The 30 Days

0th day – a fateful night with a new moon, which something new happens –

「……僕のことが好き、ですか?」
 そうつぶやいた対面のジェイドは、なんとも飲み込みがたいというような顔をした。
 ジェイドを自室まで呼び出したアズールは、つい唾を飲み込んだ。伝えたいことがあるから部屋まで来るようにと、業務的な伝達のように告げたそれは、実際には私的な告白のためのカモフラージュにすぎなかった。そうしてその私的な告白は今や終わり、部屋はピリピリとした――アズールがそう感じているだけかもしれないが――静謐で満ちている。
 机の上には二人分のティーカップと、先ほどまで確認していた書類。窓の外には暗く沈んだ夜の海だけが映っていて、いつもならば天上の月から差し込む光は、今日は一筋さえも見あたらない。新月の日だからだ――この告白に、新月の日を選んだのはアズールの意図したところだった。何かを新しく始め直すにはいい日だ。
 ジェイドは目を伏せた。常のように滑らかに、右手が顎に添えられる。やや頭が傾いて、黒い髪の房が揺れた。何かを思案している――ジェイドのすべての挙動を、アズールは一つたりとも見逃さまいと追っていた。今のこの状況は、この男に全てが委ねられている。この先の展開がどうなるかは、この男の反応次第だ。だというのに。
(……なんだ、その反応)
 予想していなかったジェイドの長考に、アズールの目は怪訝なものになりつつあった。
 笑うなら笑い飛ばしてくれ、あるいはきっぱりと嫌そうにしてくれと思っていたし、きっとそうなるだろうと予想もしていた。ジェイドはアズールにその種の執着は持っていないだろうと踏んでいたし、この人魚はつまらないことには残酷なまでに無慈悲な反応をする。そしてそうなるのならば――アズールは絶対にそうなると思っていた――、自分はこんな、何一つ生産性のない感情にきっぱりと諦めをつけることができるだろうから。こんなものが一片たりとも残らないまでに、すべてを燃やしつくすことだってできるだろうから。
 だというのに目の前の男は、理解しがたい陸の風習を見るかのような、なんとも困惑に満ちた表情をしている。
 この男がこんな表情を見せるのは珍しい、とアズールは緊張と困惑の中で思う。そうだ、さしものジェイドだって困惑するのも無理はないのかもしれない。何故ならば、たった今アズールがジェイドに告げたのは、特別な意味の好意であるのだから。
 そのジェイドが、ようやく唇を開く。途端にアズールの緊張の糸が張りつめる。
「……好き? ですか……それは、僕のことが同僚として好き、という意味で合っていますか? それとも、片腕として僕の手腕が好ましいという意味ですか? いずれにせよ珍しいですね、貴方がそのようなことを口にするなんて」
 致命的なまでに何も伝わっていなかった。
 アズールは叫び出したくなるのをすんでのところで抑えたが、思わず手に力を入れたせいで机がわずかにきしんだ。何も分かっていない様子のジェイドに頭を抱えたくなる。誰だ、この人魚にうっかり好意を伝えてしまった人魚は。僕だ。その何も分かっていない人魚は、何故か若干嬉しそうに目をきらめかせている――しかし、どこに嬉しがる要素があったのだか。
 この先の疲労と心痛を思うだけで、もうその認識のままでもいいかと思ったが、やはりこの気持ちに嘘はつきたくなくて、否定の言葉が口をついた。
「……違う。僕が、お前を、恋愛的な意味で好きだ、と言っているんです」
「恋愛的な」
「恋愛的な、です」
「それは……あの人魚姫が王子に抱いたような?」
「そうです」
「……つまり、僕の家柄がアズールにとって魅力的だと?」
「ちがう……お前はあの物語のなにを読んだんだ…………」
「さすがに冗談ですよ。ええ、海の魔女は本当に偉大な方であらせられますよね」
「そうですねえ……」
 アズールは長く長く息を吐ききって、半ばやけになって目の前の紅茶を煽った。完璧なまでに美しい佇まいのその紅茶は、いつも感嘆している味とさほど変わらないはずなのに、やけに刺激的で落ち着かない味がする。なにせ、これを入れたのは目の前で首を傾げているジェイドなのだし。
「恋愛的な、ですか」
 ジェイドはその言葉を舌で転がした。ジェイドの発する「恋愛的な」、はたどたどしい響きを帯びていて、アズールはこの人魚がその手のことに不慣れなのだと気づいた。――意外なような、別にそうでもないようなと思って、そうしてまたひとつ、先ほどとは別種の諦観が落ちる。
「僕の知る貴方は、恋なんて曖昧で不確実なものを語らないはずなのですが」
「……それは、お前がそう思い込んでいただけのことだろ」
「そうなんでしょうね。認識を改める必要がある、ということなんでしょうか」
 そこでジェイドはまた、こてんと首を傾げた。
「アズールの恋は……僕が相手なんですか?」
「…………さっきからそう言っているだろ…………」
「貴方にとっては自明のことでも、僕にとっては晴天の霹靂ですから」
 確かにジェイドの言う通りなので、そこでアズールは、ぐ、と言葉に詰まった。ジェイドはふと視線を落として、揺らいでいる紅茶の水面をじっと見つめた。その瞳は、紅茶の水面を見ているようで見ていないし、もはや視界にアズールは映っていない。
「……アズールが、恋愛的な意味で、僕を好き、ですか……」
「そう何度も繰り返さないでくれますか?」
 アズールは口早にそう告げて椅子にもたれかかり、窓の外を見上げた。いたたまれないし、やっていられない。早くこの状況から逃げ出したいけれど、この状況を作り上げたのはアズールなのだ。
