきっていないアズールの鼻腔に、ふわりといい香りが漂う。紅茶の香り。朝のジェイドが連れてくるいつもの香り。そこに混じり込む、どこかいつもと違う香り。
「アズール、紅茶はいかがですか?」
「……紅茶……? ああ、お願いします」
 いつの間に何をどこまで準備していたんだとか、起きるの早くないかとか、起こしてくれてよかったのにとか、すべてを疑問に思う暇もなく、ジェイドはさっと紅茶を注いだ。いつも通り、手際がいい。
「……これ、珍しい茶葉ですね。ローズティーですか?」
「ええ。さすが、よくお分かりで」
 ベッドに腰かけたまま、ジェイドが差し出してくれた紅茶を、まだぽやぽやした頭で飲む。清々しい朝に飲む恋人の紅茶は、もっといえば初夜が成功した翌朝に飲む恋人の紅茶は、素晴らしくおいしかった。そうしてぽやぽやしていた意識が次第に覚醒してきて、わずかに感じていた違和感がとてつもない違和感に変わってくる。
 ジェイドはいつものように——いつもアズールのドアをノックして紅茶を入れにやってくるときのように、如才なく待機している。視線が合うと、にこりと微笑まれた。なんでこいつはもうよそゆきの顔になっていて、僕の隣にいないんだ。
「おかわりをお入れしましょうか? それから、朝食も用意していますよ」
「朝食……」
 アズールは愕然と、ティーワゴンに鎮座していた皿の上を見た。
「はい。スープとサンドイッチをご用意しました。合計で三百六十一カロリーです」
「……どこから持ってきたんです」
「寮のキッチンをお借りしましたが」
 いつものことでしょう? と言いたげに、ジェイドは小首を傾げてみせた。ははあ。その何もわかっていない様子に、ため息すらも惜しい気がした。つまりこの男は、初夜の翌朝にベッドから抜け出し、アズールをほっぽったのである。アズールはそれに気づかなかったのである。目の前の完璧なモーニングセットとは裏腹に、アズールの神経はちくちくとささくれだつ。
 昨日はそういう夜だったのに。ジェイドとアズールが初めてを迎えた、特別な夜だったのに。事後のジェイドは若干落ち着かない様子ながらも、倦怠感と安堵からか、すとんと寝入っていたのに。アズールはその様子を、高揚感とともに見つめながら眠りに落ちたのに。
「……お前は? お前も、朝はこれからですか?」
「僕もまだです。貴方とご一緒しようかと」
「じゃあ、一緒にいただきましょう。そこに座ってください」
「ええ。承知しました」
 アズールは気を取り直した。まあ、こういうやつなのだ。今さら言っても仕方がない。次こそは僕が朝食まで準備しようと心のメモに固く書きつけて、ひとまずジェイドが入れた二杯目の紅茶を手にとった。
「……そういえば珍しいですね、ローズティーなんて。どこの茶葉ですか?」
 それは単純に非情な現実から目を逸らすための問いだったが、気になったのも事実だった。
 ジェイドは一瞬目を丸めて、花が咲いたかのように笑った。思わず瞠目する。
「ええ。先ほどブレンドしたんです」
 さっきブレンドしたのか……とまた思ったが、追及はやめておいた。そういう男なのだ。
 こちらですね、とジェイドが取り出した缶の中をまじまじと見る。
「薔薇のつぼみ入りですか。……待て。青薔薇?」
「ええ。この間、リドルさんから融通していただいたものなんです。気に入られましたか?」
「へえ。華やかな香りでおいしいですし、見目もいい。青薔薇というのは意外性もありますし、茶葉が見えるガラスポットなんかで出すのもいいかもしれませんね。見栄えに飛びつく層に、特にウケがよさそうだ。仕入れ方法等は後で相談させてください」
 それにしても、ジェイドは本当に紅茶の研究が好きだな、とアズールはしげしげと思う。ジェイドの興味が発揮される先はよく分からないことが多いが、この紅茶に関してだけは大変助かっている。アズールだって紅茶は好きだが、入れ方や茶葉の配合を研究するより、単純に飲むことの方が好きだ。
「それにしても、わざわざ青薔薇なんてどうして、」
 とジェイドを見たところで、あ、と嫌な予感がした。頬を赤く染めて、常ならいつだって噛み合うはずの視線が外されている。昨日よく見た表情だ。
「……朝起きて、すぐすっきりと目が覚めました。貴方が隣にいて、まだ眠っていて、僕は無防備な貴方のこんなに近くにいられることが幸せで、……そうして昨日のことを思い出して、とても、とても幸せでどうにかなりそうで、……だから貴方のために紅茶を入れようと思って。……この薔薇を見て、思い出したんです。貴方、昨夜、浴槽にも寝室にも、赤薔薇を散らしていたでしょう」
「…………」
 確かにそうだが、改めて口に出されると妙に気恥ずかしいのは何故だろう。
「コロンも、普段のものとは変えていたでしょう?」
「…………そういう日でしたからね。気合を入れたんです」
「そのことを考えていたら、つい」
 にこりとジェイドは頬を染めて微笑んだ。恋人になってから見るようになった表情だ。うっかりどきりとしてしまう。うっかりかわいいと思ってしまう。
 もうさっきまでおいしいと思っていた紅茶の味も分からない。
「貴方が僕に赤薔薇をくださったので、僕からは青薔薇を。……なんて、言うつもりはなかったのですが」
 今、とんでもない表情をしている自覚がある。ジェイドがニヤニヤと頬を染めたまま笑った。
「ふふ、アズール、とんでもない顔色ですよ。大丈夫ですか?」
「……お前こそ、とんでもない顔をしていますよ。鏡でも見たらどうだ?」
 とりあえず、次の機会には僕が紅茶を入れて、朝食も準備してやろう、と心に決めたことは黙っておいた。
 
 
 
