海がすぐ横にある浴室は、陸独特の水の匂いで満ちている。
浴室に絵画のように飾られた、真っ暗に寝静まっている夜の海は、こちらに果てしない深淵を映す。暗闇の手前だけこちらの明かりに照らされて、少し様態を明らかにする。珊瑚礁で魚が寝ている。向こうをすうっとエイが通り過ぎていく。そのすべてが、この浴室では――ほとんど匂いが透明で、ごくたまに薬臭さが感じられるだけの陸の水の前では、他人事に見える。
海はガラスを隔てると幻想的で美しく見えて、陸も人魚の視点を通すときらきらと輝いて見える。海も陸も、遠いからこそ無責任に美しく感じられるのだとジェイドは考えていて、今はその双方がジェイドから遠かった。
海とも陸ともいえない場所。
オクタヴィネルの寮内。
寮内には、共用のシャワーブースとは別に、個人で自由に借りられる浴室が複数ある。
主に怪我人や客人に優先的に割り当てられるそこは、何もない普段は基本的に早いもの勝ちで、空いてさえいれば自由に使ってしまえる場所だ。
普段なら争奪戦のそんな場所も、夜も更けきったこの時間帯に使おうとする者などおらず、だからジェイドは今、一人きりでそのうちの一室に篭っていた。
ぼう、と手のすぐ先で、小さな炎が勢いよく燃え盛る。
木の棒の赤い先端と箱の茶色い摩擦面を、いち、に、と擦り合わせると簡単に起こるこの燃焼――自然によるものでも魔法によるものでもなく、ただ人間が世界の仕組みを見出し発明した、マッチという道具による燃焼は、毎度ジェイドを高揚させた。
軸木の先端を上に向け、燃え盛っていた炎の勢いが落ち着いて穏やかになったころを見計らって、浴槽の縁に置いた、透明なガラス容器の中の白い蝋燭にそっと火を移す。
ライターや魔法など、よりきっちりと管理されたやり方でも着火することはできたが、ジェイドはこの古くて手間のかかるやり方を好んでいた。手に火の感触が鮮明に伝わるから。何かが燃えているという、ぞくぞくする手触りがあるから。頼りない棒切れを辿って、こちらの指先まで到達して、そのままジェイドを燃やしてしまいそうな可能性があるから。
もっともそんなことは今まで一度たりとも起こったことはなくて、炎は既に分厚いガラス容器の中で、先ほどまでの勢いが嘘のように静かに灯っている。全てを燃やし尽くす可能性のあった危険な炎は、もはや逃げ出すこともできず、容器の中で燃え尽きるのを待つだけの安全で管理された炎に。未知なるものは、ジェイドの支配下の退屈で美しい予定調和に。
そんな炎を灯した、分厚いガラスの中にこれまた閉じ込められた小さな蝋燭はお行儀よく全身を炎に溶かされるのを待っていて、ふとほのかに匂いがした。
アズールのコロンに似た。
その微かな匂いを深く深く吸い込んで、ほとんど陶酔してといっていいような状態でだらしなく頬杖をついて床に座りこんで、うっとりとただ炎が揺らめくのを眺めた。
アズールのコロンは完全にオリジナルに持ち主の趣味に合わせて調合されたもので、ジェイドはそれを持っていない。
現物もなく、レシピも分からない香りと同一の香りを作り出すことは、どんな調香師にもできない。
だからこれはアズールの香りそのものではなくて、似た匂いの既製品をたまたま見つけて買ったもので、よってジェイドが記憶するアズールの香りに比べてどうしようもなく複雑味に欠けていたが、それでもアズールを想起させるには十分なものだった。
蝋燭が徐々に炎の熱で溶けていく。火の近くにある蝋から液体に変わり、白色から透明に変わる。やがて匂いが強くなってくる。到底ジェイドの鼻腔に収まらないほどになり、空間全体に匂いが漂っていく。
「――さて」
ゆらりと立ち上がる。服を1枚ずつ脱ぎ去ってはその場に落とす。浴槽になみなみと貯められた、水の中に足を踏み出す。
ちゃぷんと音を立てて、つま先がふたつ、順に浸される。
ずるりと身体と浴槽が擦れる音がして、そのまま全身が沈み込む。
足先から髪の毛一本に至るまで、ジェイドのすべてが水の下に収まる。
水中呼吸薬は既に飲んでいる。
文字通り全身を水の中に沈めて、人魚は人間の姿のまま水の中で呼吸をする。
ずっと寒くて暗い海の中で育った人魚は、人間の体を得て陸の水に浸かる習慣を知ったが、本物の海の代わりに得たこの陸の海は、小さな水槽と同義だった。水槽の中は海の中よりずっと窮屈で限りがあり、水槽の底は海の底よりもずっと浅くて単調だ。
水槽の向こう、窓ガラス越しに海が見える。海を見ながら陸の水槽の中にいる。ある人間の寮生は、オクタヴィネル寮で生活しはじめたことをきっかけに金魚を飼いだしたというが、その金魚の視界はこんなふうなのかもしれない。
視線を上に戻す。水面に蝋燭の炎がゆらゆらと映る。海の浅いところから見える太陽のように。ぼんやりと。揺らめいて。燃え続ける。太陽は燃え続ける。海も陸も、あらゆる生命を生かすために。蝋燭も燃え続ける。ジェイドのために、偽物の海の偽物の太陽として。――そのすべての認識は、お前が世界を歪んだガラスの欠片から見ていることの証跡にすぎないよ、と笑ったのは陸の誰だっただろう。
それでも、ジェイドにとってはそれがすべての答えだった。
この閉じた空間に、アズールの匂いが充満していく。
匂いは気体と一緒に水の中にも溶け込んで、ジェイドにまで染み込んでくる。
ジェイドの体を循環する空気全体を、アズールの匂いが占めていくような錯覚に陥る。
そうして夜が更けていく。
何もしたくないけれど眠れない夜がある。
例えば夜の散歩も植物園での没頭も、何もしたくないけれど眠れそうにない夜。
そんなときは、海の中でしていたように水の中で丸まると、胸のざわつきは少し消える。蝋燭をつけて香りに支配されると、気分が落ち着く。だからジェイドはここにやってきて、習慣と化したこの一連の行動をとる。そのままじっと朝がやってくるのを待つ。
今日もまた、何かをするには億劫すぎて、眠るには思考は明晰すぎる。
だから、水の中で丸まって、アズールの香りを吸って、ただただぼんやりと考える。
何かの可能性について。
例えば、もし今、海とここを隔てるガラスが唐突に割れたら。もし今、頭上で燃えている炎が外に逃げ出して、ここ全体を包んだら。もし今、水中呼吸薬の効き目が何かの間違いで切れたりしたら。
もしくは、作成途中のテラリウムについて。次に山に行く計画について。山でこの間見かけた植物が、まだそこにある可能性について。次に山に行くときは、どうフロイドをなだめるかについて。次のラウンジのシフトをどうするかについて。