 予想とは全く違う展開が続いて、アズールはどうにも気が抜けてしまったし、それでも変わりなく漂う諦観の中にもいた。この様子では、確かに過程は想定とは随分と違ったけれど、やはりジェイドには振られることになるだろう。そこまで考えて、ああ、とアズールは苦い感慨と澄み渡るような納得を飲み込んだ。きっとそうなる。きっとジェイドは、アズールの告白を断るだろう。
 その結論に行きついてしまったアズールは、だからもう、早くとどめをさしてくれと思うばかりだった。きつく目を瞑る。そうして何かを考え込んでいるジェイドを再び見て、この感情のすべてを諦める準備をする。来週からモストロ・ラウンジは新フェア期間に入るのだから、失恋の痛手を紛らわせるにはちょうどいいだろう――とまで考えたところだった。
「……アズール、そもそも貴方は、それを僕に伝えて、何をどうしたいのですか」
 ジェイドは顔を上げて、アズールを見据えた。金色の瞳がギラリと光った――すべてを見透かすようで、だから少し苦手で、それでも強烈に惹きつけられるその瞳。
「は、……どうしたいって、そんなの、」
 そんなの決まっている、と言いかけて、ふと踏みとどまる。実際自分は、何をどうしたいのか。そして、ジェイドがそんな質問を投げたということは、どういうことなのか。
 アズールは元々、別にジェイドとどうなりたいと願っていたわけではない。ただこの、徐々に輪郭を得て、大きく重くなっていく感情を、このまま隠し通しておくのが難しくなっただけだ。だから打ち明けることで、ジェイドが何かしら否定的なアクションをしてくれれば――今考えればおかしなことに、それはアズールの中で確定事項だった――、きっぱりと諦めもつくだろうと思ったのだった。
 だからそのように問われることを、アズールは考えたことはなかったのだが。
「……どうしたいんでしょうね……」
 混迷の末そう漏れ出た言葉に、ジェイドは黒い房を揺らして、笑みをかたどったまま表情をこわばらせた。
「……いや、困ります。貴方まで迷子にならないでください」
「……お前にそう言われると腹が立つのはなんででしょうね……」
「貴方にだけはそうは言われたくないのですが」
 物事はかくも思い通りに、シンプルにはいかないものなのである。
 告白して、振られて、それで終わり。その予定だった。だというのに、何故かアズールは今、ジェイドと一緒に得体の知れない洞窟の迷宮をさまよっている。その迷宮の袋小路に入り込まないよう、必死で思考の向き先を変える。かつて頭を占めていた可能性を丸ごと捨て去って、ありえないと除外していた可能性について考え始める。もしかして。もしかして、と思ったときに、アズールが望んだことは一つだった。
「……というか、なんですか。そんな質問をするってことは、もしかしてジェイドは、僕が望めば、僕と……付き合ってくれたりするんですか?」
 アズールは声の震えを必死に押し隠した。振られるつもりしかなかったせいで混乱のただ中にいるが、ジェイドの反応からは、その望みは0ではない、ような気がする。洞窟の先に、光がわずかに差し込んでいる、ような気がする。その向こうに、どんなものが待ち構えているかは不明だったが。
「付き合う……」
 これまた青天の霹靂と言わんばかりに絶句した人魚は、アズールをじっと瞳の中央に置いた。その金と暗緑の瞳に、アズールの色彩が混じる。
「アズールは、僕と、そういう意味で付き合いたいのですか?」
「……まあ、はい。そうですよ」
「……付き合うって、どういうことを想定されているのでしょうか」
「どういうことって」
 考えもしなかった。必死に、今思いついたものかつジェイドが好みそうなものを上げる。
「恋人ですから……二人でどこかに出かける、とか……二人でゆっくり紅茶の試飲などをして過ごす、とかでもいいですね……なんでもいいんだと思います、二人で何かするのであれば。……それに、ほら、こういう経験はのちのち、ビジネスの役に立つかもしれませんし」
「なるほど……」
 ジェイドはまた視線を紅茶に落とし、考え込みはじめた。何を考え込んでいるのかはもうアズールには分からなかった。ややあって、告げる。
「承知しました。付き合いましょう」
「…………」
 二の句が継げない。驚愕と呆れ、歓喜と困惑ーーさまざまな感情が入り混じって、アズールの脳内はとんでもないことになった。混乱の中、ひょっとして、と仮説を拾い上げる。ひょっとしてこの男、付き合う、ということを面白いこと扱いしていないか。これはジェイドにとっては面白いことなのか。というか、面白ければなんでもいいのか?
 どうにも複雑な思いは拭えなかったものの、それでもアズールは、高揚が全身を支配したのを感じた。今ならば飛行術で高く遠くまで飛んでいけそうな、そんな高揚。
「ですがアズール、僕は貴方のことが貴方のいう恋愛的な意味で好きなわけではありませんから、もしかしたら僕は貴方のご期待に添えないかもしれませんし、もしかしたら貴方もご不満が出るかもしれません」
 そして目の前の男は、その高揚を容赦なく落とす男でもあるのだった。
「ですからアズール、ひとまず期限を定めてみませんか」
「……期限?」
「契約には、契約期間の明記は必須でしょう?」
 面白いことならばなんでも楽しみたい人魚は、にこりと抜け目なく微笑んだ。その目にはキラキラと好奇心が渦巻いている。その微笑みに呆れつつもどきりとしてしまった自分は、もうどうしようもない。
 恋愛とビジネスを一緒にするなとか、何がお前の琴線に引っかかったんだとか、言いたいことも聞きたいこともいろいろとあったが、アズールはひとまず、ジェイドの気が変わらないうちに契約書を作成することにした。この先に何が待ち構えているかは、もう見ないことにして。

 契約書に記された期限は、30日間。
 月が再び欠け落ちて、空からいなくなるまでだ。