4.ホテルにて
アズールが一人で紅茶を入れる話。

 帳がとっぷりと落ちた夜のこと。アズールは一人、とある都市のホテルに泊まっていた。取引先との新規の商談を成功させるため、単身で出張に来たのだ。
 NRCを卒業後すぐ起業して、何年が経っただろう。立ち上げた飲食業中心の事業は、大小さまざまなトラブルこそあったものの順調に拡大していっている。アズール・アーシェングロットの名は、業界通ならば知っている程度の知名度と影響力を既に得ている。
 とはいえまだそれだけなのだ。
 万人が知っているわけではなく、まだまだ敵わない敵も多い。
 だから明日、今後のステップアップのためにまた一つ、商談を成立させなければならない。英気を養っておかなければ、と一息つくために、ホテルに備え付けられたティーバッグで紅茶を入れた。
 泊まったのは、いわゆる高級ホテルではないものの、新進気鋭の綺麗なデザイナーズホテルだった。洗練されたアメニティに、狭い空間をいかに効率的に使うか考え抜かれた導線。人間らしい寝具へのこだわり。洗練された内装のデザイン。ふと照明の造形を見て、アズールは眉を寄せる。一見何の変哲もないが、これがあるのとないのとでは部屋での居心地よさは全く異なるだろう。その工夫に舌を巻く。ちょうどホテル事業への参入を本格的に検討し始めたばかりのところだが、まだまだ敵わないなと思ったのだ。
 学ぶべきことは多く、知らないことも多い。こうして味わってみなければ分からないことも多い。
 だからアズールは、出先のホテルであれこれ考え込んでいる。
 この先の事業展開のこと。新事業のコンセプトイメージのこと。必要な資金のこと、欲しいコネのこと、立地のこと、スタッフのこと……。そこまで考えて、うっかりその男の微笑みがよぎる。
『アズール』
「……っ、」
 ふっと意識が現実に引き戻されて、とうに紅茶を蒸らす適正時間を過ぎたことに気づいた。しまった。濃く入れすぎた。
 思わず舌打ちをして、カップからティーバッグを取り出した。やたらと濃い水色をした紅茶を煽れば、予想通りの渋さがアズールの口内を満たして、思わず渋面になる。眠気を覚醒させる以外の用途がないものを入れてしまったが、自分で入れてしまった以上、どうにかしなければならない。非常に腹立たしい。
(……まあ、些事ではあるんですが)
 些事ではあるのだ。アズールは自分にそう言い聞かせた。だって、濃く入れすぎようが、あるいは仮にうまく入れることができようが、このホテルに置いてある紅茶をアズールが入れたところで、どうせジェイドの入れる紅茶には敵わないのだから。ホテルに置いてある紅茶のいい悪いではなく——いや、そのいい悪いも確かにあるのだが、ホテルの単なるアメニティにそれを求めることも酷だ——単純にアズールがジェイドの域まで紅茶の入れ方に精通していないことも問題なのだし、そもそもジェイドの入れる紅茶が逐一アズールの好みやそのときの気分に寄り添いすぎていることが問題なのだから。
 そしてアズールが日常的に飲んでいる紅茶はそんな紅茶なので、このホテルに置いてある品々の中で、唯一残念なものとして目につくものといえば紅茶なのだった。
 どうせならばコーヒーでも入れた方が良かったか、と溜息をつく。眠れなくなるのが嫌だったのだが、結局大差なかったかもしれない。
(——ジェイド、か)
 そうして結局、仕事のことを考えていたはずの脳内は、その思考に占拠された。
 忌々しい気分で渋い紅茶を流し込む。
 紅茶を飲むという行為に紐づいた、あの滑らかな手つき。
 アズールに向けられる、あの微笑みとあの低い声。
 あの完璧な紅茶。
 それら全てを思い出して、なんともいえない感情の波が荒れ狂う。
「…………、」
 こういうふうに、アズールが自身で紅茶を入れる必要のある日はたいてい、到底満足できない紅茶を苦い思いと共に飲むのが恒例の流れとなってしまっていた。
 紅茶を飲むという行為が、ジェイドとともに染まってしまったことを思い知らされる。
 ジェイドのいないところで紅茶を飲むとき、どうやってもジェイドの顔が思い浮かぶ。
「……くそっ、」
 なんてあいつは相手の懐に入り込むのが上手いんだろう。
 もう手放せない。
 もう手放せやしないのだ。
 手放せばきっと、アズールの心はこの感傷ごとずたぼろになってしまう。

 いつのまにか蛸の心臓に根を張った、美しい一本の翡翠の花は、もう手放せやしない。
 
 
 
5.ミルクティー
ジェイドの山小屋とアズールの話。

 ふと瞼を持ち上げた。
 オレンジ色の明かりがぼうっと視界に映る。ちらちらと不規則に動いて、ときどきパチパチと弾ける音がするそれは、魔術仕掛けの暖炉の炎だ。寝落ちする寸前に見た様子から変わることはなく、火はずっと同じように燃え続けている。
 だから部屋は十分暖かいはずだったけれど、どこか肌寒く感じて、アズールはウールのショールを羽織り直した。そのはずみで、座っているロッキングチェアが揺れ動く。
 ぼんやりした頭のまま、辺りを見渡した。カーテンを開けっ放しにしている窓に視線をやれば、つい先ほどまで薄紫色だったはずの空は、深い深い紺色に変わっている。木々はどこまでも黒く、その向こうの山々も黒く厳かにそびえ立っている。……そう、ここは山の中だ。アズールはジェイド所有の山の別邸で、休暇を共に過ごすことにしたのだった。
 この家は、人がほとんど住んでいない辺鄙な山奥に位置している。この家の説明は難しい——山小屋や別荘というのが概念としては近しいのだろうが、山小屋というには大きいし、別荘というほど優雅なものではない。ちょうどよい言葉がないのだ。ジェイドの言葉を借りるならば、『ここは僕の研究室、実験場所で、……ううん、隠れ家や秘密基地のようなものでもあるでしょうか』とのことだった。
 この家は、ジェイドが老いた魔法士から格安で譲り受けたのだという。アズールがそのことを知ったのは、ジェイドがこの家を購入して一年ほど経ったころで、ちょうどアズールが仮住まいではない家を買うことを考えていたころで、しかもフロイド伝手だった。当時はアズールとジェイドが恋人になって結構な年月が経っていて、ジェイドはアズールと共に働いていたにもかかわらず、この家のことをまったく勘づかせなかった——アズールと休みが被らないときだけここに来ていたのだという。そこで一悶着あったのだが、その記憶は速やかに意識の底に沈める。今は思い出したくない。
 この家はたぶん、とアズールは眠気が消えないまま思う。この家はたぶん、魔女の家、というのが一番近いのだろう。この家とここのジェイドは、魔法士というより一昔前の魔女や魔法使いに近いありさまをしている。どの公的機関にも属さず、ただひっそりと存在し、人伝手に勝手に囁かれ、恐れられ敬われる魔女のありさまに近いと、アズールはここでのジェイドの姿を目にするたびそう思う。ここは、古くさいけれども驚くほど精巧な魔法道具がたっぷりと仕掛けられていて、常人には理解されがたい研究がずっと続けられていて、その貴重な植物や知識を求めてときたま人が訪れてくる——山の同好同士のつながりは案外侮れないことをアズールはここで知った。アズールの魔女の家がモストロ・ラウンジだとしたら、ジェイドの魔女の家はこの山の家だ。
 その魔女の家に今、ここの主人の姿は見えない。先ほど一緒に夕食をとって、それきりだ。
 ふと大きな風の唸り声が聞こえて、暖炉の炎が一瞬強く燃え上がった。この山奥は随分とたくさんの音で満ちている。パチパチと弾ける火の音。ギイギイと軋む家の音。木々が風に揺れる音に、たくさんの鳥の鳴き声。都会とは全く違う音で満ちているここは、どこか深海に似ている。好き勝手にいろんな生き物がさんざめく音で満ちていたあの世界に。
 鯨の声に似た、獣の遠吠えが響く。この土地に紐づく物騒な民話を思い出す。アズールはジェイドとは違って、この家の外に出ることはほとんどないから、そんな物騒な目に遭遇したことなど一度もないけれど。
 窓の外の空は、より濃度を増した気がした。夜が更けていくほど、星々は輝きを増す。山から見る星は都会の星とは随分と違っていて、どちらかというと海から見る星と似ている。山と海は似ているのかもしれない、というのはアズールがここで過ごすようになってから思ったことだった。だから山というのは、ジェイドにはちょうどよい場所だったのかもしれない。故郷から出てみたくて、それでもその郷愁を忘れられない厄介な人魚にとっては。
 遠くの大きな俊峰は、星々が輝けば輝くほどいっそう恐ろしく黒く見える。ジェイドはあれを見て、いつも目を輝かせるのだ。

 かつてこの世界はジェイド・リーチただ一人のものだった、とアズールは再び訪れた眠気の中で思った。
 そうしてまた目蓋が落ちた。

     ○

 ふと足音を感じて、瞼を持ち上げた。
 独特なにおいが鼻腔をくすぐる。土と汗、菌類の独特な臭気。フロイドが嫌がりそうなにおいのフルセット。
「……ジェイド?」
「アズール、起きましたか。そんなところで寝ていては、体を痛めますよ。もう若くないんですから」
 上階から降りてきたところなのだろう、ジェイドはそう余計な一言を付け加えてアズールの心配をする。一階の居住スペースを除いた上階と地下室、それから外の庭には、ジェイドの趣味のいろいろがみっちりと詰まっている。ここは、趣味が高じて手に入れたジェイドの大きなテラリウムなのだ。だからフロイドがここに来ることは滅多にない。
「寝るのなら、ベッドに入っていただかないと。僕が寝かしつけて差し上げましょうか?」
 そうニヤニヤと笑って軽口を叩いたものだから、ぎろりと睨み上げた。
「……考えごとの途中だっただけです。寝かしつけはいりません」
「ふふ、考えごとでしたか、それは失礼しました。何かお飲みになりますか?」
「いや、今はいい……」
 かしこまりました、とジェイドは首肯して、キッチンの方に消えていく。ジェイド用に何か作るのだろう。まるで子供を見守る親のようだと思って、ため息が漏れた。
 体勢を少し変えて、ゆらゆら揺れる椅子にまた寄りかかる。しばらくその揺れに体を委ねていると、また眠気は忍び寄ってくる。
 ……先ほどの返答は、半分嘘だった。確かに机の上に仕事の書類を広げていたのは事実で、それについての考え事をしていたのも事実だ。けれどもしばらくアズールはただぼんやりと眠っていただけで、そこで脳内を占めていたのは全く別のことだった。柔らかいショールの手触りと、心地よい揺れの感覚と、暖かな暖炉と、この周囲の山のこと。それからここのジェイドのこと。
 ちぎれちぎれに浮上する感傷と、ここに来るまで知らなかった安らかなくつろぎがとろとろとアズールを満たす。例えるならば海の中の蛸壺のようなここを、アズールは密かに気に入っていた。ジェイドの前で言ったことはないが。
 そうしてまた眠りに落ちそうになる。瞼が重く重く、垂れ下がる。確かにいい加減、ベッドに入った方がよいのかもしれなかったけれど、ジェイドが戻ってきたのだからここで一緒に起きていたかった。