思考はとりとめなくあちこちを漂って、それでも確かに何かの形をつくる。自分の考えや思いつきが整頓されて、また一つ、昼のジェイド・リーチがやることが増える。そしてまた一つ、思考が漂う先が増える。
アズールが次に言い出しそうなことについて。アズールが次にこちらに振りそうな仕事について。そのために自分ができることについて。アズールの将来の可能性について。
ただただ過ぎていく時間をたっぷりと使って、ジェイドは思考を掘り下げる。深く深く掘り下げて、可能性と可能性を天秤にかけて、どちらがよりありえそうかを、どちらがより面白そうかを検討する。外の海はまだ真っ暗で、つまりそこはまだ夜の中。
朝になったら、フロイドがここにやってくる可能性について。フロイドはたまにここまでジェイドを見つけに来るから、今日もそうするかもしれなかった。アズールがジェイドのこの行いについて知って、何かを言う可能性について。考えかけて、ないな、とやめる。アズールがこちらに干渉してくることはほぼないし、あるとすればそれは支配人、もしくは寮長としての義務だから。そのアズールが、明日恋人らしい何かをしてくる可能性について。ないだろうな。今までなかったのだから。そう、アズールと自分は今何故か、恋人という関係にあった。事故のように始まったこの関係の終わりを、いつか切り出される可能性について。もしくはずっとこのまま、互いの気持ちが釣り合わないまま、関係が続く可能性について。そのどちらの可能性がまだましなのかについて。そう、ジェイドだけがアズールを好きなのだと、ジェイドは確信していた。うっかり好意を相手に分からせてしまったのは、ジェイドだったから――それに乗ってきたのはアズールだったけれど。この自分の、この重く底に沈殿した感情が、今後より重さを増していく可能性について考えて、ああ嫌だな、とジェイドは深く息を吐き出す。何事も、遠くから眺めているときが一番無責任に楽しめる。近づけば得体の知れない渦に引きずり込まれると分かっている場合は特に。この感情の渦がいつかなくなる可能性について考えながら、深く深く匂いを吸い込む。わずかな息苦しさを感じつつも、やはり気分が浮上する。アズールのようなこの香りに、染み渡るような安堵を覚える。と同時に、やはりこの匂いはアズールのものではないことを知る。そして今自分は、この香りがアズールのものでないことにも安堵したかもしれない。
自分から終わりを切り出してみる可能性について。
もしくは、この現実がすべて、海の底で自分が見ている夢である可能性について。
何時間経っただろう。
夜はまだ明けきってはいないようだが、徐々に窓の外は明るくなっていた。そろそろ寮生の誰かは活動を始める頃かもしれなかった。
海の表層らしきこの海域は生まれ育った深海とは違って、昼と夜とでは差し込む光量がまるで異なる。昼と夜とで、陸の生き物はまるで姿を変える。陸のジェイド・リーチも姿を変える。
また息を吸い込む。
アズールのような匂いがする。
最初は微かに鼻をかすめる程度だったこの匂いは、もはや強く密室に充満している。
その匂いを嗅ぐたびに、わずかな息苦しさが次第に強くなってきているのを感じる。
また、ゆっくりと、深く、息を吸い込む。
強く、強く、鼻腔にアズールに似た匂いが満ちて、それでも息苦しさは抜けなかった。
いくら空気を吸っても、呼吸がきちんとできていないような感覚がある。
真綿で首を絞められているかのような、いずれ窒息してしまうかのような感覚が。
いや、ジェイドは正しく自身が窒息しかけであることを知っている。
蝋燭を密室で燃やすということは、そういうことだから。
何かを密室で燃やすとは、そういうことだった。何かが燃焼すると酸素が二酸化炭素に変化する。二酸化炭素は下へ下へと溜まっていく。このことを知ったのは、陸に上がってから。よって、密閉された狭い空間で長時間ものを燃やし続けていると――特に今の自分のように空間の底に寝そべっていると、それが小さな蝋燭であっても人を死に至らせる可能性がある、ということまで理解したのは、この習慣が始まってからだった。
ジェイドは今、燃焼によって生成され沈降した二酸化炭素によって、窒息の手前まできている。
ジェイドはそのことを正しく認識していた。認識はしていたけれども、何か対処するようなことはしなかった。ただちに死にはしないから。もうすぐ朝が明けるだろうから。朝になるまで、夜のジェイド・リーチは動きたくないから。
この状況も、もはや習慣と化していたから。
もし本当にうっかり窒息死したとして、それはそれでよいような気がしたから。
息苦しくて頭がぼんやりした状況で、また思考を巡らせる。
沈降していくものについて。
人間は山にいらないものを埋め、海にもいらないものを捨てる。プラスチック。秘密文書。汚染水。死体。同様に、人魚は永遠に隠してしまいたいものを深い海溝に捨てる。写真。鍵。死体。永遠に秘密にしておきたい感情。
そしてそれらは、そのまま忘れ去られることもあれば、ふと明るみに出ることもある。
今ジェイドは海底にいて、己が隠したかったものと向き合っていた。これをそのまま埋めておきたかった。そのまま埋めておけなかった。今自分は、そのせいで窒息しそうになっている、のかもしれない。
海に潜ったまま地上に戻れなくなったある人間のダイバーは、自身の吐いた二酸化炭素で窒息したのだとか。
とりとめなく錯綜した頭の中が、ふと思いつきをはじく。
アズールの匂いに包まれて死ねる可能性について。
ああ、彼の匂いに包まれて死ぬことを彼が許してくれるのなら、それはどれだけ幸福なことだろう。
光が一層強く差し込んだ。
それは窓の外で本物の太陽が昇り、その光が海底にまで届いたことを意味していた。
そして所詮、ここに漂う匂いはまがいものにすぎなかった。
強くなりすぎた香りは、いまやあまりにも違いが明確だった。
そして所詮、可能性はただの可能性にすぎなかった。
いつだって最後には予定調和に帰結する、つまらない幻想の可能性。
ジェイドは偽物の海から顔を出す。偽物の太陽を改めて見る。小さな炎は、結局どこにもいけないままガラスの容器の中にいた。ジェイドもどこにもいかないまま水槽の中にいた。もう過去の話だが。
その偽物の太陽を吹き消して、床に乱雑に脱ぎ散らかされた服を一旦放置して、まずは密室のドアを開けて、その外の空気を深く深く吸い込む。
