歌う、世界一つ隔てて。

 コツコツと、モストロ・ラウンジを点検して回るアズールの靴音だけが響く。
 閉店後のラウンジは、開店中とは打って変わって静かだ。シフトの従業員も全員上がってしまって、店の中にはもうアズールしかいなかった。
 照明を最低限に落とした薄暗い店内を、アズールはくまなく見渡す。今日も異常なし。いつもと変わりなし。――いや。
 ふとどこからか奇妙な視線を感じた。敵意ではない。ただやたらと強い。こちらをただ観察しているかのような、あるいは獲物を見定めているかのような、ちりつく鬱陶しさのある視線。これは――と、眉を寄せて違和感のある方向を見返して、気づく。
 ラウンジ外の海、隅にある海藻群の隙間から、よく目立つ黄金色がじっとこちらを見ている。その輝きだけが鮮烈だったから、ジェイド・リーチの瞳だ、と気付くのに少々時間を要した。
「……お前か。何をやっているんですか?」
 ジェイドは人魚姿のまま、その体色によく似た海藻の森の中に寝そべっていた。アズールがその視線に気づいても、動じた風でもない。ただにこにこと口角を上げて、機嫌よさそうに目を細めただけだ。海藻が揺れ動くリズムに合わせて、ゆっくりと尾を揺らしている。
 今日ジェイドは非番だったはずだと思ったところで、そういえば、そろそろ彼の変身薬が切れるタイミングだったことを思い出す。ジェイドはよくこうやって、変身薬が切れそうなタイミングを見計って外海に泳ぎに行く。海に戻りたいときがあるのだろう、というふうに理解していた。その気持ちは本能的なものだから、少しだけ分かる。アズールがそれに付き合ったことはないが。
 フロイドはというとジェイドと同様で、よく一緒に泳いでいたりもする。ただし彼の方は彼の方で、薬が切れるタイミングなんて考えないのが困りものだった。地上の光が届きやすいこの海で、人間などより遥かに大きいウツボ2匹がキラキラと光の粒子を撒き散らして戯れる様は、このちっぽけな小瓶のような空間から見るとどこか別世界じみていて、それはそれは圧巻だった。彼らの物騒さが知れ渡る前は、これで集客できないかなどと思ったものだ。
 ほら、こうして見ると、やっぱり綺麗だ。
 ガラス一枚隔てることで、気づくこともある。
 そのジェイドはアズールに意味深に微笑むと、海藻の間をずるりとくぐり抜けて、色鮮やかな珊瑚の上をゆったりと泳いで窓際に近寄ってきた。その周囲に小魚の1匹もいないことに気づき、アズールは顔をしかめる。
「おい。……ちょっと。蹴散らしたんじゃないでしょうね」
 外海の雄大な珊瑚と海藻の森は、まるで最初からそこにそのままあったかのように注意深く見せかけられているが、その実ジェイドが多大な労力を払ってつくりあげた人工的な環境だ。多種多様な珊瑚がバランスよく共存し、綺麗でか弱い魚達が自らそこに留まりたがるように。見目よく居心地よくなるように、労力を凝らされた一品。つまりはジェイドのテラリウム趣味と似たようなものだろうとアズールは踏んでいて、ただしこちらの実益にも繋がるものなので、アズールもあれこれと口出しをしたものだ。
 その、本来そこかしこにいるはずの小魚が、どこにも見当たらない。すぐそこに捕食者がいれば当然なのかもしれないが、まさか食べたんじゃないだろうな、と胡乱げに見上げたところで、ジェイドとぱちりと視線が合った。にっとその目が細まり、口がぱくぱくと動く。
「なんです?」
 海の中と海の外は全く別の世界だ。特にオクタヴィネル寮の窓は分厚いアクリルガラスでつくられていて、高度な魔法防壁もかけられている。海底火山の噴火のような大きな衝撃波ならともかく、日常会話程度の音の波は、寮の内部には届かない。あいにくアズールは読唇術なんてものも身につけていない。
「聞こえていませんよ」
 こちらの言ったことは分かっているのだろう、やつはにやりと口を吊り上げて笑った。何がしたいんだ。
 ジェイドは流麗に目蓋を閉じて、珍しく大きく口を開けた。エラをパタパタと開閉させ、海の獰猛な生き物らしい、無駄なく引き締まった腹部が収縮する。
(――あ、)
 歌っている? あのジェイドが、海の中で?
 呆気に取られたアズールは、カツカツと窓際まで近寄った。窓に手を当てて、外の海を覗き込む。
 ジェイドが歌うなんて珍しい。普段は「大口を開けるなんて恥ずかしいです」などと言っては渋り、なんだかんだとうまく回避するようなやつなのに。そのくせ、フロイドやアズールの歌は聞きたがるような嫌味なやつなのに。
 それほど機嫌が良かったのだろうか。何を歌っているのだろう。聞きたい。ジェイドの歌を、聞きたい。なにせ滅多に聞けるものではないのだ。けれどもこの分厚い壁に閉ざされた世界の中だと、その振動の一つさえ届きやしない。海の中にいれば、それこそうるさいまでに伝わってくるのだろうに――、と、アズールが衝動に任せてガラスに鼻先が触れそうなまでに近づいて覗き込んだ、そのとき。
 ジェイドは目を薄く開けた。アズールが我に帰るより早く、その呆けた顔を覗き込み、ひどく妖しく笑う。アズールの指先を、ガラス越しにその鋭い爪でつつっとなぞる。そうして誘うように、ことさら大きく口を開けた。――アズールを海の中に誘い込んでいるのだ。そう理解して、アズールは眉根をきつく寄せた。腹の内側で膨らんでいた、妙な衝動がすっと冷めていく。
 こいつの思惑に乗ってたまるか。
 人魚の歌に引き寄せられるなんて、どこぞの愚かな人間じゃあるまいし。