     ○

 優しい香りがふわりと漂った。こぽこぽと優しく注がれる水音がする。アズールは瞼を開ける。
 ジェイドが同じテーブルの対面に座っていた。定位置だ。ティーポットとマグカップ、ミルクピッチャーと砂糖入れ、それにペンとノート。こちらの視線を認めて、ジェイドは目を細めて微笑む。
「紅茶、貴方にもお入れしましょうか?」
「……いえ。いいです」
 今はまだ何かを飲む気分じゃないし、それにジェイドはきっと、アズールは断るだろうと予想して自分の分だけを入れたのだろう。マグカップ一人分しか持ってきていないのがその証拠だ。ならば、わざわざ手間をかけさせるほど、自分は面倒な人間ではないし。
 承知しました、とジェイドは首肯して、美しいセピア色の水面に白いミルクを投入する。ティースプーンでとろりとかき混ぜると、セピア色は明るいブラウンに変わる。そして砂糖を二つ分。
 珍しいな、と思った。アズールはミルクと砂糖をそれほど好まないが、ジェイドも似たようなものだと思っていたからだ。
「……珍しいですね、ミルクティーなんて」
「飲みたくなったんです」
「へえ」
 そうして会話は途切れる。気まずさは別になかった。ゆるゆるとしたこの居心地の良さを、ジェイドも感じているといいなと思う。あの我の強い人魚にする心配ではないのかもしれないが。
 ジェイドはミルクティーを飲みながら、何やらノートに書きはじめた。やることがあるのだろう、とアズールは判断して、机の上に散らばった自分の書類を見る。先ほどまでは集中できていたのだが、今となっては手をつけるのがひどく億劫だ。体がまた重くなった気がして、またもぞもぞと椅子の上で体勢を変えて、目を瞑る。
 ジェイドがペンを走らせる音と、暖炉のパチパチという音と、外界の音が響く。
 穏やかな時間だった。
 思考に生じる空白が妙に愛おしかった。
 こんな時間が世界のどこかでは流れていたことを、アズールはつい最近まで知らなかった。
 こんな時間を自分がどこか愛おしく思えるなんてことを、アズールはつい最近まで知らなかった。
 でもここは、アズールの場所ではないのだ。
 その後ろめたさだけが、妙にくっきりと浮かび上がった。

     ○

 やがてアズールは、再び瞼を持ち上げた。今回こそ、意識は随分とはっきりしていた。明瞭な目覚めだった。眠気の欠片はもうどこにも残っていない。
 暖炉の炎は、勢いを失ってとろとろと燃えていた。薪が先から白くなり、ほろほろと崩れかけている。
 さて、どのくらいここで寝ていたのだろう。時計を見るともうとっくにいい時間だった。どうしようもない。アズールは気が抜けている自分が恥ずかしくなったけれど、それでも思考の速度はとろりと落ちたままだ。
 そのまま横を見れば、じっとこちらを見ていたウツボににこりと微笑まれる。
「お目覚めですか、アズール」
「……なんだ」
「いいえ、なんでも。よく寝ていらっしゃったなと」
「悪かったですね……」
 その微笑みの温度に——甘やかされているかのような温度に、なんだか居心地が悪くなる。眠気はもうすっかり、どこかに消え失せてしまった。アズールは伸びをして、改めて周囲を見渡す。夜の闇はもうすっかり外を覆い尽くしていて、窓から闇がじわじわとにじり寄ってくるかのよう。
 ジェイドはまだそこで書き物をしているらしかった。もうアズールと目も合わせず、スケッチ帳に向かってさらさらと何かを書いている。きっと趣味のことだ。なみなみと注がれていたミルクティーはとうに消え失せていて、残り香だけが漂っている。
 アズールも頭を振りながら、ひとまず机に積み上げていた書類に手を伸ばそうとして、ふと思い止まる。その前に何か飲みたくなったのだ。今はやたらと、ミルクティーが飲みたい。ジェイドが先ほどまで飲んでいたような、甘くて柔らかい香りのするミルクティーが。
 ジェイドをちらりと見やる。随分とスケッチに集中している、と思う。
 はあ、と息を吐き出して、アズールは椅子から立ち上がった。キッチンの方へと歩を向ける。
「……アズール?」
「お茶を入れます」
 それだけを宣言して、アズールはもう振り返らなかった。
 この家のキッチンに入ったことはほとんどなかったが、ジェイドが使っているところは見ていた。茶葉の場所も、水を出す場所も、食器の置き場所も知っている。なんとかなるだろう。
 アズールはキッチンの中で、一人用にしてはやたら大量に置かれている茶葉の缶を前に、これでよいかと思った缶を適当に手に取る。そうして想定通りと言っていいものか、悲しいことにウツボが後ろから追いかけてくる足音も聞こえ、やわく缶ごと手をつかまれる。
「アズール、僕が入れますよ」
「……」
 毎回これだ。いや、アズールだってジェイドの紅茶が飲めるに越したことはないのだから、頼んでしまえばいいのだが、それでも。
「……お前、作業中だったでしょう? 別にいいんですよ、お前の貴重な休暇の楽しみを中断させるほどのことではないですし。お茶を入れるぐらい、自分でもできます」
「アズール、そんなことを言わないで」
 ジェイドは苦笑だけして、アズールの手から紅茶の缶を緩やかに、しかし容赦ない手つきで奪い取った。そうしてこちらと視線を合わせて微笑む。その視線はどこか鋭く、こちらに譲る気配は一欠片もない。そういうところだ。
「僕の楽しみを奪わないでください。貴方に紅茶を入れることが、僕は本当に好きなんですから」
「……はあ。それ、本心ですか?」
「ええ、もちろん」
 にこりと胡散くさくジェイドは笑う。知っている。きっと本心なのだろう。その裏に何があるのか、アズールには分からないことも多いとして。
「何をお飲みになりたいんですか?」
「……さっきのお前と同じ、ミルクティーが」
 おや珍しい、とジェイドが声を発した。別に恥じることでもないのだが、なんとなく子供じみた選択をしたようで気恥ずかしくなった。
「たまたま飲みたくなったんです」
「フフ、そうですか。嬉しいです」
 ぎろりと睨んだところで効果などないのだった。
 ジェイドは水道——山の湧き水が引かれているらしい——から注いだ水を、金属のケトルに入れる。火で水を沸かすところからやるらしい。本格派だ。懐古趣味ともいう。
「魔法で沸かせばよいのでは?」
「ふふ、そんなこと言わないで。最近ミルクティー用の茶葉には面白いものが揃っていますし、僕は常に最高の紅茶を入れたいんです」
 そうしてこちらに向かって微笑む。
「それに、待つ時間も楽しいですよ」
 そうだろうか、とアズールは思う。料理の提供は迅速に、タイミングを見計らって、が一番だ。まあアズールとしては、ジェイドと会話ができるのであれば、確かに悪くはないけれど。
 水を汲み終えたジェイドが、ケトルをコンロの上に置き、火をつける。炎が燃え盛る。キッチンがさらに暖かくなる。
 そうして、あまり入ったことのないキッチンで何かやることもなく、アズールは一瞬で手持ち無沙汰になった。それを見透かしたかのように、棚をあちこち片付けていたジェイドが言う。
「先ほどの場所で、何かされていても構いませんよ。寝ていてもいいですし。僕が今度こそ起こして差し上げますから」
「いや……、キッチンを見ていても? 手伝うことはないかもしれませんが」
「構いませんが」
 ジェイドは眉を下げた。
「貴方のお眼鏡にかなう面白いものがあるかどうか……」
 しらじらしいそんな言葉は聞こえなかったふりをした。
「これ、借りますね」
 アズールは、適当なキッチンスツールの上に腰掛け、キッチンカウンターに肘をつく。かわいらしい編み物のカバーがかかったスツールだった。同好の誰かにもらったのだろうか?
 お湯が沸くまでは、きっとまだ時間がかかるだろう、とアズールはジェイドをぼんやりと見つめる。
 待つ時間も楽しい、って。アズールはほとんどそれを楽しいと思ったことはなかった。でも、そういうやつなのだ、ジェイドという男は。アズールにはよく分からないことに。ジェイドという男がそう言うのであれば、彼にとってはそうなのだろう。
「そういえばアズール、いいものがあるんです」
 ジェイドがそう言って取り出したのは、キッチンの棚に置かれていた大きな袋だった。中に入っているのは——菓子類だろうか?
「いただきもののお菓子ですよ。この山によく来るおばあさまからいただいた、素朴な焼き菓子で、とてもおいしかったんです」
「…………」
「心配しないで。変なものではありませんから」
「……いただきましょう」
 「変なものではない」、その言葉は普段ならば到底信じられるものではなく、かつとうに夜は更けているのだからいつもだったら断るところだが、アズールはついその菓子に手を伸ばした。断る言葉が思い浮かばなかったのだ。
 一口。二口。口内でほろほろとほどけていく、優しく上品な甘さ。
「なんだこれ……うっま……」
「ふふ、気に入っていただけたなら良かったです」
 山の同好ネットワークは、こんな思いがけないものとの出会いも生む。アズールがよく知らないジェイドの側面がそこにある。その彼の在り様を根本から不思議に思うときが、こうしてたまに訪れる。アズールはそのたびに、ふわふわとした浮遊感に陥る。箒に宙ぶらりんにされる感覚。
 そのジェイドがこちらを見て、手を止めて微笑む。
「アズール」常よりも甘い声。恋人であってもめったに聞けないほどの。きっとジェイドは、そのことには気づいていない。
 アズールが静かに瞠目しているうちに、ジェイドは言葉を続けた。
「明日の朝食は何を作りましょうか?」
 唐突にそう問われたので、反応が一拍遅れた。こちらの反応を待たず、ジェイドは話し続ける。
「今日の残りの野菜で、サラダとスープはできそうです。いただいたまま干していたキノコもあるので、そちらと合わせて」
「そうですか……まあ、いいんじゃありませんか?」
「アズール、山の幸を拒否しなくなりましたね。良いことです。キノコ、気に入りましたか?」
「違う。お前の山の中だから付き合ってあげているだけです」
「おやおや」
 ジェイドは微笑んだ。特に響いていない。そのことが若干気に食わない。
「あるいは、熟れかけの果物がありますから……パンケーキなんてどうでしょうか」
「朝から?」
「ええ、朝から」
「カロリー……まあ、たまにはいいか……」
「ここでの運動はご自由にどうぞ。僕の山歩きに付き合っていただいてもいいんですけど」
「山歩きはしない」
 今日から始まった二人揃っての長期休暇は、あっという間に一日が過ぎた。過ぎてしまった。この調子だときっとすぐに終わってしまうだろう。
 早く仕事の続きに着手したいと思っている自分と、意外にもこの休暇をもっと長く楽しみたいと思っている自分がいる。それから、なんだかだらけきってしまいそうなこの空気に、少し危機感を覚えてもいる。何も成し遂げられないかもしれない、という焦りがアズールの心の片隅に燻っている。