肺が待ちわびていた酸素を得る。心臓がうるさく鼓動する。わずかな目眩が、徐々に落ち着いてくる。陸の自分に戻る。昼の自分に戻る。本来あるべき自分に戻る。
今日はフロイドがここに来なかったから、自分が起こしにいってやらなければ。
*
「……あれ、ジェイド? ……おかえり?」
「おや、おはようございます、フロイド。もう起こしてしまいましたか?」
「んん、……なに、またやってたの」
なんとなく目が覚めたフロイドは、ちょうど視線の先にいた片割れを捉える。窓から光が差し込んでいた。ジェイドはその光に背を向けて立ちつくしていて、ターコイズブルーの髪の一部分だけがキラキラと輝いていた。寝起きの目には一等まぶしい。代わりに、顔は影になって見えなくて――その格好は、この時間にしては不自然なぐらい整っていたから、あ、と察しがついた。
近寄ってこちらをのぞきこんできたジェイドの襟をひっつかんで、スン、と首元の匂いを嗅ぐ。ほぼ洗い流されて消えかけていたが、少しうなじに残っていた――最近のジェイドお気に入りの、アズールに似た香りが。またやってたのか、なんてうんざりした。
「ねー、それ、もうやめなよ。オレ嫌い」
こうやって気づくのも、こうやって文句を言うのも、これで何度目だろう。それでもきっとまた、ジェイドはやめてくれはしない。片割れは変なところで頑固だから。キノコもやめてくれないし。これはなんか、めんどうくさそうな要因も絡んでいそうだし。ほら、今日もジェイドはおやおや、なんて困ったように笑うだけで、ちっとも聞き入れる気配はない。
はあ。フロイドは、大きくため息をついた。たまに思う、いつかジェイドがうっかり死んでしまうのではないかなんて――ジェイドにする心配ではないかもしれないけれど、ありえなくはなさそうで、それがいやだった。いやだけど、いちいちジェイドの様子を見張って回収しにいくのは、端的にめんどうくさい。気が乗らないときもあるし。寝ていたいときもあるし。今日のように、あとになって気づくときもあるし。はあ。
朝から気分が急降下したフロイドとは対照的に、ジェイドはニコニコしている。いつものように。こちらの気も知らずに。僕、今日は何かつくりたい気分なんですが、なんて言い出して。
「パンケーキなんていかがですか?」
「……食べたい〜!」
まあ、それはそれとして、とりあえずはお腹がすいた。ジェイドがつくってくれるらしいパンケーキが食べたい。
思考は一気にそっちに傾いて、フロイドは心中のモヤモヤを、まあいっか、と先の誰かに放り投げた。
*
夜が明けきる手前の時間帯だった。
アズールは昨晩からずっと、ある依頼の算段をつけていた。タコもウツボも、夜の方が頭が冴える。だからいつのまにか夜が更けているなんて仕方のないことで、本当は昼間に寝たいのだが、学校というシステムはその逸脱を許さない。
本日も例に漏れず、一段落ついたころには、気づけば朝に近い時間帯になっていた。今日は休日だが、ジェイドとの外出の約束がある。だから少し仮眠をとろうかと思った頃合い、そのジェイドの番号から電話がかかってきた――かと思えば、実際に出たのはフロイドだった。
『アズール、オレ、飽きた』
「……はあ? なんです、こんな時間に。ジェイドは?」
『ジェイドがさあ、今日も変な遊びしてんの』
「は?」
『ちっさい浴室、あるでしょ。あそこでよく死にかけてんだけどさ』
オレもうアレをなんとかすんの飽きたから、アズールがなんとかしてよ、と、フロイドはアズールに爆弾を投げつけた。
まだ寮内に日は差していなかった。
アズールはカツカツと廊下を歩く。普段なら特に用などないそこへと続く扉を認めて、足を踏み入れる。
浴室から小さな灯りが漏れていた。遠慮なく浴室のドアを突き飛ばすと、驚いたような水音が聞こえて、そして充満する匂いに思わず顔をしかめる。脱ぎ散らかされた服を認めて、その奥に探していた人物を見つけて、アズールはさらにそのしわを深くした。
フロイドの言った通り、そこにはジェイドがいた――浴室の底に寝そべって、つくられたままの人間の姿で、器用に2本の足を抱え込んで。浅い水の底から、わずかに見開かれた目がこちらを見ていた。むせかえるほどの死の香りとともに。
「馬鹿かお前は‼︎」
ああ、ここに漂う濃密な香りが本当に不愉快だ。
目の前の男に襟でもあれば掴んで引き上げてやったのに、裸体だから簡単に掴めるところなどどこにもなくて、首に縄でもつけてやろうか、と不穏な考えが一瞬頭をよぎった。そう、自分は、この男に対して――本当に、強く、怒っているのだ。そして、これに気づけなかった自分自身にも。
「ア、ズール。どうしましたか?」
驚いているはずなのに平静を装おうとする声が本当に憎たらしくて、お前は僕に弱みを見せようとしないよなということが本当に憎たらしくて、僕に来てほしくなかったんだろうな、ということは、驚きと焦りをありありとにじませた不本意そうなジェイドの表情が物語っていたが、ひとまずそれについて考えるのは後だ。
アズールは、有無を言わせない支配者の顔でジェイドに告げた。
「いいからとにかくそこから出ろ」
この馬鹿の体を拭いて、髪を乾かして、服を着せて、珈琲でも入れてやって、たんまりと何か食わせて、場合によっては寝かせてから。話はそれからだ。
*
それは、さして普段と変わりない日のことだった。
お前、僕のことが好きなんですね、とアズールは言った。唐突に。ただの確認のように。
はい、とジェイドは返した。それ以外の言葉は、何も出なかった。
そのジェイドの二音の返答に、アズールはただ首肯して、では、付き合ってみませんか、と告げた。
「ジェイド、僕もお前のことは好ましく思っています」
それがすべての始まりだった。
*
ジェイド、とアズールが呼びかける。
アズールのその声はよく知っている。寮長としての声。支配人としての声。上に立つものとしての声だ。言葉の裏の本音を、感情を全て、演技のうちに平坦に隠してしまうための声だ。それでも常だったら、その裏側まで見透せたかもしれなかった。この声を向けられる相手は、いつもはジェイドではないのだから。
どうしてこの状況になったのか、ジェイドは未だにつかめていない。途中まで、いつもの通りだった。いつもの通り、あの浴室で遊んでいた。そろそろ息苦しさが増すだろうか、そろそろ夜が明けるだろうかという頃合いだった。唐突に聞き馴染みのある足音が割り込んできて、そうしてジェイドの浴室に、アズールは入ってきた――一番見たくない相手だった。一番見られたくない相手だった。けれどもひとまず、どうしましたか、とジェイドは尋ねた。何か緊急の用件かもしれなかったから。アズールは告げた。