 アズールはぐっと踵を返し、足早にその誘惑の引力から離れた。
 おやおや、と残念そうなジェイドの声が、届くはずもないのに聞こえた気がした。
===

 ◇

 踵を返したアズールは、ラウンジの隅にぽつんと置かれているアップライトピアノの蓋を開けた。これは実家から贈られてきたもので、別にここに置く必要もなかったのだが、ピアノというものがある内装は悪くなかったし、たまに弾くのも誰かに弾かせるのも評判が良かったので、いまだここにある。それに、ウツボたちの機嫌も良くなることだし。
 鍵盤の上に敷いてある紫色のキーカバーを取って、白鍵を一つ叩いた。芯を持った音がラウンジ内に響く。|A《アー》。はじまりの音。今ここにジェイドがいればいいのに。今ここにジェイドがいれば、同じ音で応えてくれただろうに。でもここにジェイドはいないし、きっとこの音も聞こえちゃいないのだ。
 そのままアズールは椅子に腰掛けて、最後に一度、ガラスの向こう側にいるジェイドをちらりとだけ見て、見せつけるように演奏を始めた。ピアノの伴奏に乗せて、人間の声帯を震わせる。――恋の歌だ。人魚に惑わされた、愚かな商人の歌。
 アズールがピアノを自発的に弾くのも珍しい。たまにウツボ2匹にせがまれて弾くか、指がたるまないように軽く練習するくらいだった。……正直な話、もうこの趣味をやめてもいいかと思っていたりもする。商売にするにはお遊びレベルだし、極めるにはコスパが悪すぎる。それに、今の自分の役に立つことなど滅多にないのだし。
 でもこうやって、音楽で何かを語れるのは悪くない。
 低く伸びやかで感傷めいた旋律に身を任せながら、歌う。歌いながら、思う。この声が向こうに届かないだろうか。聞こえていない相手のために歌うには、ここでこの感情を直視してしまうのは苦しすぎる。この思いが向こうに届かないだろうか。でも、向こう側に行かないことを選んだのはアズール自身なのだから、所詮これは独り善がり、自分のための行為でしかないけれど。
 ジェイドは今どうしているだろう。
 まだそこにいるだろうか。まだそこにいて、先ほどまでのアズールのように、壁の向こうからじっと観察しているだろうか。それとも、アズールが誘いに引っかからなかったことをつまらないと思って、もう泳ぎ去ってしまっただろうか。
 振り返る気にはならなかった。
 どうせ一筋縄ではいかない相手なのだ。

 ◇

 曲が終盤に差し掛かったころだった。
 コツコツと靴音が響いて、アズールが横目でそちらを見れば、そこにはきっちりと寮服を着込んだジェイドが立っていた。
 最後の和音を鳴らし終えると、規則正しく拍手が奏でられる。にこやかなよそゆきの笑みで、ジェイドは上部だけは上機嫌そうに告げる。
「珍しいですね。貴方が一人でピアノを弾くなんて」
「気まぐれです」
 お前と同じだ、とその目を見返せば、ジェイドは嫌味たらしく眉を下げて笑った。不機嫌そうだ。
「ひどくありませんか? あちらに来てくださってもよかったのに。僕はあちらで、貴方に歌いたかったのに。あちらもこちらもさして変わらないでしょうに」
「あの海の中にピアノなんてないでしょう?」
「……置いてみましょうか」
「やめろ。景観が変なことになります」
 それに、と言葉を続けた。声を上擦らせないように、変に動揺を乗せないように、気をつけながら。この人魚に丸ごと食われてしまうわけにはいかないから。
「僕はここで、お前に歌いたかったんです。……ねえ、ジェイドはもう歌ってはくれないんですか?」
 仕方のない人だというようにジェイドの目尻がやわく緩み、その口がゆるりと開かれた。

 ◇

「何を弾いてくださるんです? アズールが寂しいようなので、仕方がないからここでも歌ってあげますよ」
「は? 寂しいとは言ってないだろ」
「ふふふ」