「さて。そろそろ沸きそうですね」
 そう言って、ジェイドは先ほどアズールも目にした茶葉棚に手を伸ばした。茶葉が入っているのだろう黒い缶を複数手に取って——先ほどアズールが手にとった缶とは別物だった——中の茶葉を調合し始めた。一つの缶から二さじ。もう一つの缶から一さじ。また別の缶からスパイスのようなものをひとつまみ。見たところ計量スプーンではないが、そんなものがなくても、おそらく手で感じる重さだけで茶葉を測っているのだろう。ジェイド・リーチの手は茶葉を測り、面白さを測り、アズールの世界を測る。
「ミルクティーは」
 穏やかで心地の良い声が響く。この隣にずっと座っていたい。
「いろいろな条件で試すと予想外の発見があって面白いのですが、直近のシーズンの茶葉だと、夕焼けの草原のものと、絹の街のものを組み合わせるのがいいですね。独特なフレーバーがミルクと意外とよく合うんです。面白いんですよ」
 先ほど僕が飲んでいたのはこのブレンドなんです、とジェイドは言った。
「ただし夕焼けの草原のものは、まだ生産量も少なく、流通も安定していないので、お店に出すには考えものかとは思っていますが。アズールも気に入られましたら、今後の動向をウォッチするのはいいかもしれませんね」
 と、外観はラベル以外全く同じである黒缶をアズールによこし、匂いを嗅ぐように促す。そのラベルを、アズールは一応頭に書き留める。本当に気に入ったら、後でジェイドに言えばいいと思いながら。
 ジェイドは調合し終わった茶葉たちを一時的な茶葉入れに入れる。その流れるような手つきは長い年月で磨かれ抜いたもので、淀みなどひとつもない。美しいものだ。それにしても、どうも。
「……茶葉が多くありませんでしたか?」
「二人分ですよ。僕も飲みたいです」
「さっきも飲んでなかったか……」
「ふふ」
 ジェイドは笑い声だけでかわした。今日のジェイドはどこかゆったりとリラックスしていて、それでいて饒舌で、機嫌がよさそうで、アズールは比例して謎の落ち込みを感じる。
「この茶葉は現地の方から試験的にいただいたもので、今季の残りはもう数杯分しかないんです。お気に召したら教えてくださいね。来季分を買いつけますから」
「もしかして、来年仕入れを考えているものですか? お前が以前話題に出した」
「ええ。こんなに早く貴方にお出しする機会があるとは思っていませんでしたが」
 たぶん気に入るんだろうな、と思いながらアズールはジェイドの話を聞いていた。ジェイドの勧める茶葉を気に入らなかったことはあまりなく、その例外のどれもが、変わり種すぎるハーブやらキノコやらの系統である。
 アズールはこういうとき、内心ちょっとした悔しさを覚えていた。ジェイドの紅茶の話を聞くのは商売の役に立つし結構面白いけれど、もうアズールが知らない情報も随分と増えた。かつてはアズールの方が紅茶のことを知っていたはずなのに、もうそれは遠い過去のことになっている。アズールは紅茶を極めようと思ったことなどないから、別に構わないし、助かってはいるのだけれど。
「そういえば、スパイス入りの紅茶は、最近絹の街で新しい調合が流行っているそうで。そちらも今取り寄せています。試飲してみてお気に召したら、ラウンジに期間限定で出してみてもよさそうですよ。来季が楽しみですね。ああ、カリムさんにお譲りいただいたので、またお礼をしなければ」
 ふうん、と生返事を返した。どうしてか今はそれについて考える気にはならなかった。