「いいからとにかくそこから出ろ」
その瞳は炎のように怒りで燃え上がっていて、こちらを睨みつけていた。
海中は急激に明るみ始めたころで、それでも太陽はまだ昇っていなかった。
あれから半ば強制的に体を乾かされ、着替えさせられたかと思えば、すぐさま手を引かれて連れて行かれた先はアズールの部屋だった。フロイドから聞いたんです、と途中で告げた彼の声には、明らかにピリピリとした感情が込められていた。あのときのアズールは、まだ読みやすかったように思う。分かりやすく苛立っていた。分かりやすく怒っていた。何に? ジェイドに。――何故?
「ジェイド。何故あんなことを?」
そうして、アズールの部屋の、寝台の脇のオットマンに、ジェイドは座らせられている。
その対面、こちらに椅子を向けて座っているアズールに問いただされている。
さきほど、いつものティーワゴンを取り出したアズールを見て、「入れましょうか」とジェイドが差し出した声は、「結構です」とぴしゃりとはねつけられた。「お前は座っていなさい」とまで命じられたものだから、ジェイドはただ眺めていた――慈悲の精神を体現するかのように、あるいはあてつけかのようにいつものティーカップに珈琲を入れるアズールを、どこからか軽い菓子まで出してきてこちらに差し出すアズールを、遠くから傍観するかのように眺めていた。アズールが次第にペースを取り戻し、何らかの仮面を被り直すのを眺めていた。ガラス越しに海の生き物を観察しているかのようだった。そして、ジェイドもまた、あくまでもいつも通りを、いつも通りという仮面を被ったままでいた。
珈琲の匂いが部屋を満たしはじめた。「飲みなさい」と差し出されて、――そのとき、ふ、と別の香りが漂った――コロンの香りだ。本物のアズールの香りだ。手の届かない香りだ。
ああ、本物はこんなにも違う。
その匂いに気を取られて、思考を遠くに飛ばしていたジェイドは、その次のアズールの問いに反応するのが遅れた。「ジェイド。答えなさい。何故?」と再度、やや圧力をかけてアズールが問うて、意識が目の前に引き戻されて――何故あんなことを、と問われたのだったか。理由がいるのだろうか。説明する必要があるのだろうか。それこそ、何故?
ジェイドにとってこの状況はあまりにも不本意で、あまりにも目の前のアズールの意図が読めないものだから、返答は少々投げやりで挑発的なものになった。
「僕は、その質問に答えなくてはいけないんでしょうか?」
あえて刺を持って投げかけたそれは、やはりアズールの神経に障ったらしい。彼はぴくり、と眉間のしわを深くした。その目に苛立ちが混じった――ややあって彼は、「僕は寮長なので」と口にした。
「寮生がおかしな真似をしていたら、それを止めてやる責任があるんです。とりわけお前は、副寮長でしょう。……何故あんな真似をしているんです? フロイドから聞きましたが、1度や2度ではないんでしょう?」
「寮長なので」。ああ、なんて慈悲深い人だろう、とジェイドは笑い出したい気分だった。はたから見れば、奇行に走るほど悩み事を抱えた寮生に、慈悲深く悩みを聞き出そうとする、理想の寮長そのものだ。当の寮生は、そんなこと望んでいないのだけれど。
じっとこちらを見据えるアズールの瞳に、もう炎は燃えていなかった。代わりにその視線は、氷海のように冷え切っていた。こちらを全て見透かそうとするかのような昼の空の瞳には、一歩も引くという意思はなかった。
こうなったアズールは頑固で、有意な回答を引き出すまで絶対に引いてくれないことを、ジェイドはよく知っていた。だからどうにかしなければならないのだけれど、ジェイドはもうどうでもよくなってしまった。怒らせてしまってもよかったけれど、このせいで尾を引くのは嫌だった。
何か、返さなければならない。アズールが納得してくれて、かつ当たり障りのないことを。そうですねえ、と知らず知らずのうちに嘆息まじりの言葉は漏れ出て、口元はいつもの微笑みを形作った。内心本当に困り果てているのだけれども、はたから見れば、きっといつもとそう変わらないことだろう。
「…………眠れなかったので。眠れないときはたまにああするんです。僕にとっては楽しいことですよ。そんなに心配なさらないで、アズール。慈悲をかけてくださらなくても、よろしいんですよ?」
「楽しい? 窒息しかけることが? 正気ですか?」
「ええ」
まぎれもなく正気だった。自ら好き好んでやっていることだった。楽しいこと、というには、語弊があるかもしれないが――楽しい、という響きのように、無邪気で健全なものではないから。あれはそう、毒性が議論の俎上にあるキノコを口に含むかのような高揚を、もしくは底の見えない海溝へ一気に潜水するかのような深い恍惚をもたらすものだった。
ずっとあそこでああしていると、現実を忘れて、アズールの香りに上から下まで支配されているような感覚に陥る。例えそれが錯覚でも。
でもそれは、アズールには告げられない。
ジェイドははたと、自分が少なからず動揺していることに気づいた。何故か執拗に問いただしてくるアズールに、苛立ちさえ覚えていることに気づいた。ジェイドは、この密やかな遊びを、アズールに知らせる予定は微塵たりともなかったのだ。あんなことを自分がしているだなんて、あんな欲望を自分が抱えているだなんて、知らせるつもりは微塵たりともなかったのだ。フロイドも、放置してくれるものだと思っていたのに――気まぐれにジェイドの元へ来たとしても、それだけだと。フロイドがアズールに話すとは思っていなかったし、フロイドが話したところで、こうしてアズールがジェイドの行為を咎め立てるとは思っていなかった。彼はきっと、いつものよく分からない好奇心だろうと放置してくれるものだと考えていたのに。――どこまで理解してしまったのだろう、それを考えると恐ろしかった。
さて、今なお納得していなさそうなアズールの反応を総合するならば、彼が引っかかっているのは、窒息しかけていること、その身を危険にさらしていることらしかった。副寮長だから、無責任なことをするなと。立場をふまえた振る舞いをしろと。引き下がる気のなさそうな頑固な目から言って、しおらしく納得したふりをして、こちらが引き下がるのがよいのだろうな、と状況を分析する自分は告げる。それが一番穏当に済む選択肢だった。ジェイドが、諦める。引き下がって、この習慣を終わらせる。終わらせて、元通りに戻る。これが、なかったことになる。自分の気持ちまで。
