「陸の卵って、硬いんですね。それに、温かい」
ニワトリの鳴き声がひっきりなしに響く鶏舎にて、その声はやけに明瞭に僕の耳に届いた。
土の上にしゃがみこんだジェイドの手の中には、茶色い殻の卵がある。珍しく目をまんまるに見開き、キラキラとその卵を見つめているジェイドを、僕は立って見下ろしている。こいつは意外にも、何かに興味を惹かれると分かりやすいよな、と思いながら。鶏舎独特の臭いと、ニワトリのうるさくて仕方がない鳴き声と、くちばしによる攻撃に辟易しながら。あちこちでニワトリがバタバタと舞う獣臭い場所に、元ウツボの大男がじっと居座っているというのは、なかなかシュールな光景でもある。
「陸の卵を、今まで見たことはなかったんですか? 意外です」
「ええ。もちろん食したことはあるのですが、実物を見たことはありませんでした。海の卵とは、かなり違うんですね」
海と違って水がないから、硬い殻で覆う必要があるのでしょうか、などとつぶやきながら、ジェイドは卵をじっくりと観察している。そのジェイドを、僕はついつい観察してしまっている。彼は、僕が密かに恋心を向ける相手であるから。
身長差のせいで、ジェイドを見下ろせるシチュエーションというのは、実際それほど多くはない。そして、いつもならば気持ち悪いほどに察しがいいこの男は、現在こちらが遠慮なしにじろじろと視線を浴びせても気付く気配もない。
ジェイドは何か一つの物事に興味を惹かれると、そのことばかりに集中して、他の物事を締め出してしまう。海でもその傾向を感じたことはあったが、陸に来てからはよりそれが顕著になったように思う。はじめて陸の動物を見たとき。はじめて陸で食事をしたとき。はじめて陸で実験したとき――このときは、リドルさんから「ジェイドが実験室から動こうとしない」と小言をもらったものだ。そして、最近始めたという山の散策。ついこの前、「ジェイドが変な草を持ち帰ってきたと思ったら、部屋でじっと眺めてはふふふとか笑ってて怖いんだけど」と逃げ出してきたフロイドから、愚痴を聞かされたばかりだった。
何かに興味を持つというのは、いいことだと思う。どこにでもありそうな何の変哲もない草のどこがよいのか、僕には今のところ理解はできないが。何事も要領よくそつなくこなしてしまえるこいつにも、変な、理解しがたいところがあるんだなと思うと、何故か安心する。――しかし、それはそれとして、今はマスターシェフの授業中である。
食材調達は、授業の準備段階にすぎない。このあとまた別の食材を調達して、ゴーストの講師に見てもらいながら料理をして、審査員に評価してもらう必要がある。さらにいうならば、先ほど牧場でも似たような状況に陥っている。よってジェイドに、今ここでも、立ち止まってもらっては困るのだ。
ジェイド、と強めに声をかける。幸いにも、はい、と返事は返ってきた。
「何でしょう、アズール?」
「行きますよ。お前の観察に付き合っていると日が暮れる。他にもまだ調達していない食材があるんですから」
「おや。ええ、そうですね。アズール、この卵、何になるでしょうか?」
「そうですねえ……」
さて、何をつくろう。どうしたら高評価を得られるだろうか。調達できた食材に合わせて考えたほうがいいだろう。肉と卵は手に入れたから、あとは植物園に行って野菜を見繕って……と、脳内をこの後の段取りでいっぱいにしながら、外に出ようとしたそのとき。
「……、っ!?」
「…………ジェイド?」
何やらバサバサ、という音と、ジェイドが息を飲む気配が一緒に届いた。
振り返れば、しゃがみこんだままのジェイドの肩に、何故か一羽のニワトリが止まっている。全く状況が飲み込めない。
「……お前、どうしたんです、それ」
「飛んできたんです、そこの、止まり木から」
そんなことあるか? という疑問がついて出そうになったが、どうも冗談ではなさそうだ。