     ○

 と、そこで、ケトルがけたたましく鳴き声を上げた。
「沸きましたね」
 ジェイドはケトルを火から下ろした。沸騰したお湯がガラス製の抽出用ティーポットに注がれる。ポットはまず温めなければいい紅茶は入れられず、もちろんジェイドがその工程を抜いたことはない。
 ジェイドはしばしポットの温度を確かめ、問題ないと判断したのだろう、そのお湯を捨てた。先ほどジェイドが調合した茶葉が投入され、お湯が再び勢いよく注がれる。
 そのポットには見覚えがあった。ある日ジェイドが気に入って持ち込み、ついにはとあるフェアで投入されたガラス製のポットだった。
『ガラス製だと、茶葉が舞うのがよく見えてよいでしょう? 見栄えのする茶葉ならば、視覚的に楽しめますしね』
 ジェイドはそんなことを言っていたし、確かに彩り豊かなハーブティーや花茶のセットは、広がる茶葉が視覚的にも楽しめると好評だった。
 アズールはなんだかジェイドのテラリウム趣味のことを思い出した。この男はガラスのことが好きかもしれない。本来なら触れることも観察することもできないものを、至近距離から見るための道具として。全てを丸ごと覗き見るための道具として。
 茶葉がガラスのティーポットの中で舞う。じわじわと、茶葉から褐色が溶け出し、透明なお湯に染み出していく。
 ジェイドは頷いて、傍に置かれていた砂時計を引っくり返した。この男はたまにこういう古めかしい道具を好む。
「三分待ちます」
 ……そういえばアズールは、ジェイドがこんなふうに紅茶を入れている姿をじっくりと見ることはあまりなかった気がする。この男はいつも気がつくと紅茶を差し出してきたし、ときたま横で入れている気配があっても、アズールはタスクに集中していたから。
 本格的に紅茶を入れるには、案外繊細でややこしい手間がかかる。スープ料理と同様に、その手間が紅茶をおいしくするのだが、とはいえ求められる側としては面倒なときはないのだろうか。紅茶を入れることが好きだというこの男は、そんなこともないのだろうか。この手間のかかる行為を、それごと愛していると言うのだろうか。この男がスケッチによく分からないほど集中するときがあるように、ある一点にだけ集中して他に目がいかなくなるように、そのただひとときの熱を紅茶にも向け、この一杯を入れることが好きなのだろうか。
 アズールは今まで気にしたことはなかったけれど——自分で紅茶を入れるならその間別のことをやるから——ジェイドはどう思っているのだろうと、そんな根本的なことが、本当に今さら気になった。もう連れ添って何年経っただろう、と数えてみる。十年は悠に過ぎている。
「お前って、本当に紅茶が好きですよね。……いや、好きなのか?」
 つらつらと考えていたことが、つい口に出た。ジェイドが振り返る。
「どうして疑問系なんですか? ええ、好きですよ」
「……なんで?」
「なんでって、……なんででしょうね」
 そうしてジェイドはやわく苦笑する。答える気はないらしい。ふうん。
 よくよく考えれば、ジェイドがいつどういう経緯で紅茶にはまったのかさえ、アズールはよく知らない。NRCで過ごした時期の、どこかだったのだろうと思うが。
「お前が初めて紅茶を飲んだのって、どこでしたっけ。訓練学校でしたっけ?」
「……ええ、訓練学校で。貴方に入れていただいた紅茶が、初めてでしたよ」
「なるほど、そこからよく分からない持ち前の好奇心を発揮したんですね。どこが気に入ったんですか? まあ、お前の琴線はよく分からないことが多いので、別にいいですけど……おかげさまで助かっていますし。飲食業において、飲料というものはやはり重要な要素ですから」
 ジェイドはそつなく微笑んだ。
「僕の趣味が貴方の助けになっているのでしたら、それはなによりですが」
「はいはい」
「おや、どうでもよさそうだ。……まあ、そうですね。僕、紅茶も試行錯誤も好きですから。相性が良かったんでしょうね」
「……ふうん」
 うそつき、とアズールは心中でつぶやいた。
 いや、うそではないのだろう。けれでもそれは、ありのままの真実でもないのだ。だって、そういう男なのだ。ジェイド・リーチという男は。
 アズールは確かにこの男の恋人ではあるけれど、この男の被っている皮をまるまるひっぺがして中身を見れたことは、ほとんどないように思う。いや、分かりやすい男ではあるのだ。分かりやすい男ではあるのだけれど、とても分かりにくい。どこかでなにかがねじ曲がっている。透明なガラスのポットの中身は随分と見えやすいが、同時に何が反射してそこに映り込んでいるのか、本当は分からないように。実際そこに何が秘められているのかは、蓋を開けて飲んでみないと分からないように。
 そのジェイドはというと、吊り戸棚の奥に置かれているらしいティーカップを、わざわざ持ち出そうとしている。華奢な装飾のある、シンプルなラインの茶器。来客用、もっと言えば、アズール訪問時の専用だ。少なくとも、ジェイド単体であのカップで飲んでいるところを、まだ見たことはない。そのことを考えて、また何だか変な気分になる。落ち着かないような。むずがゆいような。ここにそれがあることに少し違和感があるような、そう思えてしまったことが悲しいような。——こういうものが、どちらかというとアズールのために選ばれているものであるというのを、アズールはここに来てから知った。ジェイドはどちらかというと、マグカップ派であるらしい。実用重視なのだ、特に山の中においては。