嫌だった。耐えがたいという衝動と、仕方がないという諦観が湧いてきて――ついでに、関係を終わらせてしまう可能性について、ジェイドは考えた。そうしてこの気持ちを、まるごとどこかに捨て去れたら。こんなふうに悩むことも、彼の手を煩わせることもなかったのに。
アズールは、まだ納得していないように、納得できる材料を差し出せと言外に告げるかのように、あるいは獲物が急所を晒す瞬間を逃さないように、ジェイドから目をそらさなかった。ああ、恋人を見る目じゃないな、とまたひとつ、苦笑とともに納得する。ジェイドは恋に浮かされた者の瞳の熱を知っていた。あからさまに、あなたのことが好きです、と告げる瞳の熱を知っていた。だから、アズールが自分にそういう熱を向けていないことも知っていた。――そう、彼にとっては所詮真似事だ。「あの日」のあと、どれほど注意深く観察しようが彼は変わらなかった。つまりは彼がジェイドに抱えている感情は、ジェイドの知っている「好き」ではないのであって、では何故ジェイドにこんなことを持ちかけてきたのかというと、商売絡みか何かだろうと、そう推測している。それも彼らしいとは思うから、不平不満は飲み込んでしまえるのだけれども。
眠れないのなら、とアズールは口を開いた。眉間に深くしわを刻んだまま。
「眠れないのなら、僕の部屋に来て仕事を手伝え。やりたいことは山ほどあるんですから」
アズールはそう言い切ってから、逡巡するかのように視線を彷徨わせた。「――いや、……」と何事かを口に出そうとして、ためらっている。何を言うべきか、分からないように。言葉が言葉にならないように。これを吐き出してもいいものか、思案しているように。
叱るべき対象を目の前にした彼としては珍しい振る舞いだったから、ジェイドは虚をつかれた。「仕事を手伝え」というのは、あまりにも寮長の彼が言いそうなことだった。そういうことではないのだ、とジェイドは思っていて、アズールと一緒ではない、アズールの一挙一動に心を惑わされない時間が欲しいのだと思っていて、しかしアズールもそう思っているのかと思うと嫌で、アズールの逡巡に、弾かれたように言葉を被せて投げつけた。いつものジェイド・リーチのような嫌味を。
「おや、そうなると、僕は本当に寝付きが悪いときがあるので……朝までご一緒することになるかもしれませんが。それはさすがに、おいやでしょう?」
そう言いながら、ついジェイドは夢想した。この本物の香りが側にある夜を。手の届かないだろう可能性を。空想としてしか語れない夢を。それはきっと、おとぎばなしの結末のように、幸福に満ち足りているにちがいなかった。――そして、「ご一緒することになるかもしれませんが」のあたりで、アズールは明らかに、動揺した。それはジェイドの空想を、空想たらしめるには十分だった。
分かっていたことではある。アズールは、パーソナルスペースに人を入れたがらない。心の奥底に他人を侵入させることを、とかく嫌う。隙を見せる場面を、とかく嫌がる――だからいつも胡散臭い仮面を被っているのだし。だからとっくに分かってはいたことではあって、それでもこうもまざまざと実感させられると、さすがにじくじくと胸のあたりが痛んだ。これが傷つくということなんですね、とジェイドは他人事のように傍観した。心を守るために横たわっていた分厚いガラスの壁があって、今それはさらに分厚くなった。
それ以上アズールを見ていたくなくて、ジェイドはカップの中の、漆黒の水面に視線を外した。珈琲は今欲しくないとは思ったけれど、目の前の相手から気を逸らすためだけにティーカップを手に取った――だから、次に聞こえた言葉が、よく分からなかった。
「いや、では、ないです」
「…………?」
「いやではないですよ、僕は。お前は嫌なのか?」
「………………いやではない、ですか?」
カップを中途半端に持ち上げたまま、ついつい目をあげて、――ジェイドはそのまま、息を吸うのを止めた。アズールの目元は少し紅潮していた。視線は明後日の方向に泳いでいた。瞳は……、その瞳には見覚えがあった。そのことにジェイドは一番驚いた。驚きすぎて、何一つ反応できなかった。告げられた内容も飲み込めないままだった。
「いやではない」。それはアズールの挙動や、瞳の――制御できない熱に浮かされたかのような瞳の色を加味するに、そういう意味で。――あのアズールが? 真っ先に思ったのはそれだった。あのアズールが、そういう意味で、そういう言葉を発することなど、ありえない、とジェイドの直観はすべてそう主張した。アズールはどういう意味か分かっていないだけなのでは、と告げる自分がいる。いやしかし、そういう意味以外にどう取れるのか、と告げる自分もいる――あのアズールが「いやではない」をそういう意味で言った、その可能性について考えたところで、そのあまりの底の知れなさに恐ろしくなり、思考の先を打ち切った。……そもそも、僕の言葉、そういう意味で捉えられたんでしょうか。実際ジェイドは、さして含むところもなかったのだ。いや、思わないこともなかったけれど、アズールはそういうふうに捉えないだろうと確信していたのだ。だからやはり、帰結する先はあのアズールが? という思いで、何かの取り間違いでは、と――でもそれにしては目の前の瞳、頰の紅潮、何かをごまかすような仕草はあまりに不可解で――つまり思考はぐるぐる回ってばかりで何の答えも導き出せなくて、ジェイドが混乱の渦中にいるうちに、アズールは堰を切ったように言葉を続けた。
「ねえ、ジェイド。ああは言いましたが、僕は……僕は別に、お前に仕事を手伝ってほしいわけじゃない。ただ、お前が……あんなところにいるのが嫌なだけです。なんであんなところにいるんだ? なんであんなところで、わざわざ火をつけて、変な香りをたいて、死に近づくような真似をして、……死にたいのか? 死にたいわけじゃ、ないんですよね? お前があれを楽しんでいるというのなら、……いや、確かに楽しんでいるのだとしても、嫌です。全く納得できない。楽しいから、ええ、確かにそれも理由の一面でしょう。ですが、ジェイド、それだけか? 本当にそれだけか? 僕に何か、隠しているだろう? 僕に相談できないことですか。……なんで。なんで、眠れないのなら、何かが怖いのなら、なんで僕のところに来ない?