ニワトリはバサバサと羽をばたつかせて、いくらか足踏みしてから、満足したように動くのをやめ、コエ、と鳴いた。一方ジェイドはというと、あまりに予想外のことに硬直したまま、おそらくニワトリを刺激したくないのだろう、ゆっくりと僕を見上げる。
「アズール、これ、どうしましょう……アズール?」
「っふ」
そのジェイドの強張った全身が、焦りで笑みが抜け落ちた真顔が、肩に我が物顔で乗っているニワトリが、もっといえば、ジェイドがニワトリごときに途方に暮れているという状況が、あまりにもらしくなくて、あまりにもおかしくて。
あまりにも、あまりにも、かわいらしくて。
「ふっふふ。はは!」
「……笑うことはないんじゃありませんか? 僕がこんなに困っているのに」
「っふ、失礼しました。お前がニワトリを肩に乗せているところなど滅多に見られるものではないですから。なんともまあ、まぬけですねえ」
「おや、……僕の2倍はニワトリにつつかれていたのはどなたでしょうか?」
「肩に乗られるよりましでしょう。っふ、止まり木と間違われたんじゃないですか、お前」
「おやおや、あなただって……っあ、」
ジェイドが何か言い返そうとした矢先、肩に乗ったニワトリが、また気まぐれに身じろぎし、羽をばたつかせた。ジェイドはびくりと凍りついて、その隙に、ニワトリは気が済んだかのように地面へと降り立ち、トトトと去っていく。ほう、と見るからに安堵したジェイドは、もう同じ状況に陥らないためにだろう、即座に立ち上がった。
「よかったですねえ……ふふ、ふ」
「うるさいです。本当にひどい人ですね」
さて、いくらか笑いもおさまった僕は、こいつは根に持つと後が面倒くさいということを思い出す。別に嘲笑ったわけではなく、状況がおかしかったのだと弁明しておこうか。ところが、しっかりと眉間にしわを寄せたままのジェイドは、こちらを見て何故か、ふ、と笑みこぼれた。
急に、その顔を僕の鼻先の距離まで近づける。その手を僕の後頭部に伸ばす。
くしゃり、と僕の髪に、彼の指先が触れる感触。
「アズール、」
ついてますよ、と吐息がかかるほど至近距離で囁かれて。
先ほどまでの近さが嘘のように、平常の距離に戻ったジェイドの手のひらには、ふわふわとした綿毛のような短い羽があった。
「っふふ。あなたもおまぬけじゃありませんか、アズール」
それに何か言い返してやればよかったのに、急な接近に心臓は飛び跳ねて、してやったりというような笑みに舌は痺れて、ぐう、と唸り声しか出ない。
仕方ないだろう、向こうにそんな意図は欠片もないだろうとはいえ、仮にも現在進行形で恋をしている相手である。常日頃は意識しないようにしているこの感情は、こうやって唐突に心臓を攻め上げ、否応なしに自覚させてくる。
そんな僕の心中など知らず、おそらく勝手に勘違いをして、勝手に溜飲を下げたジェイドは、機嫌よさそうに歩き出し、収穫した籠の中の卵を数えながら、まだ内心動揺したままの僕を振り返った。
「さて、次の調達に行きましょう。きっとみなさん待っていらっしゃいます」
「……誰のせいで遅くなりそうだと?」
「おや、アズールともあろうものが、少し開始が遅くなったくらいで単位を落とすのですか?」
「はあ? そんなわけないでしょう?」
ちなみに、ジェイドの制服の後ろ側にも羽はついていたが、慈悲深い僕は、そのことは言わずにこっそり取ってやることにした。
さて、次に訪れた植物園で、ジェイドがまたじっと固まるまで、あと15分。ニワトリの卵は、外側の採卵箱から取ればよかったことをゴーストに教えられるまで、あと30分。意外にも調理の手際がおぼつかなかったジェイドとからかいあいをするまで、あと1時間。ジェイドがはじめて作った料理に、審査員が辛辣な評価を下すまで、あと2時間。そしていつのまにか、毎食任せてもいいと思えるくらいジェイドの料理スキルが上達するまで――何日だったか。
ちなみにまだこのときは、食卓がキノコで埋め尽くされる未来を、僕は予想さえしなかった。
彼の好奇心は、いつだってよく分からない方向に発揮される。