     ○

 砂時計の砂が全て滑り落ちた。ガラスポットの中の紅茶は、とっくに濃い褐色に移り変わっている。それを合図に、ジェイドは抽出用のガラスポットの中身を陶器製のポットに移し替えた。保温に適したポットだ。つるりとしていて青白い、シンプルで優美なポット。
「アズール、ミルクと砂糖の分量はどうされますか?」
「……ああ、……いや、お前の好みでいいです」
「おや。承知しました」
 ジェイドがティーポットを持ち、腕を傾ける。先ほど準備された茶器二つに、紅茶が注がれる。そうしてミルクが後入れされ、角砂糖がそれぞれ二つ。
 ミルクティーにもいろいろあるけれど、本日のジェイドはシンプルな入れ方を選択したらしい。そういえば、紅茶を先に入れるかミルクを先に入れるかという論争があるが、ジェイドは気分によって変えることが多い気がする。
 さして時間も経たないうちに、優しいセピアブラウン色をした、角砂糖二つ分のカロリーが入った蠱惑的な飲み物がアズールの目の前に差し出された。
「どうぞ」
 ジェイドは、いつものように恭しくお辞儀をした。
 そうやって紅茶を差し出されることには慣れきってしまっていたのに、そのミルクティーは、どこか特別な神聖みさえ帯びていた。
「……ありがとうございます」
 一口含んで、ゆっくりと舌で味わい、嚥下する。おいしい。ミルクティーなんて久々に飲んだな、とも思う。
 無言の静寂の中、ゆったりとした時が流れている、ようにアズールは感じた。暖炉の薪がパチパチと燃える音だけが響いている。この安らかな沈黙の空間が、まるで余分な思考をする空白をもたらしたかのように思える。けれどもだからこそ、うまくつかめない妙な切迫感がそこにあるかのようにも思える。
 ジェイドも目を閉じてミルクティーをこくりと煽り、ほう、と吐息を吐いた。そうしてアズールと目を合わせて、笑いかける。
「ミルクティー、気に入りましたか?」
「……」
「アズール?」
「…………ええ。おいしいです。とても。……、」
 嘘ではない。本当に。ミルクティーもたまにはいいものだなと、ジェイドの入れる紅茶というのは悔しいことにいいものだなと、思っていただけだ。賞賛をためらったわけでもない。
 それでも何故か、口がうまく回らなくなったのを感じた。
 そうして、とある一つの膜がアズールとジェイドを分け隔てるのも感じた。
 いや、違う、それはずっとここにあった。ただアズールが、それに気づきたくなくて見て見ぬふりをしていただけだ。
「そうですか」
 ジェイドは常と変わらない態度で、にこりと微笑んだ。
 先ほどまで弛緩していた雰囲気に、ピリリとした緊張が流れるのを感じる。ミルクティーにひっそりと含まれているスパイスのように。アズールが勝手に感じているだけなのだろうが。
 無言の沈黙が流れる。
 このままずっと無言でいてもいいのだろう。けれどもそれでは、この場でしか聞けないことは、もう永遠に聞けない。そんな錯覚のような、じわじわとした切迫感を、恐らくアズールだけが感じている。
 いや、ジェイドもアズールのもの言いたげな雰囲気は察しているのかもしれない。気配に敏いやつだから。だから無言なのかもしれない。無言のまま、アズールの言葉を待っている。弛緩した空気に身を任せるかのように目を細めたまま、口元にゆるりとした微笑みを浮かべたまま、含みのある眼差しでアズールを見つめている。じっと、アズールの次の挙動を待っている。獲物を前にした狩人のように、あるいは愛の歌を待つ人魚のように。
 しばらくそのままだった。やがてジェイドは目を閉じ、もう一度ミルクティーを口に含んだ。ミルクティーの表面に波紋が立ち、そうしてこの静寂にも波紋が立つ。
「アズール、ここはお気に召しましたか?」
 何気なさを装った質問だった。アズールはぐっと返答に詰まった。
 ジェイドは苦笑して、ティーカップの中に目を落とした。
 そこで呟かれたのは、独り言のよう。
「貴方のお気に召せばよいのですが」
 その言葉はこの紅茶にかかっているようでもあったし、この家全体にかかっているようでもあった。
 ぐわっと込み上げるものがあった。
「ちがっ、…………別に、気に入らなかったというわけではなくて、……ただ……、」
 ただ?
 自分でも言葉の向く先が分からなかった。
 だって、ここは。
 それを知ろうとしなかったのはアズール自身で、今だって理性はそれでいいと思っている。いくら親しくとも理解できないことはあるし、いくら親しくとも秘密のままでいいことはたくさんある。そう思っているし、アズールの理性はその考え方に納得している。僕らは、僕も、そうやって秘密をたくさん作ってきた。
 でも、ここのことを隠されてふつふつと何かが湧き上がったのも事実だった。
 木々がざわりと音を立てた。家の外で、風が強く吹きすさぶ。
 怒りだと思っていた。けれどもこれは、もっと不快なものだ。もっと根源的で、じわじわと喉を締めるようなものだ。
 それは、恐ろしさだったのだろうか。
 アズールもティーカップを傾けた。少量のミルクティーを口に含む。
「……アズール?」
 そうしてこちらをじっと静かに訝しげに見つめ、それでも微笑みを浮かべる彼は、よく知っているけれども全く見慣れないもののようにも映った。その美しさに、くしゃりと顔を歪める。
「…………僕、ここに来てよかったのかな…………」
 手に無意識に力が寄ったのを自覚する。
 ジェイドが微かに眉を上げて、けれどもそれ以上は表情を動かさなかった。表情の統制に慣れた人魚は口元に微笑を浮かべたまま、ただ無言でアズールの言葉の続きを促す。
 けれども、なかなか出てこない。言葉にするのはひどく億劫だ。だって、言葉にするということは、自分のこのもやもやをきちんと形にするということだから。
「……別に、違いますよ。ここが嫌だったとか、気に入らなかったとかではなくて……、ただ、なにか、」
 ただ、入ってはいけないところに入った気分になった。
 許されてはいないところに入ったような気分になった。
 そこが自分に許されていないのが、自分には許されていないくせに山の同好には許されているのが、何故か不愉快だった。
 自分がここにいるべきではないのだ、という落ち着かない感覚をジェイドの横で味わうのが嫌だった。
 そうして、自分はジェイドのことをやはり知らないのだと、そう思った。それだけ。
 ただひどく、勝手に裏切られたような気持ちになった。それだけだ。
 ジェイドのここの家に、アズールがいらないとしたら。ジェイドのどこかに、アズールがいらなくてすむ部分があるのだとしたら。あるいはジェイドが、どこかの側面ではアズールのことなんてまるごと必要としないのならば。恋人のその割合がどんどん大きくなって、いつかアズールの知らないところでアズールのが必要とされる部分が消えてしまって、ジェイドの中でアズールの占める割合がなくなってしまうのならば。
 それが、きっと、自分は怖い。心臓が一つなくなってしまったような心持ち。失いそうになってから初めて気づくものがある。もとよりこの男がそばにいるのは、面白いから、それだけだったはずだ。この男のことを、きっと自分は最後までよく理解できないだろうから。
「ただ、お前は別に、僕がいなくてもいいんだなって……今日も、着いてこない方がよかったですか?……っいや、」
 ものすごく馬鹿なことを口走ってしまった、とアズールが瞬間的に後悔したとき。ジェイドは目を丸くして、こう言った。
「アズール」
「……なんです」
「拗ねているんですか?」
「は? なんでそうなる?」
「だって、貴方がまるで稚魚のようなことを仰るから。驚いてしまって」
「驚いてるって顔じゃないだろ」
 ジェイドの表情が、じわじわとニヤニヤとしたものに移り変わっていく。
 声だけはひどく気遣わしげなのに、その顔はひどく嬉しそうだ。はああと体の力が抜ける。
「もういいよ……お前はそういうやつだよ……」
 目を深くつむる。面白がるような、からかうような声が頭上から降ってくる。
「アズール、どうしてそんなことを思ったんですか?」
 どうしてそんなことを思ったか。どうしてそんなことを思ったのか、だって?
「だってお前、……」
「おやおや、どうされたんですか?」
 ジェイドが丸く目を見開いて、クスクスと笑う。そうして、「フグの稚魚のようです」だなんて。アズールはますますぶすりとむくれる。
「だってお前は、僕がいないところでも楽しそうだし、僕がいなくてもうまくやっていくんでしょうし……別に、知ってましたけどね」
 息を吐き、続けた。
「……別にいいんですよ。ふてくされているわけでも、拗ねているわけでもなんでもありません。僕も、お前の趣味のことになんて、全然興味ないですし」
「おやひどい」
 くすくすと笑い声。
「ならどうしてここへ? 取引先の方と、海にでも遊びに行かれた方が良かったのではありませんか?」
「……………」
 なんでこいつはこんなに自明なことを易々と聞いてくるのだろう。
「おや、まただんまりですか? ひどいですアズール。僕は楽しい休暇を貴方と一緒に過ごしたいと思っただけなのに、そんな健気なウツボ心を、貴方はないがしろになさるのですね……しくしく」
「………………」
「アズール、ねえ、それならばどうしてここへ来たのですか?」
「……うるさいな! …………お前がいるからです!」
 ジェイドがそこで猫のように目を丸くしたものだから、アズールはとても気恥ずかしくなった。
「楽しそうなお前を見るのは、その、嫌いじゃないですし。集中しているお前を見るのも、嫌いじゃないです」
 むしろ好きと言っていいほどかもしれない。何かに熱中しているときのジェイドの瞳は、吸い込まれそうなほどに綺麗だから。ただ、その目が厄介事を運んでくることだってよくありはするので、警戒心も同時に沸き起こるだけで。
「ただ、僕は、……いや。だから」
 アズールはコホンと咳払いをした。一体何を言っているんだろう?
「お前も休暇なんだから、お前の好きなことを好きなようにやればいいでしょう。別に、紅茶を入れるぐらい、そりゃあお前には劣るでしょうけど、僕にもできます。だからせっかくの休暇で、僕のことを気にかけなくてよいのに」
 一番最初にここに足を踏み入れた日のことを思い返す。アズールが初めてここに来たとき、つまりはジェイドを問い詰めてその次の休日にここにやってきたとき——当然入っていた予定なんて全部キャンセルした——、この家のどこにも居住スペースなんてものはなかった。すべてが植物で埋まっていて、申し訳程度の雑魚寝スペースとテーブルがあって、その横までぎっしりと鉢植えやテラリウム、キノコの原木や得体の知れない何かがそこかしこに置かれていた。絶句したものだ。キッチンだって今のようにきちんと整えられてはいなくて、最低限あるのはお湯を沸かすビーカーとフラスコだけで、ここにはもともと、こんな優美なティーカップなんてなくて、あるのはただ彼の茶葉の試飲用のシンプルなセットと、私用の大きなマグカップだけで——ジェイドはあの日、なんとかアズールのために紅茶を入れようと奔走して、フラスコで茶葉を沸かしたのだった。絶句したことを鮮明に覚えている。
 ジェイド・リーチにとって、紅茶とはそういう趣味ではないのだ、ということをアズールはあのとき初めて知った。ジェイドにとって紅茶とは人のために入れるもので、自分が楽しむためのものではない。いや、自分の楽しみのために入れることもあるのだろうが、そのために必要なのはビーカーでも試飲用の簡素なポットでも機能性重視のマグカップでもなんでもよくて、決して今目の前にあるようなきらきらしいティーセットを彼は必要とはしないのだ。
 知っていたことではあるけれど。知っていたことであるはずなのに。
 その押しつぶされるかのような焦燥感に、ここに来てからずっと揺らがされっぱなしだ。
 ジェイドはしばし固まり、目を見開き、そうしてフフ、ハハと声を出して笑い始めた。思わず睨めつける。
「おい、笑いごとか?」
「ふ、ふふっ、すみません。つい」
 そうしてひとしきり笑ったあと。
「……ああ、すみませんアズール。僕がここで山にかまけてばかりだから、貴方に寂しい思いをさせてしまったようで……」
「は? ちがう。別に。そういうわけじゃない! 話聞いてたか?」
 いや、そういうことなのだろうか? 分からなくなってきた。
「別にお前の趣味のことはよいと思っています。勝手に趣味に邁進すればいい。僕も別に、お前の趣味自体に興味があるわけじゃありませんし」
 それから、躊躇うように何かを付け加えようとした。
「……ただ」
 ただ。
 少し言葉につっかえたそのとき、
「そのわりにはご不満そうだ」
 にやりとジェイドは笑った。悪い笑みだ。
「拗ねていますか、やはり」
「拗ねていません! ただ……」
 その先の言葉はぽろりとこぼれでた。
「……僕に隠し事をしないで」
 ジェイドが目を丸く見開いた。
「この家の話は、お前にとっては取るに足らないことかもしれませんが、僕にとっては大問題だったんです」
 それから躊躇って、言いたくなかったことを付け加える。
「そりゃあ、お前の話を都度聞き流していた僕も悪いかもしれませんが……話せよ。別にお前の話を聞くのが嫌いなわけじゃないんですから……いや、たまにうんざりもしますが……。毒草とか、キノコとか、キノコに寄生するキノコとか、そんな話をする前に、もっと僕に話すべきことがあっただろ……。他にも、茶葉とかティーポットとか、そんな話の前に……」
「茶葉やティーポットなんて、貴方の好きそうなお話では?」
「それはそうですけど、そもそもの話の重さが違うでしょう!」
「山の話と山小屋の話は何が違うんですか?」
 ああ言えばこう言う。
「……だって、お前が隠し事をするってことは、それは……それは、まあろくでもないことを企んでいるときか……」
「おやひどい」
「取るに足らないことだからか、僕が反応しないことだからか……それか、」
 ぽろりと思いがこぼれる。
「それか、僕のことがどうでもいいのか」
 ジェイドはびくりと硬直して、それでまるで時が止まったかのよう。
 ほろほろと心が溶け、感情がしっかりとした輪郭をつかみ直していく。ジェイドはミルクティーにお酒でも入れたのだろうか。そう思わせるほどの口の滑り具合だった。
「たぶん、怖いんです。いつかお前が、僕に飽きて去っていくときが来るんじゃないかって。いつか、お前にとって僕が、もう取るに足らないおもちゃの指輪と同じようなものになるんじゃないかって」
 ジェイドはびしりと固まって——それでアズールは、それが図星だったかという覚悟もした——ふと吹き出した。
「っふふ」
「だから、何でそこで笑うんだよ……」
「ふふ、僕、随分と愛されているんですねえ」
 なんて言うものだから、アズールも毒気を抜かれてしまった。
 ジェイドは、目の前の男は柔らかな声で言う。
「アズール。その言葉を聞いて、少し前の僕なら怒ったでしょうね。どうして貴方は僕を信じてくれないんだろうって。どうして貴方は僕の恋心を、僕の愛を、そのままに受け取ってくれないんだろうって。だっておかしなことですよ、アズール。貴方がそんな疑問を抱くなんて」
 彼は密やかな声で低く囁く。
「貴方より特別なことなど、僕には何一つないのに」
「……フロイドは?」
「っふふ!」
「そこで笑うなよ」
「フロイドは特別です。比べるのが野暮というものです」
「はいはい……はいはい、そうですね。僕も、フロイドとお前は、特別です」
 しばらく、噛み殺しきれていない笑いがジェイドの唇から断続的に漏れ出た。ややあって、彼は続ける。
「だから僕は、今回は怒らないでいてあげます」
 そういう唇は、ひどく上機嫌そうだ。
「だって、貴方がそう言うのは、本当に僕のことを気にかけてくれたからでしょう。本当に僕のことを気にして、そんなことを言ってくれるんでしょう?」
 だからあのときは言えませんでしたけど、と彼は続けた。
「僕は実は嬉しかったですよ。貴方がここに来て、怒っているさまを見るのは。説明は、少し面倒でしたけどね」
「……はあ」
 こういうやつなのだ。
 アズールはもう気が抜けきって、体をだらんとさせた。
 ミルクティーはいつのまにか半分ほどに減っている。