……僕は、いつお前が来ようが全然構わないですよ。お前があそこであんな真似をしないなら、なんでもいい。下心も、あることは否定しませんが、それ以上に、……嫌なだけです。お前があそこにいることが」
ところどころ言葉をためらって、それでもこちらをまっすぐに見据えて、アズールは言う。仮面は剥がされて、その下の激情はさらけ出された。はるかに分かりやすい、読み取りやすいそれだった。その偽りとは思えない激情に圧倒されて、それでもジェイドは認めがたかった。だってそれは、まるで――ジェイドを望んでいるかのように聞こえる。ジェイドは、かちゃん、とティーカップをいささか粗雑な音を立てて着地させて、それで平静を取り戻そうとして、――それでもまだぐちゃぐちゃの頭に、「ジェイド、聞いていますか」という懇願を帯びた圧力が追い討ちをかけた。
「……え。ええ、いえ、まさか貴方の口から、そんな言葉が出るとは」
「は? お前、お前ほんと、怒って悪いか、心配して悪いか、だってお前は、あまりにもあぶなっかしいし……………それに、僕たちは、その、」
こいびと、でしょう。
掠れ切った声で告げられたそれに、今度こそジェイドの思考はすべて停止した。それは、商売絡みだと言い切るには、あまりにも――あまりにも特別な響きだった。
「え、……だってあなた、別に僕のことは、そういう意味で好きでは、」
「は?」
ないでしょう?という言葉の最後までを待たずに、低く威圧する声を出したアズールは、ぎっとこちらを睨んだ。そして告げた。
「好きですが」
ひゅ、とジェイドは息を止めて硬直した。
あの日のことはよく覚えている。
さして普段と変わりない日のことだった。モストロ・ラウンジを締め終わった報告に、ジェイドが上がったときだった。ちょうどこの、アズールの自室だった。
お前、僕のことが好きなんですね、とアズールは言った。唐突に。ただの確認のように。
はい、とジェイドは返した。それ以外の言葉は、何も出なかった。まさか、そんなはずないでしょう、思い上がりがすぎるんじゃありませんか、とでも言えたのならよかったのに。
聞きたいことは山ほどあった。どうして分かったんでしょうか。どうしてそんなに確信を持って、こちらが秘めていた感情を暴いてしまうんですか。それはただの好奇心ですか。それとも憂さ晴らしですか。それとも、これが商売になるかもしれないと? ジェイドは動揺するのと同時に、アズールに少々立腹してもいた――だから、せめて何か嫌味でも言ってやればよかったのに、はい、以外の言葉は、喉につかえて出てこなかった。
ジェイドのその二音の返答に、アズールはただ首肯して、では、付き合ってみませんか、と告げた。
「ジェイド、僕もお前のことは好ましく思っています」
あまりにも残酷で無慈悲な響きだった。告げられた内容よりも、硬質で抑制された声が、その意味するところを語っていた。まるでただの確認、ただの業務命令、いや、彼にとっては正しく取るに足らないことなのだ――アズールの視線は手元の書類の方に移っていた。この状況すべてが、彼がこの話題にそれほどの重きを置いていないことを示していた――と、ジェイドはそう解釈した。
あのとき自分がなんと返したか、よく覚えている。「おや」と一拍置いて。アズールが撤回も説明もする気がなさそうだと判断してから、「では、よろしくお願いしますね?」とにっこり。あえて冗談めかしたように聞こえてほしいと思っていた。本気で受け取ったなどと思われないように。この一連のやりとりが、悪趣味な冗談であってほしいとも思っていた。とにかくこうして関係は始まった――ジェイドの予想に反して、後にその意図が説明されることも、撤回されることもなかったし、かといって何か、世間一般でいう恋人らしいことが始まったわけでもなかった。
思えばあのとき、何を考えているんですか、とでも聞けばよかったのに。おやひどい、僕の想いを利用して何かをしようとするなんて、とでも言えばよかったのに。ほんとうに情緒のない方ですねえとでも、揶揄してやればよかったのに。言う機会なんて、とうの昔になくしてしまった。
あのときのアズールは平静そのものに見えた。なんの感情もうかがわせない声だった。それこそ寮長としての、支配人としての彼だった。
それでも、例えば、なにか、推論の前提条件に見落としがあったならば。パズルの一ピースでも誤りがあったならば。物事を正確に写しとるレンズが、実は歪んでいたならば。それでも、――あのときの認識が覆ることなど、今さらあるのだろうか? 海溝の底に隠された感情が、ジェイドだけのものではなかったなど、そんなことはあるのだろうか?