     ○

 アズールがこの家のことを知ったのは、フロイドが話を振ったからだった。
 ちょうどそのとき、アズールの賃貸の更新期限は近づいていた。三人ともそれぞれ忙しくなり、恋人であるジェイドと過ごすプライベートな時間はとれなくなっていった。だから、お互いの居住空間をかつての学園生活のときみたいに同一にするのもありだと思っていた。ジェイドも賛成してくれるのではないかと考えかけて、ただ、フロイドと離れることを嫌がるだろうか、と思った。
 そのときの懸念としてはそのぐらいで、この際だし三人で生活できる広い一軒家でも見繕いましょうか、などと考えていた。
 当時は知らなかったのだ。この家のことなんて。
 だから、フロイドの発言は寝耳に水だった。『そういえばジェイドの山の家さあ、』とフロイドは、周知の事実を告げるかのように言ったのだ。
『……家? ジェイド、家を持っているんですか?』
『うん。家っていうか、山にある実験小屋みたいな感じだけど。……え、なに、アズール、知らなかったの?』
 フロイドはやべ〜という顔をしたが、それを気にする余裕もなく、アズールはどんどん顔を険しくしていく。

 そのあと、アズールはすぐジェイドに連絡を取った。
 喧嘩というよりは、一方的に問い詰めるようなものになった。
『どうして教えてくれなかったんです』
 つい随分と低い声が出た。止められなかった。
『別に、黙っていたというわけではありませんよ』
 アズールに引きずられて緊張を帯びた、電話越しのジェイドの声が響く。
『言いませんでしたっけ? 山で親しくしていただいている魔法士の方に、珍しい草木等をお譲りいただいたって』
『家も貰ったとは聞いていない』
『確かに、山小屋の話はしませんでしたが。けれども何度か、山に行くとお伝えしたときがあったじゃありませんか。珍しい植物を育てている場所があるんですって、僕、お伝えしましたよね?』
『畑か何かのことだと思っていたんです!』
 通話越しの憎たらしいジェイドが言うには、一年前には既にその家を譲ってもらっていたらしい。
 とある山に位置しているその家は、基本的にジェイドの植物や実験のあれこれで占められていて、その付近の山に行くときの、あるいは何かを栽培したり実験したりするときの拠点として使われているらしい。
『というか、……そうじゃない。そうじゃなくて、そもそも……家ですよ。土地ですよ。不動産を買うなんて、かなりの大事でしょう』
 ジェイドの声が苦笑を含み、アズールを宥めるようなものになった。
『辺境の山ですよ。確かに山好きの方はたまに訪れますが、たまにという程度です。道が険しすぎるので、観光地にも向きません。珍しい薬草の栽培については、アズールも以前、リスクが大きすぎるからすぐさま事業化するつもりはないと仰っていたではありませんか』
『そういうことじゃない!』
 アズールはつい怒号を上げた。怒鳴ってしまった。
『……だって、』
 そこで深く息を吸った。アズールだって、自分自身がこんなに感情的になってしまった理由を、明確に伝えることができなかった。
『不動産を買うなんてことは……僕にとっては、かなり重要な決断です。きっとお前にも話すでしょう。でも、お前にとってはそうではないんですか? それとも、僕はこんなこと気にしないとでも思いましたか?
 ……そんなわけないだろう。……どうして、僕に、言ってくれなかったんですか』
『それは』
 そこでジェイドは言葉を詰まらせた。
『……すみません。貴方がそんなにこのことを気にするとは思わなくて』
『……気にしないわけないだろ……!』