「本当に、アズールは、僕のことが、好きなんですか?」
ジェイドのその声は、思ったよりもひどく自信なさげに――あまりにも見当違いな、すぐさま否定され立ち消えるただの妄執のように響いた。もしくは、確認するまでもない当然のこと、ジェイドだけが知らなかった真実のように響いた。二つの相反する可能性に立ちすくんで、世界にぽつんと置き去りにされたその言葉は、あまりにも重かった――そのあまりの重さにくらりと目眩がしたが、出してしまった言葉はもう取り消せない。
「好きですよ」
そうしていともたやすく、ジェイドだけが知らなかった真実が響く。たちの悪い夢でも見ているのかもしれなかった、そう、例えば、あの陸の水槽でうっかり死んでしまって、それで――夢ならば現実に侵食させたくはなかった。現実ならば早く本当のところを確定させてしまいたかった。ジェイドは混乱とともに問うた。
「好きって、どういう……好奇心ではないんですか? 遊びでも? 仕事の延長でも?」
「は?」
「本当に、僕のことが、好きだと?」
「……お前、僕をなんだと思っていたんですか。……いや、何か勘違いをしているなとは、思っていたんですが」
アズールは不意打ちを食らったかのように目を見開いて、その眼光に裏切られたような色が浮かび上がったのをジェイドは見た。アズールは、その事実を受け止めるために一呼吸分間を置いた――そして、今度こそ真意をとりこぼされないように、告げた。
「……好きです。好きですよ、ジェイド。お前のことが、本当に。もちろん、恋愛感情としての意味です。僕はお前と、世間一般でいう恋人になれたらと、ずっと思っていました。……僕のこれは、お前には伝わっていなかったんですね。お前、本当に、分かっていなかったんですね」
お前はなんでも分かっているように思えたから、と漏らして、アズールは内省するかのように視線を下げた。真摯に告げられたその言葉に、ジェイドの認識は、山の霧が晴れたときのように隅々まで塗り変わって――ああ、アズールを傷つけるつもりは、なかったのだ。何か言わなければ、とわなないた唇は、それでも彼の名前を紡ぐことしかできなかった。
「アズール、」
「ジェイド、」
アズールはジェイドを見ていた。ジェイドはアズールを見ていた。お互いがお互いを見ていた。もうどちらも視線をそらしなどしなかった。
「お前に伝わっていると思っていました。お前は分かっていると思いました。……でも、そうじゃなかったんでしょう。だから、返事をください。もう一度、やり直します。
ジェイド。僕と、恋人として、付き合ってくれませんか」
まっすぐにこちらを射抜いたそれは、夢を現実に変える、強い意志を持った人魚の眼差しだった。目標に向かってただひたすらに邁進し、必ず実現させる人魚の眼差しだった。目の前の獲物を逃しなどしないと告げる眼差しだった。ジェイドの大好きな眼差しが、今ジェイドに向けられていた。湧き上がった返答は一つだった。
「アズール、僕は、……僕も、好きです」
ジェイドのその声はひどくかすれて聞こえて、それが恥ずかしくて、言葉をやり直してしまいたかったけれど、今ここでそうしてはいけなかった。じわじわと、アズールの瞳に安堵が浮かぶのが見えた。しばらくずっと見つめあったままだった。それは一瞬のことにも、無限のことにも感じられた。太陽はもう、昇りきっていた。
「……ジェイド」
すっかり明るくなった海を背にしたアズールは、ジェイドの頭にそっと手を伸ばした。髪の毛をそっとなでつけられる。指先はするりと下へと降りていって、頬を、顎の輪郭をなでられる。繊細な食器を扱うかのように、丁寧にやさしく触れられたものだから、ジェイドはふわふわと天上にいるかのような心地になった。抱きしめても、とアズールは慎重に囁いて、ジェイドは無意識のうちにこくりとうなずいた。アズールが椅子から立ち上がる。腕がジェイドの肩の上に回されて、そっと胸元に抱え込まれる。くしゃり、と先ほどより遠慮のなくなった手つきで頭をなでられる。よかった、とアズールはつぶやいて、その声音があまりに切実なものであったから、ジェイドはいたたまれなくなって、頭を胸元に擦り寄せた。
ああ、こんなにも近くて温かい。
お前はなんでも分かっているように思えた、とアズールは言った。ジェイドもあのときから、アズールはなんでも見透かしているように見えた。だから実は、同じところを同じように覗き込んでいたのかもしれない。お互いにお互いを、曇ったガラスに透かして見ていたのかもしれない。お互いに、ないものを探り合って、ありもしない虚像を見て、それで。
「……僕、あなたは、恋なんてしないと思っていました」
弱々しい声がこぼれた。もう仮面などどこかにいってしまって、すべてをさらけ出してしまいたかった。
「あなたは、とりわけ僕に、恋などしないのだと」
ジェイドはずっと、アズールはこういう感情を好まないと思っていた。こういうことに興味などないのだと思っていた。だから声をかけられたときは驚いた、彼は誰でもよいはずのその相手に自分を選んだのだと――嬉しかったけれど、どうしようもなく虚しかった。なにも僕でなくともよかったのに。他の誰かを選んでも嫌だったけれど、それはそれで、飲み込む準備はできていたのに、と。
「恋ぐらいします、僕も」
「そのようですね……」
そのアズールは、今こんなにも近くにいる。こんなにも近くにいると、また別の香りが混じることを知る。ああ、これは、海の中の匂い、海のアズールの匂い、彼本来の肌の匂いだ。海と陸とが入り混じったどこかに、ジェイドはたゆたった。アズールも、ジェイドの後頭部に顔を寄せて、すん、と吸い込んだ。そのアズールがつい顔をしかめたのは、ジェイドのつゆ知らぬこと。
「お前、あんな香りが好きなんですね。知らなかったです」
「……そうですね。好きですよ、あなたの香り」
「え?」
「……?」
「僕の香り?」
「……はい?」
「僕の香り、なんですか?」
抱擁が緩んだ。ジェイドは疑問符のついた声の方を見上げた。まんまるに見開かれたアズールの目がそこにあった。開示しなくてもいいことを開示してしまった、その事実に気づいたのはそのときだった。