     ○

 あのときアズールは冷静ではなかったし、感情のままに怒っていた自覚があって、若干そのことが後ろめたかったのに、あろうことかジェイドはそれが嬉しかったなどとと言い放つのである。
「だから、そんなに変な方向に考えないでください、アズール」
 彼は微笑んだ。
「僕が、ここのことを黙っていたのは……そうですね、時期を逃したのと」
「時期を逃した」
「あと、言いづらかったのと」
「やっぱり言いづらかったんじゃないか」
「ふふ。あと、……貴方には、秘密にしておいてもよいかもしれない、と思って」
「……なんで?」
「そうですね、……あのとき僕が、貴方にここのことを黙っていたのは、」
 ジェイドは語る。懐かしそうに、笑いを含めて。
「僕は、少し不公平だと思ったんです。僕はずっと貴方のことを考えているのに、貴方は僕がいなくなってもよさそうだったから」
「……そうか?」
 その言葉はあまりピンとこなかった。逆なら分かるのだが。
「不公平だなんて、お前にこそ言われたくないですけど」
「おや。といいますと?」
「別に。僕だって、不公平だなと思っただけです。僕の私生活には、いつだってお前がいるのに。お前がいなくなって成り立たなくなるものなんて、たくさんあるのに……」
 それは、毎日出される紅茶であったり、頼めば翌朝には出される資料であったり、意外な接点を作り出すのが得意なジェイドの人脈であったりした。
「おや、……僕も同じですよ」
「同じようには見えないけど」
「同じですって。紅茶を飲んでくださる方がいなくなるのは困ります」
「それだけか?」
「面白い光景を見せてくれる貴方がいなくなってしまったら、僕は途端にあらゆることがつまらなくなってしまうでしょうし」
「……それ……」
「だから、僕の人生から、貴方がいなくなるのは、もっと困ります」
 ジェイドは首を傾げ、微笑んだ。
「分かってませんね」
「……分かってない」
 うそだ。分かっていないふりをしているかもしれない。アズールは視線を落とした。けれども、この男はいつか飽きてアズールの傍から離れていくと、アズールはまだ心の奥底で思っている。これまでずっと、ジェイドがアズールから離れていかなかったという事実を、アズールはまだ掴み損ねている。
 仕方ないなあと言わんばかりにジェイドは眉を下げた。
「アズール、僕の秘密を教えて差し上げます」
 囁くような、低く落とされた声。アズールが一等好きなその声。
「僕が紅茶を入れるのが好きなのは——」
 それはティーポットの中に隠されてきた秘密。
「貴方が紅茶を飲むのが好きだからですよ」
 息が止まった。
 そろりとジェイドを見上げる。
 ジェイドはいたずらが成功したときのような笑みを浮かべている。
「だから僕も、隣から貴方がいなくなってしまったら困ります」
 ふう、と息を吸って、アズールは仕方なしにそれを吐き出した。
「僕も」
 それは奥底に隠された本音だった。
「僕も、お前がいなくなったら困ります」

     ○

 そこからゆるやかに時間は流れた。
 ジェイドと、久しぶりにとりとめのない話をした。
 その開示は自然と口をついて出た。
「ねえ、お前に話があるんです。聞いてくれますか?」
「ええ、貴方の話ならば、僕はなんでも」
 ふと、息がこぼれる。言葉がこぼれる。魔法の力だ。この変な山の、このへんてこな山小屋の。
「僕も、家を買いたいんです」
「はい」
「お前と住むための」
「はい」
「フロイドの部屋もあって。一軒家で、広くて、狭くてもいいですけど、静かなところで、落ち着くところで、職場への転移装置があって、……いろいろ考えたんですが、やっぱり海の近くがいい」
「はい」
「でも、お前は気に入るのかな……」
 アズール、とことさら柔らかな声で名前を呼ばれた。
「アズール、僕が断るとでも、どうしてそのひとかけらでも思ったんですか?」
「……もう、思いませんけど」
 ジェイドのそのただただおかしそうな様子に、幾分かアズールの感情のささくれも消えていく。
「……でも、お前は、ここ以上に気に入ってくれますか? 絶対こっちの家の方がよいだろうと、そう思うと、自信がなくて」
 じわりと涙が出そうだった。自分らしくもない。ここでは仮面を取り繕えないことを感じる。
「貴方の選んだところなら、きっと僕も気に入るでしょう。アズール、毎日住むところと、山の家はやはり違いますよ。ここは僕の趣味のための場所みたいなものですから」
 そうして柔く苦笑する。
「僕はむしろ、貴方はやはりここが気に入らないのかなと思っていたんですが」
「別に気に入らなかったわけではないです。……というより、」
 それを認めてしまうのは、やっぱりしゃくな気がしたけど。
「……僕も、ここが好きです……」
 幼き日の幻影がこちらを見ている。ぬくぬくと甘やかされて生きていくことしか知らなかったあの頃。あの頃のお前と今の僕は違う。違うはずだけれども。
「最初は気に入らないだろうな、と思っていたんです。でも、思ったよりも……なんというか……」
「居心地がよかった?」
「……はい」
 ジェイドは嬉しそうに笑った。
 きっとジェイドはとっくに気づいていた。ここに来てからアズールが、随分と気を抜いていることが。
「気に入ってくださったら、ここは別荘にでも何でも好きに利用してくださると、僕はとても嬉しいですよ」
 そうして彼は続ける。
「アズール、僕が貴方にこの家のことを言わなかったのは、貴方がこんなところを気に入ると思わなかったのもあるんです。ですから、僕はとても嬉しいですよ、貴方がここでのんびりとしてくれて。気づいていますか? ここに来てから、貴方は棘が抜けたハリネズミのようになりましたよね」
「それ、悪口ですか?」
「まさか。貴方が、ご自身の蛸壷の中のように、ここですっかりとくつろいでくれる。僕はそれが、とても嬉しいんです」
 アズールはすんと鼻を鳴らした。なんだか随分自分たちらしくない会話をしている。
「……ふん、いらない心配をしましたね。なんていったって、お前は僕のことが大好きですからね」
「ええ、大好きです。大好きですから、そんなに悪い方向に考えないで。誤解で距離を開けられてしまうのは、とても寂しいです」
「ふん……」
 ジェイドは微笑んだ。微笑んで、随分と顔を近くに寄せる。
 
「だから、アズール。そんなに不安にならないで」
「……んっ、⁉」
 唐突なそのキスは、優しいミルクティーの味がした。
 その味は、随分と長く長く続いた。
 ジェイドはアズールの舌と遊んで、歯列をなぞって、アズールの唇を猫のように舐めて、やがてにこりと鮮烈に微笑む。
「愛しています、アズール。この世界の何よりも。もし貴方が陸の全てを捨てて海に行くと言うのならば、僕は全てを捨てて貴方についていくでしょう」
「……でも、たまに山に帰るんでしょう」
「そうかもしれません」
 思わず笑い出した。
 笑い出したまま、ジェイドをかき抱いて、今度はアズールから口づけをする。
 幸せだった。
 アズールの恋人は、こういうやつなのだった。
 アズールは、ジェイドのそういうところだって好きなのだった。