あまりの羞恥と、アズールの唖然とした表情の直視に耐えきれず、ジェイドはさっと視線を逸らした。
「……いや、違います。あなたの香りではなく、あなたの香りに似た香りだったので」
「…………つまり、なんですか、僕の香りが好きなんですか、お前」
「………………」
無言こそは何よりも雄弁に、ジェイドの隠したかったところを語っていた。アズールも動揺している、こちらを抱きしめる腕の力がぎくしゃくとこわばって、どう力を入れたものか分からなくなったようだったから。その珍しく対処に困っている様子が唯一の猶予でもあったのに、やがて無情にも、彼は痺れを切らして、ジェイドの顎をつかんで強制的に正面を向かせた。
「ちが、……ちがうんです……」
「何が違うんですか」
だって、あなたは。こんなにも近くに僕を置いてはくれないと思ったから。
あなたに包み込まれて、死んでしまえたらと。僕はずっと、そう思っていました。
そんな言葉は出てきたけれども、それこそ開示するわけにはいかなくて。
「ねえ、お前、そんな顔ができたんですね」
「……なんて意地の悪い」
ふふ、とアズールは笑った。今日はじめて笑った顔を見たかもしれない、と思う――ジェイドの思い違いでなければ、平素よりも随分と柔らかい笑顔だが。その柔らかさがまた、ジェイドを落ち着かなくさせる。
「ねえ、何を不安に思っているのか知りませんが、……僕は、嬉しいですよ」
「――ぇ、」
かわいい、とこぼれたようにつぶやかれて、もうどんな顔をすればいいのかも分からない。
見上げたアズールの表情はもう分かりにくくなどなかったけれども、見たことのない色をしていた。錬金術で高難易度の錬成に成功したときに近いかもしれない。興奮と歓喜と、――見たことのない熱量が入り混じった色。ああ、もう、予想外のことが起こりすぎて、今はもう、見るのは無理だ、と判断したジェイドは、顎を拘束する腕ごと彼の胸元に顔をうずめた。
「……っ」
「っ、ジェイド? おい」
「…………すみません、しばらくこのままで」
ジェイドは震える声で言った。
しばらくの無言ののち、ええ、とだけ、アズールは返した。
再びぎゅっと、腕が回される。
ジェイドも――そっと、腕を伸ばした。
しばらく――ジェイドの体感時間ではしばらく長い間、ずっとそのままだった。二人きり。抱えたまま。抱えられたまま。お互いがお互いにすがりついたまま。温もりの中でたゆたう。すう、と息を吸って、吐く。ばらばらに聞こえていたお互いの鼓動のリズムが、いつしか混ざり合って一つの調和を生む。それに身を委ねているうちに、いつからか体の強張りはとけて、眠気がやってきて、くわ、とあくびを噛み殺した。
ふいに耳元にアズールの吐息がかかった。「眠そうですね」とつぶやかれて、その刺激で遠くにぽわぽわと飛んでいた意識を取り戻す。知らない間に、ジェイドは随分とアズールにもたれかかっていたらしかった。
「……あ、すみません」
一気に羞恥が襲ってきて、体勢を戻そうとしたけれど、それは叶わなかった。代わりに、アズールは穏やかに告げた。
「寝てていいですよ。今日、寝ていないんでしょう、お前」
「……寝ましたよ、いつもの時間に。それで、途中で目が覚めたので」
「つまり、寝てないんだろうが」
確かにアズールの言う通り、無闇に眠気は襲ってきていたが、今のこの状況を手放して一人で部屋に帰るのはあまりにも惜しくて、ジェイドは口先で抵抗した。
「……9時から、貴方との約束がありますが。視察でしょう?」
「…………デートですね。お前……そこもか」
「へ、」
「僕は、寝ていない恋人を連れ出すほど酷薄ではありません。昼過ぎからにしませんか?」
「…………しかし、」
「いいから、そこで寝ろ」
そこで。指示された方向に、ジェイドは眠気が全てふっとんだのを感じた。そこで。すぐ横にある、アズールのベッドで?
「……え、いえ、え?」
「その状態で外に出歩かれて、廊下で倒れられても困ります。……ああ、心配しないでください、僕は順番はきちんと守る男ですから」
廊下で倒れるなんて、そんなことあるはずがないでしょう、という言葉は喉まで出かかったのに出てこなくて――「順番は守る」ってなんだ――混乱のうちにぐいと引っ張られて、体はぼすんと寝台に倒れこんだ。ジェイドは勝手に掛け布団までかけてくるアズールを恨みがましげに睨んだが、当の本人は意に介した様子もない。
こんな状況だというのに、寝不足のウツボの体は現金だった。肌に吸いつくようなシーツが心地よい。大きな掛け布団に挟まっていると自然と落ち着く。安心で気が緩みきった体は眠気には抗えなくて、まぶたが自然と閉じそうになる。それでも腕の中が寂しくなって、例に漏れずいい香りのするクッションをその手に引き寄せた。ふあ、と深い安堵に包まれて、もうすぐにでも眠りの中に落ちてしまいそうだった。と、そこに。
「僕にしろ」
無慈悲にもクッションを取り上げて、魔法で寝衣に着替えたアズールが入り込んできた。
「僕も眠いんです。どこかの誰かのせいで」
「…………あなたって、もしかして、」
僕のこと、相当に好きですか。眠気のうわごとだった。笑い流されてもおかしくないことばだった。
「好きですよ。好きなので、一緒に寝てください」
なんにもしませんから、なんてアズールは大真面目にそう言って――よくよく見れば彼も眠そうだった。まぶたが半分落ちている――ジェイドの腕の中に身を投げて、ジェイドの頭を抱えた。
だから、なんにもってなんなんですか、とジェイドは思って――けれど、なんと返せば良いのか分からなかったし、眠気の重力には抗えなくて――彼の首元に鼻を近づけて擦り寄った。コロンの匂い。肌の匂い。海と陸が入り混じった匂い。
「……本当に、」
夢みたいです、とジェイドはつぶやいた。
夢じゃありませんからね、とアズールは言い聞かせた。
アズールが言うのだからそうなのだろうな、とジェイドは奇妙に納得した。
ここは一つの現実の中、ささやかな奇跡の中、ジェイドが予想などしなかった可能性の中。
その確かな世界に抱かれて、ジェイドとアズールは深い深い海の底のような眠りへと沈み込んでいく。
ふたり、一緒に。